第21話 幸せな夜
小熊は黒姫での仕事を終え、フュージョンで町田の自宅に帰った。
とりあえず無事仕事を完遂し、相応の現金が振り込まれることが約束されているので、今夜はちょっと贅沢な夜を過ごすことにした。
頭の中で色々な食べ物がぐるぐると駆け回る。それほど仰々しい物ではなく、おそらく冷凍食品の類だろうけど、家に帰って台所であれこれと作業することなく、レンジで温めるだけで食事を始められること自体が御馳走になる。
幾つもの冷凍食品を買いこんで家に帰る時と、帰宅後それを広げる時のワクワクした気持ちは何物にも代えがたい。自分はあまり舌が肥えてないんだろう。
とりあえず町田に引っ越してから幾つか見つけた、安く品揃えのいいスーパーで、冷凍食品を見繕いつつ卵やパンのような日常の消耗品なども買い足そう、そしてもう一つ買うものがある。御馳走を用意する特別な夜には欠かせない、無糖の炭酸水。
高校の時に礼子のログハウスで飲んで以来、夕食に合わせるのは炭酸水と決めている。お茶は食事の後にコーヒーか紅茶を淹れるので、出来れば食中には飲みたくない。ビールやワインは、バイクでの行動を制約する物を口にするのは気に入らない。水というのも水分補給という機能には不自由無いが、彩りも華やかさも無い必要最低限の物のみを摂取して生きていくと、すでに経験したことだけで構成された人生はあっという間に終わってしまう気がする。
やはり山梨に居た時から、特別な時に開けると決めている富士ミネラルウォーターのスパークリングウォーターがいいだろう。小熊も普段は近場のスーパーで酒の割り材として売っている、人工的に二酸化炭素を添加した炭酸水を飲んでいるが、富士ミネラルの発泡水は常に冷蔵庫に何本か置いてあって、少し前から小熊の家によく来るようになった、大学で小熊が仮所属しているサークルの知人、竹千代と春目が手をつけようものなら、即座に鉄拳を飛ばす。ただし今は、金欠を自覚したこともあって買い控え、冷蔵庫から切らしていた。
安価な炭酸水も嫌いというわけでなく、自宅で炭酸水を作れるソーダサイフォンをキッチンに導入しようと思ったが、値段が高い。それに、サイフォンを買えばきっとそれだけになってしまう。特別な炭酸水が特別な物でなくなってしまう。それに値段が高い。
小熊が大学進学と同時に町田に住まいを移した時、この富士ミネラルの天然水を買える場所を押さえることを最優先に属する行動の一つとしていた。
他の優先課題だったホンダの純正部品が買える部品屋とと、特殊用途や高強度区分のネジ類が買えるホームセンターについてはあっさり見つかったが、この発泡水に関しては少々時間がかかり、置いてない物は無いように見える南大沢駅前のデパート群でも見つからなかった炭酸水は、町田南部にある閑静な住宅街の高級スーパーで見つかった。
無論その商品はネット通販で買えるが、注文すれば明日届く物は今夜飲みたい時に間に合わない。特に今夜のように、このスパークリングウォーターじゃないとダメな日には。
何やら凝ったパンやワインやチーズ、それから自然食品が並んでいる高級スーパーは、行くたびにライディングウェア姿で富裕な主婦が多い客の中に入っていくのは腰が引ける思いだったが、最近になってある程度慣れてきた。
こっちは明確な目的を持ち、ここでしか買えない物を買いに来ていて、ついさっきまで公共の用に貢献する仕事をしていた、特に今日の仕事では、あんたらみたいな連中のお口を満足させるために走り回っていた。
高級スーパーの自転車、バイク兼用と表示が出ているが、オートバイの類が一台も駐まっていない駐輪場にフュージョンを押し込み、BMWやボルボ、レクサスやメルセデスの並ぶ駐車場を抜けて店内に入る。夕方近くなった店は、小熊の思った通りそういう車に乗って夕飯の買い物に来る人たち。
一応愛想よく挨拶してくれる店員と、バイク便の恰好をした小熊を動物園から逃げ出してきた生き物のような目で見る客の間を早歩きで抜けて、店舗奥の飲料コーナーまで直行した。
いつも通り七〇〇mlのガラス瓶六本が入った段ボール箱を抱えて、早々に会計をして店を出ようとした小熊は、別の買い物の用を思い出した。冷凍食品も買わなくてはいけない。
当然ここで売っているような高級スーパーオリジナルブランドの冷凍食品など値段からして問題外だが、果たしていつも買っている大衆的なスーパーの大手食品メーカー製冷凍食品と何が違うのか。
