第13話 キャンタロープ

 さほど広くない集落を桜井に手を引かれるように散策しているうちに、陽が沈んできた

 春の半ばを迎え落日が遅くなるのは、この日本であって日本でないような場所も変わらないらしい。

 きっと生沢は夜中まで暮れの微光が続く英国のトワイライトがここに無いのを物足りなく思っているだろう

 集落の分校教師としてここで暮らす生沢から小熊のスマホに夕食の時間とメッセージが入ったので、集落の中心にある木造の分校に戻る。


 小熊たちが招かれたのは、分校にある教室のうちの一つだった。何やら肉の香りが漂ってくる実習室の隣にあって、普段から生徒の教室でなく集落の集会所として使われているらしく、壁に貼られているのは時間割や掃除当番の表、あるいは標語ではなく、自治会の連絡や催し物のお知らせ。学校の机が幾つもくっつけられたテーブルに白いリネンのクロスが敷かれている。

 指で触れると布は固く指先に少し引っかかりがある。木綿ではなくリネン本来の意味である麻布らしい。輝くような純白ではなく、白い布を不自然までに白く染め上げる漂白剤を使っていない落ちついたオフホワイトで、よく見ると小さな染みや焼け焦げはあるが、清潔感を損なう物ではない。厚手の麻布は何十回洗濯してビクともしないと聞いたことがある。


 長方形にくっつけられた机の短辺側、いわゆるお誕生日席を勧められ着席する。やはり引く時に独特の音を発する教室の机。つい数ヵ月前まで高校生として座っていたのに、なんだか今座るとお尻が少し狭っ苦しい。

 席についていたのは集落の住民らしき人達だった。限界集落にありがちな住民の平均年齢が日本人の平均寿命と変わりないような高齢者ではなく、まだ田舎暮らしに適応できるうちにアーリ―リタイヤや在宅ワークに切り替えたらしき人達。さっき会ったジェームズ・ブラウン顔の神父も居る。表情を見るに一応は歓迎の意志と興味を抱いてくれているらしい。何人かは幼少期の桜井と顔見知りで、気軽に話しかけられて桜井は少々照れくさそうな表情をしている。


 少なくともイブニングドレスが必要な堅苦しい場ではないらしい。桜井はバンソンの革ジャンが食事の席では重くタイト過ぎたのか、タンクトップの上に分校で借りたらしき桜色のカーディガンを着ていた。小熊は自分の赤いスイングトップの襟を指で撫でる。

 ホスト役らしき生沢によって食前酒が配られる。白ワインでカシス酒を割ったキールと呼ばれるカクテル。小熊と桜井にはアルコール分が1%を超えないように炭酸水で割った物で、もう成人している桜井はやや物足りなさそうだったが、小熊はベリー系のややくどい甘味が無糖の炭酸で緩和されるカシスソーダを結構気に入った。

 

 間もなく数㎏の牛リブ肉の丸焼きが銀のトロリーに乗せて運ばれてくる。生沢はリブローストビーフを日本の短刀のような肉切りナイフでステーキくらい分厚く切って、バターを付けたベイクドポテトの乗った大皿に乗せて小熊と桜井に出す。

 コースじゃなくいきなりメインを出すスタイル。生沢はトロリーの下段からクレソンのサラダが盛られた大きな鉢と取り皿を出してテーブルに置く。

 出席者の間を周り、表面はよく焼けていて芯がバラ色のローストビーフを各人の好みに応じて切り分けた生沢が、小熊たちの真向かいの着席する。小熊を含め何人かはもう食前酒を飲み始めていたが、生沢が音頭を取って乾杯する。スラン・チェヴァ、ゲール語で健康に乾杯という意味らしい。


 小熊は出席者とグラスを合わせ、最後に隣の席の桜井に軽くグラスを当てる。赤いカシスソーダ越しに桜井のグリーンの瞳を見つめた後、グラスを乾かした。

 おかわりは背後のロッカーに並べられたボトル類から自分で注ぐセルフ方式らしいのでで、桜井のグラスを手に取って席を立つ。桜井に任せると、神父が持ち込んだ一升瓶サイズのジャック・ダニエルスをなみなみ注いできそうなので、ロッカーの上に置かれたカシス酒をグラスにシングルくらい注ぎ、ソーダサイフォンから炭酸水を注ぐ。

