愛を描く女

アサツミヒロイ

愛を描く女

アキ目線 ナレーション:

長年この日本において愛されてきた歌手の男が死んだ。自殺だった。

シンガーソングライターとして、自身の曲を自らの手で製作してきた男のほとんどの曲は、切ないけれど、情熱的な、人々の共感を強く得るラブソングだった。

世間は彼の死に対して、見ているこちらがうんざりするほど騒ぎ立てた。やれスランプだの、やれ陰謀だのと、聞けば聞くほどにくだらないことを、相手が死んでいることをいいことに、言葉を選ばずに噂をしていた。

それでも浮気だとか不倫だとか、そういった噂が立たなかったわけではないが、そんな噂は誰も信じなかった。



ト書き エリカが呟く。


エリカ:「それは、私たちが本当に愛し合っている夫婦だったから。国民がそう信じて、疑わなかったからよ」



アキ目線 ナレーション:

「絵画教室?」と、友人は言った。「何を今さら」と、友人は続けた。

無理もないかもしれない。僕は美大の油彩科に通う二年生で、自分で言うのも何だが、はっきり言って成績優秀、すでに何度もコンクール等やアート作品を募るコンペで入賞しているし、在学中に大学主催で小さな個展が開かれるなど、若くして活躍している学生アーティストというやつだ。それなのに、絵画教室に通おうと思う、というのは、意外というほどではないにせよ、確かに今さらだという言葉は理解できる。



アキ:「基礎って大事かな~……なんてさ」

友人:「まあ、確かにそうだけど。スランプなわけ?」

アキ:「そういうわけじゃないよ。でも、何か刺激が欲しい、というか」

友人:「マンネリ?」

アキ:「う~ん、それも微妙に違うなあ」

友人:「まあ、なんでもいいけど。お前も悩みすぎるなよ」

アキ:「お前も、って?」

友人:「歌手の佐野ハルカ。あの人、やっぱり作品作りで思い悩んで……ってことらしいよ」

アキ:「らしいよって、噂だろ?」

友人:「そうだけど。本当のことなんて誰にもわかんないけどさ、でもそれくらいしか考えられなくないか? 私生活はうまくいってたんだろ」

アキ:「私生活ったって、色々あるじゃん。夫婦生活だけが私生活じゃない」

友人:「そうかあ? 俺たちだって絵描きの端くれ程度だけどさ、寝て起きて飯食って、絵描いて、まあ俺らは金ないからバイトなんかもして。あとは家族と過ごして。それくらいでだいたい終わりじゃん。悩みがあるっていったら、その中でのどれかだろ?」

アキ:「……まあ、そうだけど」

友人:「そこに家族についての悩みなんかがあれば違うかもしれないけど、夫婦円満、あんなにもお互いを認め合って愛し合った夫婦はいないとまで言われてて、万が一ってこともないだろ」

アキ:「……相手が、あの三代エリカだから?」

友人:「あの人の作品は、お前だって知ってるだろ。あれが嘘だって、俺には思えないけど」

アキ:「……そうだね。だから、なんだけど……」

友人:「なんて?」

アキ:「なんでもないよ。そう、だからこれから先生に会いに行かなくちゃなんだ。じゃあ、また明日ね」

友人:「どうだったか、後で教えろよ~」



アキ目線 ナレーション:

そうだ、僕は三代エリカの作品を知っている。愛してすらいる。尊敬して、焦がれて、その才能が……いや、その絵を生み出せるその何かが羨ましくて、それが何なのかを知りたかった。

三代エリカは、もう自殺の報からふた月も経つ、佐野ハルカという歌手の男の妻だった。

佐野のニュースは、もううんざりするほど聞いた。そして、噂はもうひとつ。


三代エリカが夫の死後、その絵を描けなくなってしまったのだという。「どうして」という憤りも、「そういうことにもなるかもな」という納得も、どちらも自分のなかにあった。それほどまでに、三代エリカという女の絵は「愛」を描いていたからだ。

