第30話 ブラック・ブッシュミルズ
ヘンなツールで玄関の鍵を開錠されてもたまらないので、小熊は玄関のドアを開けて二人を出迎えた。
いつもと変わり映えのしない黒いドレスの竹千代が立っていた。竹千代自らが仕立てた物だという事もいつも通り。家一軒が買える値段の和服や、ある国の王族が儀礼出席のため仕立てた民族衣装など、竹千代は常に最高の素材を纏っていて、いずれも死の匂いがする。今着ているビロードのワンピースドレスも、誰かの遺骸に掛けられた物だったんだろう。
竹千代はそれまで何度か小熊の家に来た時にそうであったように、手土産を持ってきた。
ブッシュミルズ・アイリッシュ・ウイスキー・ブラックラベル
あの黒姫の集落で交わされた会話を、竹千代はもう知っているのか、それとも自分に曾祖母の代でアイルランド人の血が入っている事などとうに調べ済みなのかもしれない。少なくとも偶然の一致は無い。竹千代という女の全ては必然の行動で出来ている。ランダムな幸運に頼ることは決してしない。
「私には飲めない。未成年だ」
小熊は瓶を押し返そうとしたが、竹千代は日本の酒屋でも売っているブッシュミルズとは度数も風味も異なる、決して国外には輸出されないブッシュミルズのドメスティックボトルを差し出しながら言った。
「小熊くんが無理とだいうのはロックやストレートだろう、でも、コーヒーの風味付けなら小熊くんの好むところだと思うのだが」
小熊は両手を上げた。この女に隠し事など無意味なんだろう。今日自分の家に呼んだ理由も、竹千代は小熊が高校の時に好んで飲んでいた物さえ知っている。
小熊はボトルを受け取ることはしなかったが、竹千代が靴で上がるスタイルの部屋に勝手に入り、バーカウンター背後の棚にブッシュミルズを置くに任せた。
空白の多い
小熊は玄関口で中の様子を窺い、小熊から入室の許可を与えられるのを待っている春目を引っ張りこむ。彼女も代り映えしない若草色のチュニック。途中でつんのめって転びそうになるが、安全靴の爪先を床で鳴らして立ち直る。カブに乗ってる時みたいだと思った。カブに乗る技術に関しては、春目は小熊を遥か上回る。
小熊は竹千代と春目にカウンター前に並べたスツールを手で示した。二人が許可を得て着席した後、自分はキッチン側に引っ張り込んだスツールに座る。
今日は一応ホスト役として二人に飯を出さなきゃならないし、小熊が檜の一枚板で自作した、幅も長さも充分なバーカウンターは、キッチン側からでも食事が出来る。
冷やした炭酸水を竹千代と春目、それから自分のグラスに注ぎ、形だけの乾杯をした後、夕食の時間が始まった。
小熊がバーカウンターに並べたのはサーモンステーキ。
キングサーモンの切り身をオーブンで焼き、ケッパーとマスタードのソースで味付けした物。
正直この二人に出すなら先日買った冷凍ワンプレートディナーのハングリー・マンをレンジで温めるだけで充分だと思ったが、いかんせん本国では労働者層向けの食事でも日本で買うと相応の高値がついているので、もっと安上がりにすべく、最近一緒にバイク便の仕事をした清里のシスター、桜井叔江にLINEで聞いてみたところ、八王子にある魚の卸売り店を紹介してくれた。戒律のため金曜日には肉を食べられない桜井がよくここで魚を買っているという。
桜井は「サーモンよりトラウトのほうがお勧めだ」と言ったが、小熊は「食わせる相手は鮭とカラフト鱒の違いも判らない奴だ」と返したところ、桜井は爆笑のスタンプを連打してきた後に卸売りの魚屋に連絡を入れ、八〇〇グラムほどのサーモンを三枚、小熊のために切って貰うよう頼んでくれた。街の魚屋よりずっと安いし、不信心者にはそれで充分だという。
いただきますの声と共に三人でディナーを食べ始めた。茹でジャガイモとオニオンスライスのマリネを添えたサーモンステーキを、竹千代はメスで患部を切除するような手つきで切り分けては口に運んでいる。百均で買ったテーブルナイフも、竹千代が使っているとコンクリートを切断する鋭利な刃物のように見える。
サーモンを一片切ってはソースを僅かたりとも皿に残すまいとサーモンで拭き取り、一口食べるごとに付け合わせで腹を膨らませるケチ臭い食べ方をしている春目は、八〇〇gのサーモンを半分ほど食べて苦しそうにしていた。これでも餓死寸前の身で竹千代に会った時よりだいぶよく食べるようになったらしい。小熊は後で食い残しのサーモンを持ち帰り用の紙箱にでも詰めてやろうと思った。
何だかんだキッチンであれこれ作業しなくてはいけない小熊は、自分で用意したナイフを無視してフォークでサーモンステーキををブっ刺し、そのままかぶりつく。桜井が認めるだけあって味は濃厚で美味。サーモンの塊を丸かじりする小熊を、竹千代は愉快そうに笑いながら見ている。野にして卑にあらずとでも思ってくれてるのか、春目は逆に食欲が減退したような顔をしていた、彼女は単に生命力溢れる物を嫌っている。
サーモンのディナーが終わり、単価的には今日のメインディッシュとも言える冷たいキャンタロープ・メロンを出した。カットしただけで生ハムもブランデーも無し。それらとの相性は素晴らしく良いのだが、小熊は自分の仕事の成果とも言えるメロンを、ハムやブランデーが美味いと言われるのが気に入らなかった。
竹千代も春目も、ほんの少し前まで日本では生食できなかった、非常に糖度の高いメロンの味に感嘆の声で上げていた。そしてそれを日本に供給させたのは自分。小熊も自分の割り当てとして四分の一ほど切ったメロンを食べてみる。美味い。きっと一人で食べるよりずっと美味い。
メロンを食べ進めながら、竹千代は空のグラスを突き出した。
「ハイボールを貰おうか、ダブルで」
竹千代はさっき自分で進呈したブッシュミルズのボトルを見たが、小熊は炭酸水の瓶を取り出し、ハイボールのウイスキー抜きを注いで竹千代の前にドンと置く。
一応は軽バンのドライバーである竹千代に飲ませて帰すわけにはいかないし、家に泊めるなどまっぴら御免。あいにく寝具は和風の寝室に敷く布団一セットしか持ってない。無論竹千代はソファーや床で寝るような女じゃない。
この家の主である自分が己の寝場所を確保しつつ、竹千代にも相応の寝床を用意するには、小熊は一瞬、自分に頭の思いうかんだ光景をできるだけ遠くに捨てるかのように首を振った。
竹千代の意図はわかっている。彼女は意図の無い言葉を吐かない、要するに、素面よりアイリッシュ・ウイスキーの助けを借りたほうがいい類の話をしようという事か。
小熊は自分のグラスに炭酸水を注ぎ、一気に飲み干した。炭酸ガスにはアルコールほどでないにせよ酩酊効果があるらしい。
グラスを置き、満腹してうつらうつらし始めた春目の前にも目覚ましのレモンスライス入り炭酸水を置いた小熊は、ここ数日間の自分自身のことについて語り始めた。
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