第26話 雪
小熊はこんな人物を映画で見たことがあった。ハリウッド映画に悪玉として出て来るソ連軍の大佐。顧客がそう求めるのか、彼らは判で押したように冷たく抜け目なく、そし悪辣だった。
「我が社の業務について資料を交えてご説明します。こちらへお座り下さい」
葦裳社長は浮谷なら気心知れた関係からか椅子を指差す仕草一つで済ませるような伝達を、すべて口頭で説明しながら行う。明瞭でわかりやすく、誤解や曲解を挟む余地を与えない。声からは何の感情も伺えなかった。
通常は入社面接といえば、デスクを挟んで向い合わせに話し合うものだと思っていた小熊は少し迷った。まさか昼下がりの社長室でこの雪のように冷たく、おそらくは出会う男性にも同じ印象を抱かれるであろう女社長に、特別なサービスを強いられるのではないかと。
小熊は一瞬、部屋を見回した。十二畳ほどある部屋は、畳を横に二つ並べたくらいの馬鹿でかいマホガニーのデスクとPCがあるだけで、私物らしき物が何一つ見当たらない。つまり木のハンガーや冷凍マグロのような咄嗟に掴んで武器にするものが無い。背後の窓は一階の天井が高いからか、通常の建物の三階分の高さはある、陸自の第一空挺団なら生身っで飛び降りられるところだが、あいにく小熊は降下訓練の類を受けたことが無いので、ガラスを破って飛び降りれば最近やっと骨折が繋がったのにまた足の一本も折れるかもしれない。
つまり逃げられず抗えない。相手が違うタイプの人間ならば奇妙な場所に着席させられる真意を問いただしたくなることろだが、小熊は結局一瞬考えた後、素直に細長いデスクを回り込み、言いなりに着席した。
この雪のように白い女は握手をした時の握力から察するに、小熊の力で抑え込むくらいの事は出来そうだし問題無いだろう。その冷たさに凍死させられなければ、の話だが、雪の怖さとその美しさについては、東京の人間よりはよく知っている。
座り心地硬く寛ぐには辛いが、体を自然にオフィスワークに適した位置に保持してくれるカイパー・レカロの椅子に小熊は腰かけた。同じモデルの椅子に着席した社長はモニターの一つを示しながら説明を開始する。業務用PCにありがちな、モニター周囲に貼られた雑多なメモパッドは一つも見当たらない。覚え書きの不要なタイプの人間なんだろう。
「我々の業務は、法人および個人の依頼による小口荷物を、オートバイやハンドキャリーによる輸送で、通常の宅配会社より短時間でお届けすることです」
いちいち説明されずとも、甲府昭和でやっていた仕事と同じ内容。ただ浮谷が小熊に依頼する仕事は、しばしば普通のバイク便ライダーには出来ない仕事という但し書きがつく。小熊はここでもそれくらいのレベルの仕事と相応の報酬を望んでいて、凡百のライダーに出来ることをさせのならば、この会社と経営者は自分のビジネスパートナーとして不適格と判断しようと思っていた。葦裳社長は一切無駄口の無い口調で説明を続ける
「仕事の受注範囲は東京都下およびその隣接県の一部、武蔵野と呼ばれる地域になります」
葦裳は続いて東京都の地図をディスプレイに表示させた。小熊の暮らす町田を含んだ東京西部の市部。二十三区は範囲外なのか、表示された地図は世田谷区や大田区の一部だけで途絶えている。
小熊は山梨から町田に転居してまだ日は浅いが、暇さえあればカブで走り回っているのである程度の土地勘はあった。主要な街道さえ覚えれば問題無く仕事をこなせそう。幹線道路の間を網の目のように埋める間道については、カーナビの機能を併用すれば問題ないだろう。
具体的な仕事内容に移る前に、小熊は自分がバイク便の仕事をするに当たり、最も重要なことを聞いた。
横に座る葦茂に視線で質問の許可を求める。葦裳がまた首を微かに傾げる。意味がわからないのではなく、視線で伝えた意志に言葉による保証が無ければ動かない人間であることがわかってきた。
「一つ、確認したいことがあります。以降の説明を理解し、質問にお答えする前に前提となる情報が必要となります」
葦裳は僅かに頷き、それで充分なのにわざわざ言葉で伝えてきた。
「お伺いしましょう」
小熊はこの人と人における情報の伝達に独自のプロトコルを持った女社長に興味を持ち始めた。一応確認すべきことは聞いておく。
「私は何に乗るんですか? 御社から貸与されるオートバイの車種を教えてください」
葦裳は頷き、マウスを手にすると無駄の無い仕草で画像ファイルを表示させた。それを見た小熊は即答する。
「これでは駄目です」
小熊の目の前に映されたのは、一台のカブ。
小熊の乗っているスーパーカブと同系統の最新モデル
ホンダ・ハンターカブCT125だった。
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