愛して、愛されて、愛を求めて、愛を与えて。目に見えるはずのない愛を、見えるように絵に描いていた。それは、誰が見てもこれが、これこそが愛だと思える代物だったのだ。


友人には話せなかったことがある。それは、これから僕が通うことになる絵画教室というのは、その三代エリカが講師をする教室だということだ。

僕が好んでよく行く、とある寂れた画廊にぽつんと、ただ一枚のビラが貼ってあった。

「絵画教室、生徒募集。やる気のある人。講師、三代エリカ」

……ビラというよりも、ただのメモに走り書きしたような紙切れだった。展示会のポスターなどがところ狭しと貼り付けられている掲示板の隙間を埋めるように、仕方がないかのように、その簡素すぎる募集要項は貼ってあったのだ。

その紙切れには連絡先すら書かれていなくて、画廊のおじさんに訊ねてみたら、確認するよ、と短く返され、後日おじさんから僕の携帯電話へと日程の連絡が来た。それが今日の十七時だった。僕はその電話で、ふと三代エリカが絵を描けなくなった、と聞いたのだった。



ト書き エリカのアトリエを訪れるアキ。チャイムを鳴らし、中に声をかける。


アキ:「ごめんください」

エリカ:「どうぞ」


アキ目線 ナレーション:

僕はなんでもないことのように彼女の声が返ってきたことに驚いた。彼女のアトリエを訪れているのだから彼女の声がするのは当たり前のはずなのに、僕はそのあまり聞き慣れない憧れの人の声で、思わずどきりとした。


エリカ:「……何を変な顔をしているの? 入りなさい」

アキ:「すみません、失礼します! あ、あの、こんにちは」

エリカ:「はい、こんにちは。よくもまあわざわざこんなところまで」

アキ:「はは……確かにちょっと遠かったです。それに、まさか本当に三代エリカ先生が教室を開かれているなんて、半信半疑で……」

エリカ:「そう。まあ、そうでしょうね。どうぞ、そのへん適当に座って」


ト書き 適当な椅子に座るアキ。エリカは茶を出してくれる。


エリカ:「先に聞いておきたいんだけど、あなたどうしてここへ来たの?」

アキ:「ええ? と、言いますと?」

エリカ:「わかりやすく聞くと、どうしてあんな胡散臭くて適当な紙切れに書いてある絵画教室なんてものに応募してきたのか? という話ね」

アキ:「あ、ああ。なるほど。それは確かに……というか、あれはご自身でもそういう認識なんですね」

エリカ:「そりゃそうよ。あなたが意外とものわかりのよさそうな、賢そうな子だからぶっちゃけるけど、私、人に絵を教えたことなんてないの。絵どころか何かを教えるってこと自体が未経験ね。私が自分の絵が描けなくなったってんで、お節介な恩師がじゃあ若い人やら初心者相手に講師でもしたらどうだ~なんて言うから……って、……」


ト書き 話している途中で話しすぎてしまった、とばつの悪そうな顔をするエリカ。

しかしそれを見てアキはさほど驚いていない。


アキ:「……やっぱり、今、描けなくなってしまったんですか」

エリカ:「知っているの」

アキ:「その、恩師って人が、僕の大学の講師と仲が良いらしくて。そこまで広がってるわけじゃないですけど、その、風の噂で」

エリカ:「そう。ある程度噂になってしまうのは、まあ、気に入らないけど……想定内よ。で、あなたは私が今絵が描けないって知ってて応募してきたってこと?」

アキ:「はい」

エリカ:「……何が目的? 絵を教わりに来たんじゃないの?」

アキ:「そうですね。あの……香坂アキ、って知っていますか」

エリカ:「ああ、ここ数年よく美術誌に載ってたりするわね。あまりどういうものを描いてるのかまでは調べてないけど、若手で評判の画家だかアーティストだかって」

アキ:「それ、僕なんです。普通に絵画……人物だったり風景だったりも描いてますけど、テーマのあるコンクールや企業のキービジュアル用のコンペティション用の絵も描いたりしています」

