第2篇② 神の手

 男はようやく跳ね起きた。上体を起こした勢いでそのまま立ち上がるほど。


 数秒間の間、水を持つ腕にそれ以上の変化がないか見守った後に男は水へ手を伸ばす。見間違えるはずもない。謎の腕から受け取った物は正真正銘の水だった。


 市販のよく見るラベルが付いたペットボトルの水……。ワープしたようにどこからともなく謎の腕の手の平へ現れた。状況から察するに、明らかに自分の声に反応して。


 これは望んだものを持ってきてくれる腕のなのかもしれない……。


 男はすぐにその思考へ辿り着いた。そうと言うよりもそれしか考えられない。


 男が「水」と言ったから水が出てきたのだ。そう男は思った。


 再び男はこれは夢なのじゃないかという気がして、部屋を見渡した。よく見慣れた散らかった部屋で、自分のパンツやタバコの吸い殻が目に付く。ベタに頬をつねってみても痛くはない。夢ではない。だから言った。


「100万円くれ」


 すると、謎の腕は先程と同じように手を開いてから掴んだ。その中には万札の札束があった……。


 男の人生はその日からがらりと変わった。無色の何もない生活から、色とりどりの好きな物が好きなだけ手に入る生活。


 毎日の食事の平均食費は何倍にも跳ね上がった。その日の気分で食べたい料理を選ぶと、その中でも一番高級で高い物をインターネットで調べて取り寄せた。何かを買うときはなるべく安いものを選んでいた男が、衣類から電化製品まで選りすぐりの物を使うようになった。


 そしてその生活の中で謎の腕に関するいくつかのルールも分かった。


 声に出した物なら大体の物は取ってきてくれるけれど、持ってくる物には重さと大きさについて制限がある。調べてみたところ片腕で持ち上げられるものならいけるというのが男の答えだった。例えば、同じ電化製品でも冷蔵庫は無理で電子レンジならいけた。現実的に片腕に乗っかるサイズでないといけない。


 しかし、大きいものが欲しければ金を取り寄せて普通に買えばいい。どうしても欲しいのならそうすれば手に入るので実質何でも手に入る。


 制限というのはそのくらいであとは地球の裏側からでも物を取り寄せることができた。ブラジルにしかない商品を望んでみても、日本の物を願った時と同じ速度で現物が届いた。ブラジル産の本場のコーヒー豆で淹れるコーヒーを飲むのも男の日課になった。


 そして、1日に取り寄せられる数や量といった制限は存在しない。


 これは限界値を試した訳ではないが、いくら言っても謎の腕が休むことは無かった。飴玉を一つづつ取り寄せた日もあったが、1時間言い続けても持ってきた。めんどくさくなって1時間だけでやめた。たぶん無限だと思った。


 それほどに優れた人智を越えた物質。疑いようがない。そんなものが一体どうして自分のもとに現れたのか男は考えた。


 出した答えは神からの恵みだった。不幸な自分に神が気まぐれで幸福の塊をくれたのだ。


 こういう旨い話には必ず裏がある。男にとっては自分の半生で重々承知のことだった。創作物の類でも何でも手に入るといった状況はよくある。その最後は大体の場合痛い目を見て終わる。


 この腕がもしそれと同じだったとしても、男はもう後戻りできないところまで来ていた。手に入れた幸福分の不幸なんかが訪れるのならその時はもう確実に死ぬ。だからその線を考えるのはやめた。考えても無駄なことを考えていても仕方がない。


 これは神の手だ。不気味な感じは一切しない。


 鬼の手や悪魔の手なんかには見えない。普通の人間の手だ。むしろ形が整っていて普通の人間の物よりもずっと綺麗。神が差し伸べてくれた救いの手なのだ――。


 ある日、男は仕事を終えた夜にウイスキーを飲みながらテレビを見ていた。寝ることの他にもう一つあった男の趣味、アイドルの追っかけをしている最中だった。


 男はふざけて神の手に言った。テレビに映る推しの子を指差して。


「あの子のハートがほしい」


 次の瞬間、神の手の中には人間の心臓が収まった。

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