第25話 国立府中
町田市北部にある小熊の自宅から、尾根幹線道路と鎌倉街道を経由してカブでニ十分弱。
通勤の距離としては近すぎる遠すぎない場所に、小熊が訪問の約束を交わした社屋はあった。
大学から野猿街道を経て行けばもう少し近いかもしれない。どっちにせよ、これ以上遠いと通勤が負担になり、近いと会社の人間と生活圏が被る。
中央高速道の国立府中インターを間近に抱えた、都下におけるトラック物流の拠点には、食品会社や製本業、通販会社などの倉庫が連なっている。
以前働いていた甲府昭和のバイク便会社のあった辺りに雰囲気は似ていなくも無いと思ったが、小熊の目の前にあるのはトタン壁のガレージ兼用社屋ではなく、白い鉄筋コンクリートの大きな箱。
近辺に並ぶ他の倉庫と異なり、窓が幾らか多いことでオフィスビルとしての機能も有していることがわかる。塀で囲まれた敷地にカブを乗り入れると、入り口らしきガラス戸が見つかったので、脇にある従業員用らしき駐輪場にカブを駐車し、ガラス戸を開けて中に入る。
窓口の守衛室でスマホに表示された社長からのアポイントのメール画面を見せたところ、退役軍人を思わせる筋骨逞しい胡麻塩頭の男性が、内線電話で確認を取った後、社長室は二階の突き当りにある部屋だと教えてくれた。
守衛はエレベーターの位置も教えてくれたが、横に階段があったのでそっちに歩を進める。小熊が出入りしていたサークルの部長、竹千代は必ずそうしていた。耳と肌の感覚を駆使して、ここが自分にとって危険な場所でないことを慎重に確かめるにはそのほうがいい。
二階に上がり、埃ひとつ落ちていない廊下を歩いて突き当りに達した小熊は、社長室のネームプレートが付いたドアをノックした。
清潔でシステマチックな社内の雰囲気に自分なりのビジネススタイルを示すべく、成人男子が顎に食らったらそのまま膝から崩れ落ちるくらいの強さで拳を当てたところ、中から「どうぞ」という声が聞こえてくる。
氷がひび割れる音が聞こえた気がした。
ドアを開けて中に入ると、オフィス家具のカタログに社長用と書いて売られてるような馬鹿でかい机を挟んで、この運送会社の社長だという女が座っていた。
国立府中のインターを一望できる、美景ながら騒音に悩まされそうと思いきや、防音ガラスらしく喧噪は微かに聞こえるのみ。幾つかのモニターが置かれたデスクの向こうで、社長が立ち上がる。
外見から小熊が抱いた感想は、声の印象と同様に冷たいという言葉しか思いうかばなかった。背は中背、小熊より少し高いかもしれない。雪のように白いパンツスーツ、色素が薄い瞳と髪、何より笑顔というものがひとかけらも浮かんでいない。温度調整されたオフィスの中に白い雪が降ったような気がした。
小熊がいつもビジネスで面会する人にそうするように、握手の挨拶をしようとした。人間の基礎体力と意志力を測るには、手をがっちりと握り合うのが最も確かな方法。
社長は微かに首を傾げ、小熊の差し出した手を不思議そうに見た後、ひとつ頷いて手を出し、小熊と握手した。彼女のことは少しわかった。雪の中に手を突っ込んだように冷たい。
続いて社長は最初からデスクの上に用意していた名刺を差し出した。小熊も少し迷ったが、浮谷の会社が作ってくれた名刺を出す。もう会社の所属からは離れたが、まだ契約の無い暗黙の了解による提携関係は続いているらしく、浮谷は今でも名刺は切らしてない?とLINEを送ってくる。
社長から受け取った役所のように無味乾燥な名刺を見た、名前は
それから、小熊にとって予想外な、驚愕とも言っていい出来事が起きた
葦裳という名の社長は、名刺を一瞥して小熊のフルネームを淀みなく読み上げた。
難読な小熊の苗字、小熊が教えることなく正しい読み方で読んだ人間は今まで片手の指で数えられるほどしか居ない、たった今、片手では足りなくなったが。
少々気圧された小熊は、相手が自分の苗字を読めなかった時の決まり文句「小熊で構いません」と返すしか無かった。
葦裳社長は先ほど握手の手を差し出した時のように微かに首を傾げ、黒みが薄く黄色がかった瞳で小熊を見つめる、小熊は人が生身で生きられぬ雪山の中で狐や鹿と遭遇し、何故人間がここに来る?と言った表情で見つめられたことを思い出した。
もうこの社長には、自らの曽祖父が婿入りした曾祖母の家系、アイルランド系の血筋を示す苗字を呼ばせてもいいかなと思った頃、社長は褐色がかった瞳で小熊を見つめながら言った。
「小熊さん」
また耳に雪が降った。
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