エリカ:「へえ! そうだったの。ああ、あの飲料メーカーの絵は、この前見たわ」

アキ:「ありがとうございます」

エリカ:「じゃあなおさら、私に教わることなんてないんじゃない?」

アキ:「いいえ、実はちょっと……スランプというか。だから……何かインプット、刺激を受けることも大事じゃないかっていう風に言われて、それもそうだと思ったんです。それで、ずっとファンだった先生の名前を画廊で見つけました」

エリカ:「……はあ、なるほどね……。しかし、あんな潰れかけの画廊でよく見つけたものね」

アキ:「あそこ、よく行くんです。なんかもう今にも崩れそうで、潰れかけてる感じが好きで」

エリカ:「あなた、見かけと描く絵によらず、悪趣味なのね」

アキ:「そうですか?」


エリカ:「まあいいわ。とりあえず、何か描いてみなさいよ」

アキ:「いきなりですね」

エリカ:「一応絵画教室なんだから、お話してるだけじゃそれっぽくならないじゃない」

アキ:「それもそうですね」


ト書き エリカの言うとおり、絵の準備を始めるアキ。エリカはアキの取り出した道具を眺めている。


アキ:「何を描きますか?」

エリカ:「……そうね、じゃあこれ」


ト書き エリカはアトリエに放置されていた木でできたニワトリのオブジェを指差す。


アキ:「……ニワトリ?」

エリカ:「何か問題ある?」

アキ:「いえ。好きなんですか? ニワトリ」

エリカ:「好きね。生産的な感じがして好きよ」

アキ:「そういう理由?」

エリカ:「いけない? 憧れるわ、生産的な存在」

アキ:「それはわかる気がします」

エリカ:「意外と話がわかるじゃない」

アキ:「恐縮です」


ト書き 淡々と絵を描き進めるアキ。エリカはそれをじっと見ている。


エリカ:「……つまらない絵ね」

アキ:「……! そう思いますか」

エリカ:「なんで嬉しそうなのよ……そうね、なんだか、まるで上手ねって褒められるために描いてる絵みたい。ここのちょっとトリッキーな色使いの部分も、このオブジェをデザインした人の意図をきちんと汲み取ったみたいに忠実に、でも決して退屈させないように絵画ならではの表現をして巧みに良さを見せてる。『だからこそつまらない』。このオブジェをモチーフに描くならこう描くのがいいっていう、まるで『お手本』みたいだわ。心底つまらなくて、気持ちが悪い」


ト書き 絶賛しているのか酷評しているのかわからないエリカの言い分を、頷きながら聞くアキ。

顔を俯かせて落ち込んでいるのかと思えば、嬉しそうにうっすらと笑っている。


アキ:「あの……どうして絵が描けなくなったのか、聞いてもいいですか」

エリカ:「不躾ね、あなた。あなたの描く絵と同じ。……でもまあいいわ、教えてあげる。そんな大した理由でもないし」

アキ:「いいんですか」

エリカ:「聞いておきながら遠慮するんじゃないわよ。まあ、おおかた主人が死んだからだって思っているんでしょ。もしくは、そういう風に噂されてる」

アキ:「噂では、旦那さんを亡くしたショックで、と聞いてます」

エリカ:「そうね、半分くらいはアタリ。でももう半分くらいは全然ハズレね。……だって、私はあの人のことを『愛していなかった』んだもの。少なくとも愛した夫を亡くした、なんてショックは受けていないわ」

アキ 「え……?」


ト書き エリカの目は嘘をついている様子はない。


エリカ:「驚くのも無理ないって思うわ。このことは、私と、夫しか知らないんだもの。私たち、下手にどっちも有名人だからね、色々と言われてたでしょ。『理想の愛を手に入れた夫婦』だなんて言われていた。でも、そんなの嘘だったの。」


