第24話 リトルカブ
試合会場が歓声で包まれる中、椎たちは相手チームと握手を交わした。
対戦した芸能人フットサルチームには取材陣、というほどではないながら数人の記者がスマホを持って取り付いていて、インタビューをしている。
近年はスマホのカメラとレコーダーで放送、雑誌掲載に耐えるクオリティの映像や音声が録れるので、本職の人間もしばしばスマホを使っている。
好プレイのみならずビジュアルもなかなかな椎のチームにも記者が寄って来たが、黒髪の右アラがシャットアウトしていた。
小熊はフェンスの一部がドア状になった出入口から会場内に入り、チームに近づいた。やはり目の前に立ちふさがった黒髪長身のアラの横から椎が飛び出し、小熊の手を取る
「私の大切な人なんです」
試合中の奔走でまだ汗を垂れ流し息を荒くしている椎の横で、汗ひとつかいてない右アラの女が、小熊から目線を切らぬまま下がる。
椎はそのまま小熊の手を引いてプレハブの裏手に回る。ヒューっと囃し立てる女子クラブの雰囲気が小熊は少し苦手だった。
汗に濡れた椎は小熊に抱きついてきた。
「来てくれてありがとうございます!おかげで勝てました」
小熊は椎の体を引きはがして言う。小熊が頭を押さえると椎の手足は小熊に届かない。
「特に何もしてない」
椎はプレハブ裏に置いてあった丸椅子に腰かけ、小熊用の椅子を出す。このフットサルパークは勝手知った場所らしい。
「どうですか?大学は」
スポーツボトルの水を喉を鳴らして飲んでいる椎に小熊は答える。
「何も無し、講堂のイスに座ってるだけで単位が貰える、わたしじゃなくわたしのケツが大学に行ってるようなもんだ」
椎は小熊を見て、それから小熊がここまで乗ってきたフュージョンに視線を投げてから言った。
「そうじゃなくて~、何か面白いことは見つけましたか? きっと小熊さんのことですから、また何人もの人を泣かせてるんじゃないかって」
昨日まで従事していたメロン輸送の話をしようとしてやめた、いま目の前で見せられた、椎が夢中になっていることに比べどれほどの価値があるというのか。
「それもなかなか見つからない」
椎は首をかしげて小熊の目を覗き込んだ、小熊が目を逸らすと、またスポーツボトルの水を飲み。最後の雫を舌で受けている。椎は空のボトルを振りながら言った。
「何か飲み物を買ってきてもらえますか?わたしがいつも小熊さんの話ばかりするから、皆も小熊さんに会いたがってます」
椎は試合中グラウンドの端にあるベンチに置いていたウエストポーチを手に取ると、ポーチの中を探って水色のキーホルダーがついた鍵を放り投げた。
立ち上がった椎はプレハブの裏手から顔を出し、表に集まって試合後の休憩をしているメンバーに声をかけた。
「みんなーわたしの小熊さんが奢ってくれるって言ってるので、何飲みたいー?」
どうやら小熊と椎の仲を妙に誤解し、聞き耳を立ててたらしきメンバーが答える
「カイピリーニャ!レモン多めで砂糖抜き」
「プロテインだ、プロテインは全てを解決する、ラズベリー味で」
「冷やし飴買うてきてくれへんかー」
「…森の水…人の手を経ていない清浄な…」
椎は小熊を振り向いて言った。
「お茶五本で」
一〇〇mほど先の交差点を曲がってすぐのところにスーパーがあるというので、小熊はフェンスの外に出て、自分をフュージョンから取り出したヘルメットを被り、椎のリトルカブに跨った。
キーを回してセルボタンを押して始動させる。試乗や貸し出し車で電子制御のカブに乗ったことは何度かあるが、旧型の車体とエンジンにフューエル・インジェクションを積んだ椎のリトルカブに乗るのは初めてだった
始動やアイドリングは少し勝手が違ったが、走り出してみると今まで乗っていたカブと乗り方は変わらなかった。小熊のカブと同じカブ、仕事用のフュージョンに乗っている間、ずっと欠乏を覚えていたカブの感触。
カブを使うより歩いたほうが早そうな場所にあったスーパーで、自分の分も入れて六本のコーラを買ってグラウンドに戻る。