もし中身はまるっきり同じで、高級なパッケージをつけただけで三倍の値段がついていたなら、小熊はスーパーも起業しようと思った。
どちらにせ見るだけはタダと思い、ミネラルウォーターの箱を片手で抱えて冷凍食品の棚を眺めていた、並んでいる冷凍食品は、小熊の予想を裏切り食材からして廉価な冷凍食品とは別物だった。この産地指定やブランド肉使用という表示が本当なら、の話だが。
とりあえず見る物は見たので、この何とも居心地よろしくない空間からさっさと退散して、早く我が家の台所のように安心できる業務用安売りスーパーに行こうと思っていた小熊は。冷凍食品棚の隅で見慣れない物を見つけた。
手に取ってみると無線綴じの漫画雑誌くらいの大きさの紙箱、表面に書かれた商品名はハングリー・マンというらしく、箱に写真プリントされた商品画像によると、三つに仕切られた樹脂製のトレーに、人工っぽいスペアリブと、ミックスベジタブル、デザートらしきダークチェリーのムースが入ってる。
棚にあった色違いの別のハングリーマンを手に取る。こっちはターキーハムと茹でたコーン、そしてチョコブラウニー。
小熊はアメリカンスタイルの生活を愛好する椎の母親から、こういう冷凍食品の話を聞いたことがある、これはTVディナーという奴だ。主食と副菜とデザートが一つのトレーに納まり、電子レンジに入れてスイッチを入れるだけで、TVを見ているうちに夕食が出来上がる。椎の母にどんな味かと尋ねたところ、ジム・ジャームッシュの映画ストレンジャー・ザン・パラダイスを見るのが一番わかりやすいとだけ言った。
小熊は衝動的に二箱のTVディナーをミネラルウォーターの箱に乗せた。そのままレジに向かう。
会計したところ、先ほどの選択をいささか後悔したくなる値段。
自分が何故このような事をしたのかはわからない。ただ、いつも食べている冷凍食品とは異なる新奇な経験は、その差額より価値があるんじゃないかと思った。
それに、この日本で随分高値をつけられたTVディナーを、それが生産された国で日常的に食べてるような奴らは、きっとこの場違いな店で孤独を感じてる自分の同類なんじゃないかと思った。
思わぬ衝動買いに少々気疲れしたのか、結局その後はどこにも寄ることなく自宅に帰った。
一応は後日返却する預かり物ということで、フュージョンを庭に置いたカエル色のコンテナに入れて施錠し、ボックスから取り出した帰路の買い物を持って家に入る。
時刻はもう夕方。明暗に反応し夜になると自動的に点灯する玄関灯に照らされた、元都営住宅の木造平屋にはやや分不相応の玄関ドアを開け、室内に入る。
ラジオを付けて普段より大き目の音量でメンデルスゾーンを流した。騒音で苦情が来るような近所の家は無い。
とりあえず説明書通りなら三十分解凍加熱しなくてはいけないというハングリー・マンをレンジに入れ、冷凍庫から取り出したクラッシュアイスの袋を洗面台に開けて、スパークリングウォーターの瓶を突っ込む、こうすると冷蔵庫より岩盤の下の地下水に近い、ちょうどいい冷え具合になる。
ライディングウェアを脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。長くバイクで走った後に湯船で長風呂すると、気温差で体調が悪くなることがある、風呂はシャワーと食事で体がほどよく暖まった後、ゆっくり入ることにした。
長めのシャワーから上がり、部屋着の黒いベトナム製農作業服を身に着けた小熊は、この家をリフォームする時に一番金をかけた檜材のバーカウンターにクロスを敷き、レンジから取り出したハングリー・マンとファイヤーキングのグラスを置いた。本来の目的は軽量カップだが、グラスの質と唇の感触が最高にいい1000ccグラスに、氷から取り出したスパークリングウォーターを注ぐ。好きな動画を選り取り見取りで見られるように、バーカウンターに置いたタブレットスタンドにiPadをセットする。
都合一泊二日で何の異変も無く終わった仕事にここまでの癒しを求める自分は、毎日定時であくせく働くのに向かないのかもしれない。でも、仕事をするならばこれくらいの達成感が欲しい。
小熊の幸せな夜が始まる。
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