第二幕 目覚めを待ち
それが駄目な事なのは解ってた。
でも、地面に染み込んだ真っ赤な液体の中で、真っ白な顔にいくつもの青い跡を刻んで横たわっているその姿を放っておく事は出来なかった。
「容態はどうだ……?」
木戸がゆっくりと開き、杖を付いた老人が顔を覗かせる。この村の長老様だ。
「はい、もう峠は越えました」
桶に水を汲みながら、笑みを浮かべて応えれば、長老様が口髭の陰でほっと息を吐いたのが分かった。
やっぱり心配してくれてるんだ……
疲れでぎこちなかった笑みが自然と解れた。
「そうか…………」
あくまで仏頂面を保ったままそう呟いて、長老様は手近にあった椅子を引寄せ座る。
表情や言葉とは裏腹に、ちゃんと話を聞かせろ、というのが態度に出ている。
本当は直ぐに水を持っていって、彼の汗を拭ってあげたかったのだけど、仕方がないと長老様の前へと腰を下ろす。
長老様は、村で一番偉い人だからというのもあるけれど、両親を亡くしたわたしにとっては親代わりでもあるから、無下には出来ない。
「もう目立った傷は塞がりました……頭の怪我も皮膚が裂けただけで…………後は意識が戻ればいいんだけど……」
「……そうか」
「あっ、でも!昨晩ちょっとだけ目が醒めて……」
話している内に段々と敬語が崩れていく。
少し前まで同じ屋根の下で暮らし、「おじいちゃん」と呼んでいたのだから仕方無い。
「折れた骨は自然にくっつくのを待つべきですが、意識が戻ればもう心配ないです」
慌てて言葉を正す。
「うむ……解った。後で若い衆に食材などを持ってこさせる。必要な物があれば云っておけ」
長老様はそう言って立ち上がるとすぐに背を向け戸口へと向かう。
腰の曲がった小さな背中が少し寂しそうに見えた気がした。
「ありがとう……ございます」
「…………お前も少し休みなさい」
ぼそりと小さくそう言って、長老様は出ていった。
本当はわたしが疲れてるんじゃないかってみにきてくれたんだ……。
不器用な優しさがなんだか胸を暖かくして、疲れた身体が少し軽くなった気がした。
わたしのお父さんは、六年前、わたしが四歳の時に亡くなった。
物心ついてすぐの事だったから、よく覚えていないが、村に戦の火の粉が飛び火するのを防ぐために闘って亡くなったらしい。
だとすると、今も村はこうして平和なのだから、お父さんは村をちゃんと護れたという事なんだと思っている。
お母さんはわたしを産んですぐに亡くなっていたから、お父さんがいなくなって、私は独りぼっちになった。
そんなわたしの面倒を観てくれたのがおじいちゃん―――長老様だった。
長老様は、わたしを自分の家に住まわせてくれ、本当の娘のように大切に育ててくれた。
なのにわたしは、十歳になった今年「両親が暮らした家で暮らしたい」と我が儘を言って、長老様の元を離れた。
長老様は、「ならば村の皆と同じように接しなさい」とだけ言って、私の自由にさせてくれた。
本当に心から感謝している。
我が儘をきいてくれただけではなく、その上でまだ子供なわたしが一人でも暮らしていけるよう常に見守ってくれているのだから。
長老様の背中を見送ると、立ち上がって再び水を汲む。
水桶は両親の使っていた物だから、わたしの体には少々大きい。その上水をなみなみ注いだものだから、溢さないように歩くのには神経がいった。
部屋と部屋とを区切る暖簾をそーっと潜る。
家には台所がある部屋の他に二つ部屋がある。
一つはわたしの寝室で、わたしが生まれる前はお母さんが使っていたお部屋だ。そしてもう一つが父が使っていた寝室―――――そこの少し大きな寝台に彼は変わらず横たわっていた。
傷は殆ど塞がったものの、腕の骨はまだ折れたまま。たくさん血を流したせいで顔色は悪く、漏れる呼気は荒い。
目を覚ましてくれさえすれば、ご飯を食べて栄気を養うこともできるが、今のままでは体力が失われていくばかりだ。
起きれば痛みもひどく感じる事になるだろうけど、起きてくれなければ衰弱が進んでいくだけ。
痛い思いをして欲しくはないが、複雑な気持ちだった。
傷付いた彼を見付けたのは本当に偶然の事だった。
二日前、長老様が最近腰痛が激しいと仰有っていたので、痛み止に効く薬草を山の麓まで摘みに行く事にした。
その薬草が山の麓の林道近くに群生する木の根元にしか生育しないものだという事は知っていたのだけれど、村の決まりで麓には大人でないと行ってはいけない事になっていた。
だから秘密でこっそりと行った。その薬草の存在はわたししか知らないもので、取ってきて煎じてしまえば咎められる事もないと思っていた。
けれど、そこでわたしは彼を見つけてしまった。
すぐに応急措置を施したわたしは、なんとか彼の命を繋ぎ止める事は出来たものの、根を詰めすぎたせいでその場で倒れてしまった。
そして気が付いた時には、わたしは彼と共に村に運び込まれていた。
沢山の偶然が重ならなければ、わたしは彼に出会う事も、助ける事も出来なかったと思う。
長老様や村の皆の助けがあったからこそ、わたしも彼も助かった。
だからこそ、絶対彼を死なせるわけにはいかなかった。
手拭いに水を含ませて、彼の額や首もとに滲んだ汗を拭き取る。
傷や折れた骨が熱を持ち始めたのかもしれない。
呼吸も荒くなってきたし、水分を摂らせたから、大分汗をかくようになってきた。
後で、誰かに頼んで着替えさせてあげたほうがいいかもしれない。
わたしが出来ればいいのだが、彼とわたしでは随分体格差があって難しい。
「ちょっとの間、我慢して下さいね」
露出している部分の汗を出来るだけ拭ってやり、そう声をかける。
返事は返ってこない。
「早く起きて、お名前教えて下さい」
重ねてそう呟き、そっと彼の手を握った。
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