ト書き エリカは笑ったまま傷ついているような、複雑な表情のまま話し始める。


エリカ:「とは言っても、あの人……ハルカの愛は、まさにホンモノって感じだったわ。それは、私にもわかるの。ハルカは私のことを心底愛して、本当に身を焦がすみたいにして愛してくれたの。それはハルカの歌声からも溢れ出すみたいに感じ取れて、だから佐野ハルカは世間に評価されて、愛を歌う歌手として成功したのよね」

アキ:「それじゃあ、先生は……」

エリカ:「ハルカがホンモノなら、私はニセモノだったわけよ。私は生まれながらに、誰かを愛することを知らないの。恋も愛も、わからないのよ。無性愛者って言葉があるのを、最近になって知ったわ。今にして思えば、私はきっとそれね。ハルカのこと、好きだったわ。でもそれは親や兄弟や友達への好きとか大事って気持ちと一緒なの。私は幸い家庭環境もよかったし、兄弟とも仲がいいし、友達にも恵まれた。みんなのことが好きで、みんなが傷ついたら悲しいしみんなが嬉しそうにしていたら嬉しい。みんなが私のことを同じように大切に思ってくれたら嬉しいし、ないがしろにされたら悲しいと感じるわ。それも、ひとつの愛じゃない?」

アキ:「それはそうですよね。人間愛……家族愛ってやつでしょうか?」

エリカ:「きっと名前をつけるならそれなのよね。確かにそういうものなら私も持っているの。でも、ハルカが私にくれたような、『キミと一生を添い遂げたい』とか、『キミを僕だけのものにしたい』みたいな気持ちはさっぱりわからないの。恋愛感情っていうものが、私の中からはごっそり抜け落ちているのよ。別に過去につらい恋愛をしたとか、そんなものでもないのよ。だって始めっから持っていないんだから。だから私はハルカが他の女を好きになったって、他の女とセックスしたって別になんとも思わないの。それって、絶対に恋愛としての愛じゃあないでしょう」

アキ:「……そうですね」

エリカ:「私は、愛がわからない。だから付き合おうって言われたときも結婚するときも、ハルカにきちんと伝えたわ。私は恋愛ができないから、一生あなたが求めるようにあなたを愛することはできないって。一生あなたは、あなたの言う『特別』にはなれないのよって言ったわ」

アキ:「ハルカさんは……それでもいいって、言ったんですね」

エリカ:「馬鹿な男よね。こんな女を好きになって、一生好きになってもらえなくてもいいだなんて言って、人生棒に振ったの。本当に馬鹿で、可哀相な男」

アキ:「……」


エリカ:「でも私も同じくらい馬鹿だった。ハルカがあんまりにも一途に愛してくれたものだから、もしかしたらいつか私にもホンモノの愛がわかるかしらと思ってしまったの。私は、それを捜し求めるみたいにして絵をいくつも描いた」

アキ:「それが、三代エリカの作品たちですか」

エリカ:「そうよ、笑えるでしょ。佐野ハルカと三代エリカの結婚が世間に発表されて、それからは私の愛を想像して描いた絵たちが、『なんて美しい愛の絵なんだ』『これこそが愛を手にした人の姿だ』とか、そんな風に評価されていったの。おかしいわよね、私が描いたのはハルカの持っていた愛であったり、私が愛を返せる人間だとしたらこうかしらなんて、ただの想像だったのに。決して、私から出てきたものではないのに、まるで私がホンモノの愛を知り尽くした人間みたいに世間は勘違いしていったわ。私は世間からの評価と自分とのギャップに苦しんで、たくさん傷ついていった」

