第28話 麦芽ミルク

 面接を終えた小熊は、カブで自宅へと向かう帰路の途中、大学に寄った。

 今日は特に受けるべき講義は無いが、受領しなくてはいけない書類があった。

 こういう物こそLINEで送って欲しい、役所はとっくにそうしていると思いながら、だからこそバイク便という仕事があるのかと納得した。


 バイク便で世をひっくり返す物を送り届ける事はそうそう無い。大多数はこのようなつまらない書類。先ほどの葦裳から聞いた話を思い出す。この書類も、大学から小熊の家に急遽送らなくてはならない時が来たならば、バイク便に依頼するより大学からバスに乗ってバス停から徒歩で家まで届けに来たほうがリスクもコストも低いのではないか。無論スピードなら路線バスなど問題にならぬほどバイクのほうが速いが。

 

 結局のところ小熊の見てる前では何一つ摂取しなかった葦裳は、小熊にもコーヒー一杯さえ出さなかったので、どこかのカフェにでも寄ろうと思ったが、こっちは求職中の身、そう気軽に外食するのは気が引けた。黒姫の仕事で結構な額を稼いだが、振り込まれるのは後日。だからといってコンビニコーヒーも物足りない。自分の侘しさを実感させられて、単価の低い低レベルな仕事に飛びついてしまうかもしれない。

 あれこれ考えた結果、迷った時は折衷案という経験則上最善の結果をもたらすことの多い選択に従って、大学裏手にあるカフェテリア学食に向かった。


 大学のメイン棟の一階を占め、学生や職員の腹を満たす共済食堂とは別に作られた、木目調の店内が温かみのある雰囲気を醸し出す小ぢんまりした学食。昼下がりのこの時間ならそんなに混んでないだろう。

 小熊が店に入るとそれなりに席は埋まっていたが、外の風景を一望するカウンター席は空いていた。端の席に落ち着き、随分と待たされた後、黄色いプリントドレスにエプロンドレス姿の店員がやってきた。


 先日竹千代とここにランチを食べに来た時、見る人によっては仲がいいと見えなくもない様を目撃して以来、随分小熊のことを嫌ってるらしき店員に麦芽ミルクのチョコレート味を、ラージグラスで注文する。 

 店員は小熊をジロリと睨んだ後に歩き去る。もしかしてこの店員は、そういう表情をしているほうが作り笑顔より魅力的かもしれない。

 一体どこまで麦芽やカカオを収穫しに行ってるのかと思うほど待たされた後、注文の品が届く。店員はカウンターに麦芽ミルクをドンと置き、伝票を目の前に置くと、まったく言行一致していない「ごゆっくり」の声を共に歩き去る。


 きっとここは二度と行きたくなくなる店じゃなく、遠く離れた地に旅に出た時に、彼女の無愛想さが懐かしくなる類の場所だな、と思い、立派な尻を振りながら歩く店員の後ろ姿を眺めながらグラスの中身をを口にした。途端に変な半固体が喉に飛び込んできてむせる。粉末のインスタントらしき麦芽ミルクはろくに攪拌していなかったらしく、底に溶けかけの粉が残っていた。こんな店二度と来るか。と思った。


 カウンターに備えつけられた、ラージグラスの中身を混ぜるには短すぎるプラスティックのコーヒースプーンで麦芽ミルクをかきまぜながら飲む。小熊はこのカフェテリアを選んだのは、大学に行く用はあったが、出来れば大学で鉢合わせしたくない人間が居たから。その人間はお茶を飲む用でこの店には来ない。プレハブの部室で部員にお茶を淹れさせているか、共済食堂でセルフ無料の麦茶でも飲んでいるだろう。

「隣、いいかな?」

 そう、この女。  

 

 小熊に接近の気配を全く感じさせず、カウンターの隣席に竹千代が音も無く腰かけた。いつもと同じような黒いロングドレス姿。素材は違っていて、今日はインドネシア風のバディックと呼ばれる複雑な模様が染め抜かれた木綿地。どこから盗んできたのか。それとも死体でも掘り起こして剥いできたのか。

 先ほどの店員がインラインスケートでも履いてるのかと思うほどの早さで擦り寄ってきた。竹千代は小熊のグラスを掌で示して店員に言う。

「これのバニラ味を、淹れ方はいつも通りで」


 店員は先ほどとは別人のような満面の笑みを浮かべて注文を受け。最優先でオーダーを通すべくセミオープンのキッチンへと早歩きしていった。自分との接客の違いについては不快な気分はしなかった。あの仏頂面は私だけの物と思えば悪くない。

 まるで店内に麦畑とバニラビーンズの木が生えてるんじゃないかってくらいの速さで、竹千代の注文した品は届いた。一口飲んで竹千代が頷くと、店員は胸の前で銀盆を抱きながら恥じらうような笑みを見せ、「追加の注文がありましたらいつでもどうぞ」と言った。小熊には相変わらず値踏みするような視線を向けた後、名残惜しそうに歩き去る。

 何か話す前に竹千代は麦芽ミルクをもう一口飲んだ。小熊は出来ればその何かを聞きたくなかったが、竹千代は何も言うべき事が無い時に接近してくることは無い。


 ラージグラスを手で弄んでいた竹千代は、彼女の持つ最大の武器である言葉を小熊に狙い撃つ機会を伺ってるように見えたが、不意に小熊のグラスを見て爪先で弾いた。

「それ、混ぜたのかい?」

 小熊が意味を測りかねて竹千代の顔を見ると、竹千代は小熊のグラスを爪先で弾きながら言った。

「モルトミルクはね、全て混ぜずに溶けかけを残すほうが美味いんだ、私はいつもそう淹れさせている」

 小熊は視線を感じて振り向いた。ずっと小熊を見ていたらしき先ほどの店員と目が合う。

 黄色いプリントドレスに似合う赤毛に、小柄でややまん丸な体形の店員は、プイっと横を向いて小走りに歩き去った。

 髪色が映ったのか、耳が少し赤かった。   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る