 席に戻るともう桜井は、プライム・リブと呼ばれる厚切りのリブローストビーフを食べ始めていた。


 小熊も後ろに引くと学校の給食や弁当を思い出す音を発する椅子に座り、夕食を食べ始める。まずはクレソンとスティルトンチーズのサラダで腹を落ち着かせ、少なくとも500グラム以上あるプライム・リブに挑む。

 固く刃にも切り分けるナイフにも負担を強いるリブ肉は、食べて見ると非常に美味だった。

 牛肉といえば柔らかさと脂肪の量で美味さを決めるような人が食べれば、焼きすぎの固くてパサパサな肉としか評価出来ないであろうローストビーフは、小熊が脂より重んじている肉汁が噛むたび口中に迸る。


 きっとこの肉汁を雑味なく味わうため、脂と水分を飛ばすような焼き方をしている。表面も焦げた肉汁が言葉では言い表せぬ芳香を発するまで焼いている。これを焼きすぎと評する人が居るならば、その家畜はよほど舌が貧しいんだろう。

 肉は塩胡椒で充分な下味がついている上にホースラディッシュの薬味が利いていて、フォークが止まらない。この硬い肉を歯と顎の限界まで食べたくなる。胃のほうは、この生きる力の塊のような肉塊を全部食べても満たされる気がしない。

 桜井も合間にいい香りのバターを乗せたポテトを口にしながら黙々と食べている。他の同席者はといえば、うんと薄く切って酒のツマミとして食べている人も居れば、どこからか持ってきた醤油とご飯で食べている人など様々。


 生沢の英国趣味は正直鼻につくこともあったが、食事だけは別だった。小熊は英国の食事が不味いという人も知っていたが、その人はきっと美味な物に辿り着く交渉力や身分的な後ろ盾、何よりこの人を美食で歓待しようと思わせる魅力が足りなかったんだろう。こいつには餌でいいやと思われるような人間には餌しか出されないのは当然のこと。

 あるいは、それ以前に英国に行ったことすら無い問題外の人たち。


 食事の席では東京の女子大生ながらバイク便で生計を立てる十八歳女子の小熊や、この地で生まれ今は清里のシスターとバイク便ライダーの二足の草鞋を履く桜井にあれこれと質問されたが、それに応対し、逆にここでの暮らしやここに来るまでの前職について色々聞いてみたり、カシス酒の少々の酔いも手伝ってそういうお喋りの時間が楽しい。

 充実した食事時間だった。ここに来た目的はバイク便の仕事だが、今なら油田消火用のニトログリセリン以外なら何でも運んであげたい気分。


 小熊と桜井が肉を食べ終え、皿に残った肉汁をこの学校で焼いたというバゲットで拭き取って残らず食べた頃に、生沢がデザートを運んできた。

 食後の甘味は贅沢にハーフカットされた冷たいメロン。網目の無い平滑な皮で、カボチャのように色が濃い。先端にギザギザのついたグレープフルーツスプーンで一口すくって食べてみた。信じられないほど甘くて芳醇だった。

 小熊はメロンを食べている自分を、集落の人たちが注視している事に気づいた。自分は甘い物を食べてよほど間抜けの表情をしていたのか、例えば真横で今にも溶けそうなだらしない顔をしている桜井みたいに。横顔を上げ、目線で生沢に問うと、生沢は答える。

「小熊さん、メロン美味しい?」


 小熊はナプキンを口に当て、答える。

「今まで食べた中で最も美味なメロンです。客先で食べた静岡の最上等級のメロンを含めて」

 桜井もスプーンを置いて生沢を見た、金の匂い、ビジネスが始まる空気を察したらしい

 桜井は狡そうな抜け目無さそうな、奸智を窺わせる表情を見せた。生きる意志そのものといった感じで、小熊はこういう貌をする女が嫌いではない。

「小熊さんと桜井さんに運んで貰いたいのは、このメロンよ。日本で初めてここで栽培に成功した、キャンタロープ・メロン」

 小熊は自分が食べているメロンをもう一度見た。これはニトロより厄介かもしれない。

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