アキ:「……まるで自分が、世間に嘘をついているみたいだから」

エリカ:「嘘でしかないでしょ。挙句ついたあだ名が『愛を描く女』よ。本当にくだらない、たいそうな名前……それでも私は、筆を折ることができなかった。世間の声に苦しんで、傷つきながらも絵を描き続ける私を見て……描き続けるほどに傷ついていく私を見て、ハルカはそれを自分のせいだって責めたのよ」

アキ:「……まさか、佐野ハルカは」

エリカ:「そう。このまま一緒に居たら、一生エリカを苦しめることになるって。そう言ってハルカもどんどん病んでいった。私を苦しめ続けるとわかっていても、私への愛を捨てられない自分に、そして何より、どんなに良い歌を歌っても本当に届いてほしい人間には届かないことに、憤り続けて、ついに狂ってしまったのね……優しい男だったから。何かのせいにも、誰かにぶつけることもできずに、自分を終わらせちゃった。そうしたらみんな楽になれるんだって。自分がいなくなれば、誰を苦しめることも、誰を騙すこともないって」

アキ:「そんな……そんなことって」

エリカ:「取り残されて、一人になった私はね、さすがに寂しくなるだろうと思ったの。さすがにハルカが恋しくなるだろうって思ったのよ。……でも、ならなかった。ただ、ハルカが哀れに思えて、私なんかと結婚しなければこんなことにはならなかったのになって、ただそれだけ。失って初めて気付く何か、なんて、そんなものないのね。そんなものはないってことだけ、知ったわ。私はそれに絶望したの」

アキ:「それで、絵が描けなくなった?」

エリカ:「これ以上、誰かを騙して、嘘をついて生きていくのが嫌になったの。結局自分を愛してくれた男ひとりを死なせた、知りもしない『愛の絵』なんて、これ以上自分で見たくもなかったのよ」


アキ目線 ナレーション:

自分の絵を一番近くで見続けなければならないのは、自分自身だ。得体も知れない愛なんてきれいごとの絵の具を、嘘の筆で塗り重ねてできた絵を、自分の作品だと言わねばならず、あまつさえそれが世間からの絶賛を得てしまったことを、不幸と呼ぶのは贅沢だろうか。僕はそうは思えない。それは、焦がれてやまなかったはずの三代エリカと僕自身が、あまりにも似ていたからだ。


エリカ:「……ごめんなさいね。こんな話、面白くもなんともないでしょう」

アキ:「いいえ……いや、面白いと言ったら失礼ですけど。すごくためになりました」

エリカ:「……ためになる?」

アキ:「先生、僕の絵を『つまらない絵だ』って言いましたよね」

エリカ:「ええ、言ったわ。そしてあなたは笑ってた。……どうして?」

アキ:「じゃあ次は、僕が身の上話をしましょう。とても退屈ですよ」

エリカ:「聞かせてちょうだい」


アキ:「僕、先生に自分の絵を『つまらない』と言ってもらえて、すごく嬉しかったんです。それは、僕自身がずっと、僕の絵を『つまらない絵だ』と思って描いていたからです」

エリカ:「絵を描くことが、好きじゃない?」

アキ:「いいえ、きっと、たまらなく好きなんだと思います。だって、できあがったものを『つまらない絵だ』なんて思いながらも描くのをやめないなんて、好きじゃなければできないでしょう?」

エリカ:「それもそうね。それは、私もきっと同じだわ……そうね、好きというより、それしかないから、と言ったほうがいいかしら」

アキ:「まさに、そんな感じです。僕は小さい頃から、両親から『アキは絵が上手ね』って言われながら生きてきました。僕はそれが誇らしくて、うまく言えないけれど、そう言われる僕こそが僕自身だと、そう思っていました」