往復で五分に満たない時間カブに乗っただけで、振動や感触が小熊の体の中で何度も反響した。
小熊がコーラを奢ってあげたところ、椎のチームメイト四人は現金なことに友好的になり、小熊に色々な質問をしてくる。
病欠した修学旅行に参加したいあまり皆の乗るバスをカブで追いかけて、執念で旅館の前でバスに追いついたのは本当か? とか、長野の地震で孤立集落を救うためにシベリアより寒い山道を踏破したのは本当か、など。
椎がこの子たちに何を吹き込んだのか知らないがデタラメもいいとこ。修学旅行の件は病欠による不意の休日を利用した私的な鎌倉ツーリングで、修学旅行の積立金を払ってる身として飯を食べに旅館に寄り、ついでに教師がそうしろと勧めるから風呂に入り泊まっただけ。修学旅行バスはあちこち寄り道しながらカブで適当に走っていたらいつのまにかバスを追い抜き、先に旅館に着いてしまった。黒姫の孤立集落救援は、スマホがお節介にも山道の気温と強風を観測してくれたが、あの山道と同等の気象状況の場所を調べたところ、該当したのは北極のスパーシバル諸島だけだった。
椎は五人のチームのうちの一人、他のチームメイトより幾らか常識人に近いメンバーといった感じで、曲者揃いの女子たちをよく纏めている。椎の好きな事や将来の夢は、高校時代と大学進学後で随分変わったが、椎の今やりたい事は明らかで、彼女は今まさに全力で走っている。そこに一点の曇りも無い。
プレハブのドアが開き、中から対戦チームのメンバーが出てきた。
「更衣室空きましたー」
椎とチームメイトが一斉に立ち上がる。椎は小熊の胸に額を当てて言った。
「じゃあ着替えるまで待っててください、今日も小熊さんのお家にお泊りしたいです」
覚えてる限り椎が小熊の家に泊まったのは、礼子も一緒に行った卒業旅行の東京ツーリングの時だけだが、椎のチームメイトに加え、以前からフットサル仲間として顔を見知ってるらしき対戦相手のチームまでキャーっと声を上げる。プレイ中はフィールドを走り回り、女の子っぽさには結びつかない印象だったらしき椎が、他の人間に見せたことのない女の顔が意外だったらしい。
小熊は椎の襟首を掴んで引き離しながら言った。
「いや、もう帰るよ。用が出来た」
椎は口を尖らせながら言う
「わたしより大事なものに会い行くんですね? やっぱり小熊さんは高校の時から全然変わらない」
フュージョンのところまで見送りにきた椎に、小熊は聞いてみた。
「何で私をリトルカブに乗せてくれたの?」
椎は当たり前のことを何で聞く?といったような不思議な顔をしながら答えた。
「何かに迷っているみたいだったから。小熊さんはそんな時、カブに乗れば答えを出す」
椎には小熊自身が思ってるより、小熊のことをお見通しのようだった。遠くに行くためじゃない。何かを運ぶためじゃない。小熊がカブに乗る最大の理由までわかっていた。
小熊と椎のやりとりを赤毛のピヴォや金髪のフィクソ、黒髪の右アラが苦笑してフェンス越しに覗き見している。色の薄いゴレイロは無表情。どうやら尽くしても報われないというのは、皆が見慣れた椎の姿らしい。
小熊は皆に別れを告げ、そのままフュージョンで家にも寄らず中央高速に乗って甲府昭和に直行した。
バイク便事務所では、貸し出したフュージョンを小熊が当分乗り回すと思っていた浮谷が、予想外に早い返却に驚いていた。小熊はフュージョンを浮谷に返し、幾つかエンジンや足回りのセッティングについてアドバイスして、事務所に預けていたカブを受け取る。それから浮谷に言った。
「以前社長に聞いたお話、詳しく聞かせて貰えませんか?」
それは小熊が高校卒業前。東京への引っ越しを間近に控え、ここの所属を離れる少し前に時に浮谷のところまで送られてきた、東京都府中を拠点に活動するバイク便事務所からのオファー。
小熊に是非弊社のライダーとしてご助力願いたいという話。
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