第29話 ちゃんと生きる
それが竹千代が相手の心理的なガードを壊す常套手段なのか、彼女はいきなり本題を切り出した。
「黒姫での仕事、お疲れ様だったね。噂は私も聞き及んでいるよ」
誠実な応対で相手から信頼を得るのではなく、相手に抗う気を失わせる話し方。この底知れぬ女の掌の上を脱するには、会話の主導権を取り戻さないといけない。
「私がフルーツや甘味を嗜んでいるのは意外かい?」
小熊の知る限り竹千代がスイーツを自ら好んで求めている姿は見たことが無い、ただ、そのフルーツに高価格高利潤という彼女の大好物が添えられているなら話は別。今度あの店に行った時に、この女が店に来たら、メロンパフェに一万円札を刻んでふりかけたら大喜びすると教えてやろうと思った。
「いい稼ぎにはなった」
小熊はそれだけ答えて、残り少なくなったチョコレート味の麦芽ミルクの最後の一口を飲む。味が均一的で意外性や風味の変化が無い。竹千代がそうしているように濁りや沈殿を残し、混ぜないまま飲んだほうが良かったのかと思った。椎がエスプレッソは底に溶け残った砂糖を最後に味わうのがご当地流だと言っていたのを思い出す。
「今日の面接はどうだったかい? それが小熊くんのお眼鏡に叶う仕事だったのか」
少なくともこの女には聞かれたくない問いだと思った。竹千代はどこにも雇われず誰にも使われることなく、彼女の才覚と能力を頼りに金銭を得ている。小熊はそうなりたくてなれなかった。ならなかったと言うべきか。黒姫での仕事は間違いなく小熊にしか出来ない事だった。そして今はあの葦裳という社長の下で働く事の判断を悩んでいる。
小熊は空のグラスを押しやって席を立った。伝票を手に取ろうとカウンターの上のホルダーを見ると、竹千代がいつの間にか自分の前にあるホルダーに差していた。
先ほどの赤毛の店員がすぐにやって来て、相変わらず仏頂面のまま厄介払いでもするかのようにグラスを片付ける。受け取りも片付けのセルフサービスである事を意味するカフェテリアの名に反したサービスだが、増築前はセルフ形式で、店員がサービスするスタイルにになってからも、皆がそう呼ぶからカフェテリアの名で通ってる。
グラスを回収した店員は大雑把にカウンターを拭く。ウエストはそこそこ締まってるがボリュームのある体型の店員を少しからかいたくなった小熊は、こちらを見もしない彼女の横顔に唇を近づけて言う。
「モルトミルクチョコレート、美味しかった。次は混ぜずに飲んでみる」
彼女は横を向いて小熊をにらみつけながら言った。
「ちゃんとそう言って注文してください」
それから怒っているような苛立っているような、複雑な表情を浮かべながら言う、喉がつっかえたような声
「…ちゃんとして…」
彼女はグラスを持ち、少し力を入れて足を踏みしめるような歩調で、最後まで笑顔一つ見せることなく歩き去った。
こっちもちゃんと生きるべく日々努めている。だからここに一杯のモルトミルクを飲みに来た、
きっとまた来るだろう。
小熊は席を立ち、背を伸ばしながら竹千代に言った。
「仕事先でメロンを貰った、一人で食べるには大きすぎる」
竹千代はバニラ味のモルトミルクを飲みながら「そうか」とだけ言った。
その日の日暮れ。時刻は中途半端だが、日没時間には一分の誤差も無い時間に、小熊の家に前に竹千代の軽バンが停まった。
小熊は窓の外の見て一つ鼻を鳴らし、三人分の夕食の最後の一皿をバーカウンターに並べた。
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