エリカ:「生きがいって感じ?」

アキ:「言葉にしたら、それかもです。自分の好きなことで、誰かが喜んでくれる。そういうことが嬉しかったんだと思います。あるとき、地域の小学校で開かれた児童絵画コンクールに参加したんです。僕は事実絵が上手かったし、自信もありました。何より、大好きな鳩の絵を描いて、すごくよく描けたんです。今でも、よく覚えています。鳩が好きなんですよ、僕。好きなものを楽しんで描いて、その楽しいって気持ちが、すごく見て取れる、お気に入りの絵でした。……でもそれは、何の賞も貰えませんでした。どこにも飾られることなく、ただ僕の手元に返ってきました。優秀賞にも、努力賞にも、特別賞にも入れなくて、何の評価も貰えませんでした」

エリカ:「……箸にも棒にも、かからなかったわけね」

アキ:「僕、納得がいかなくて。生意気ですけど、どうしてなのか学校の先生に訊ねました。そうしたら、僕の絵は、『こどもらしくない』から、入賞からは外れたそうです」

エリカ:「……呆れた!」

アキ:「『上手すぎるから』『技術が高いのは伝わるが、こどもらしくない』『親にでも描かせたんじゃないか』……そんな風に言われたのを、今でもよく覚えています。僕の中で、何か、すごく大切にしてきたように思う何かが、ぼろぼろと崩れ落ちていくのがわかりました」

エリカ:「馬鹿らしい。たまにそういう話を耳に挟むけど、本当にあるのね」

アキ:「大人になった今では、僕もそう思います。本当に、馬鹿らしい。でも僕はどんなにショックを受けたところで、絵を描くことをやめることができませんでした。学生のうちは、そういう学校主催のコンクールみたいなものがたくさんあります。いくつかそういう挫折を繰り返した僕は、あるとき『世の中って、そういうものなんだ』と思うようになりました」

エリカ:「……だから、ああいう絵を描くのね」

アキ:「そうです。品評で『のびのびと描かれています』『自由な発想がすばらしいです』なんて、それ自体がその作品の優れているところなんじゃなくて、コンクールを主催する大人たちが、そういうものを求めてるってだけなんだと、僕は悟りました。だから僕は、大人たちが求める、『こういう絵がほしい』に応えるようになりました。それが、面白いくらいに評価されていくんですよ。そういうことを繰り返すうちに、何を求められているのか、その人たちが何を良いって言いたいのか、手に取るようにわかっていく。笑いが止まらなかったですよ」

エリカ:「誰にでもできることじゃないけど、あなたは運悪く、それができるくらいの技術があった」

アキ:「そうやって絵を描いていくうちに、どんどん僕の絵はつまらなくなった。誰かがこういうのを褒めたいと思っている絵をその通りに描く。その中に、僕らしさは必要ないんです。僕が描いていて楽しいとか、僕が何かをこう描きたいなんてものはいらない。余計なものでしかない。だから、僕の絵はただ上手いだけで、つまらないんです。先生の言う通り。この絵だって、絵画教室で課題を出された生徒が、美大に通ってる学生として優秀な絵を、このモチーフから受け取った情報をそのように描いただけです。その絵の中に、僕はいません。『美大に通う生徒』という存在は、いますけどね」

エリカ:「あなたは、それで上手く騙せてきたのね。私が、ずっと世間を騙してきたように」

アキ:「そうです。でも、僕はあなたに騙されていたけど、あなたは僕に騙されなかった。憧れていたあなたは、僕なんかより一枚か、それよりもっと上手(うわて)だった。それが、嬉しかったんですよ」

エリカ:「ひねくれてるわ、あなた」

アキ:「そうでしょうか?」

エリカ:「ええ、すごく。私と同じね」

アキ:「光栄です」

エリカ:「褒めてないわよ」



アキ:「すごく退屈な話だったでしょう」

エリカ:「そんなことないわ。人はしんどいとき、自分よりつらそうな人を探すものだから」

アキ:「ちょっと、比較対象にはならないと思うんですけど……」

エリカ:「まあ、そうね。でも、こういうのは気分の問題だから」


ト書き ひと呼吸置き、考える仕草を見せるアキ。エリカは首を傾げる。


アキ:「先生、グループ展やりましょうよ」

エリカ:「……何を考えてるのかと思えば。私、絵描けなくなったって言ったじゃない」

アキ:「描けばいいでしょ。どんなに無様でも、嘘じゃない絵を描けばいい」

エリカ:「簡単に言うわね」

アキ:「言うのは簡単です。僕自身、『嘘じゃない絵』なんて描くのは久しぶりだから、描けるかどうかはわからないけど」

エリカ:「アキくんが久しぶりなら、私は何なのよ。もう何十年も、描きたい絵なんて描いてないのよ」

アキ:「だからやるんです。大丈夫ですよ、今さら僕らが好き勝手に描いた絵を見たって、どうせ世間はまたそれを自分たちの見たいように批評するんです。また、騙してやりましょうよ。愛だの自由だの平和だの、好き勝手に講釈垂れ流させてやりましょう。それ見て、ふたりで笑いましょうよ。そしてまた、好きに絵を描きましょう。絵なんて、本当はそういうものでしょ」


エリカ目線 ナレーション:

なんて生意気な子なんだろう。そして、なんて愚直な子なんだろう。そう思った。

アキくんは、嘘をつき続けた自分から、大人を阿り続けてきた自分から、なんとか抜け出そうとして足掻いている。その抜け道を探して、私の絵画教室なんて胡散臭いものにやってきたんだとわかった。


その静かにもがく姿が、私にはすごく眩しかった。ハルカが死んでまだ三か月。もう三か月。すっかり歳を取った自分には、その時間が長いのか短いのか、微妙にわからない三か月間だった。こんな情熱をぶつけられたのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。この子は何も、無茶なことを言っているわけではない。嘘をつくのを一緒にやめようと、私よりもうんと短いながらも、人を騙し続けた人生を歩んできた彼が、そう誘ってきてくれている。ただそれだけ。難しいことは、何も言っていないはずだ。


私はそう考えて、ふと笑ってしまった。そうだ。これは何も難しいことなんかじゃない。素直になるなんて、嘘をつくよりもずっと簡単なはずなのに、それをずっと忘れていた。つこうとしてついてきたわけじゃない嘘だったけれど、それにすっかり慣れてしまっていた。



エリカ:「……そうね。ニワトリでも描こうかしら」

アキ:「あはは! いいじゃないですか」

エリカ:「アキくんは、鳩描くのよ。好きなんでしょ? 鳩」

アキ:「鳥の絵の展示会ですか?」

エリカ:「誰が来るのよ、そんなの」

アキ:「来ますよ。これが何か意味のあるものだと信じた人たちが、見に来ます」

エリカ:「私、笑うの堪えられる自信ないわ」

アキ:「思いっきり、笑っちゃえばいいんですよ」




アキ目線 ナレーション:

何もかも、笑い飛ばしてしまえればいいと思った。これが自分だと言えるものがないのなら、これから作っていけばいいと思ったんだ。僕もエリカさんも、誰かを騙そうとか、欺こうとか、そういう考えがあったわけではない。結果的に、自分とはかけ離れたものを自分だと思い込まれてしまっただけだけれど、きっとそれを覆すのはすごく難しい。


であれば、覆そうとするのはやめよう。絵を描くのを無理にやめようとするのもやめよう。ただあるがままに、描きたいと思うものを描いてみよう。それはきっと、僕らが何にも縛られることなく、無垢だったころには、簡単にできていたはずなんだ。



エリカ目線 ナレーション:

それは、すごく幼い願望だと思った。けれど、色んなしがらみから解放されてしまった今、それに乗るのも悪くないと、私はこの、まだほんの子供な男の子に思わされてしまった。

背伸びをして、そこにありもしない何かに手を伸ばすのはもうやめよう。それは自分の手には決して入らないものだと受け入れよう。そうすれば、私たちはもっと自由になれるはずだ。


これは、私が気まぐれに書き殴ったメモの切れ端から始まった、なんでもない普通の人生の始まりのお話。


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