第10話 ブリティッシュ

 ごく簡単な打ち合わせの後、小熊と桜井は甲府昭和の事務所を出た。

 各種装備の詰まったバイク便用のメッシュベストを、小熊は赤いスイングトップ・ジャケットに重ね、桜井はバンソンのレザージャケットの上に着こむ。

 桜井は幾つもあるポケットに詰まった救急キットやタブレットに「重いな」と言っていたので、小熊は桜井の背中を掌で叩いた。

 「一番重いのは、それだ」


 遊びに行くんじゃない。ベストの背中には社名が大書してある、浮谷の設立した社の看板を背負って走ることになると知ってもらわなくてはならない。

 桜井は一つ頷いて白いフュージョンのエンジンを始動した。小熊はカブで行きたかったところだが、今回は浮谷のフュージョンを借りる、ルートの途中には高速道路もあるし、この社に居た頃、小熊の専用車だったVTR250は現在他のライダーが乗って行ってしまっている。

 甲府近辺では桜井より土地勘のある小熊が先行する形で、フュージョンを発進させた。

 

 甲府昭和から中央道に乗って長野黒姫まで。バイク便の仕事なら長距離というほどでもない隣県までの道中、何度先頭を入れ替わりながら走った。

 鋭い追い越し加速で他車に先行する走りを見せる桜井の白いフュージョンを後ろから見ながら、小熊は黒いフュージョンのアクセルを開け、無駄の無い動きで先行車を追い越す。

 最初は浮谷がカラスと呼んでいる仕事用の黒いフュージョンより、浮谷が白いカラスと名付けて遊び用にカスタマイズし、後に桜井に譲渡された白いフュージョンに乗ることを小熊は望んでいた。

 小熊もあの白いカラスがまだ浮谷のものだった頃に借りて乗ったことがあり、320ccまでボアアップされたエンジンと単気筒ながら澄んだ音のマフラー、強化された足回りを味わうと、ノーマルがなんとも物足りなくなる。


 だが実際に乗ってみたところ、浮谷の仕事用の黒いフュージョンも、充分に魅力的であることを知った。

 アクセルのレスポンスも良好で、サスペンションの安定性も高く、安心してスロットルを回すことが出来る。ノーマルとは違う。ピストンや吸排気の大径化でパワーアップを最優先するカスタマイズとは異なる、細部の調律と加工、最適化を重ねたメカニカルなチューニング。もしかしたら桜井の白いカラスより金がかかってるかもしれない。それに、こういうバイクを作る人間は、わかっている人間にしか乗らせない。桜井に使わせるにはもったいない


 とりあえず今回の仕事はこのまま黒いカラスに身を委ねてもいいだろう。白いカラスはもう桜井のバイクで、少なくとも小熊は桜井と、お互いのバイクを貸しあえるほどの信頼関係を構築していない。

 それに昔抱いた時にいい体をしていた女を、たとえ他の男のものになっても奪いたくなるなんて、もし自分が男ならどうしようもないろくでなしになってしまう。

 県境を越え、今は第三セクターしなの線と名を替えた旧信越本線沿いに北上し、特に休憩を取ることもなく黒姫山を登る。

 快適なワインディングロードで中途の開発集落を通過した後、小熊と桜井のフュージョンは顧客の居る分校集落に到着した。

 

 薄暗い、小熊にとっては木々のトンネルが気持ちいい登山道路を抜けた先にある集落は、開放的な雰囲気だった。よそものを見張る保安官も居ないし、牛泥棒を吊るす柱も見当たらない。

 依頼主で浮谷の親友でもある女性教師が待っているという分校の宿直室へと向かう。

 教員による学校宿直制度があった時代に建てられた木造校舎には、この集落の小中全学年合わせて二十人程度という生徒数に対し多すぎる教室と立派な体育館がある。

 小熊は以前ここに来た時、この生徒数に見合っていないように見える設備が、震災等の有事で集落住民の避難を受け入れ、物資を提供する災害対応拠点として機能しているのを実際にこの目で見ている。

 フットボールグラウンドくらいある校庭には、緊急時にヘリが着陸する時に必須となる風向風力計と気温湿度を測る百葉箱が設置されていた。


 校舎の裏手に付け足すように増築された、丸太でなく角型の木材で建てられたセルフビルド・ログハウスの前にフュージョンを乗りつけると、日本の気候と湿度に合わないらしく開閉の渋い無垢材のドアが開き、中から丈の長いフィールドジャケット姿の女性が出てきた。

 彼女は客先での挨拶をすべく営業スマイルらしき物を浮かべた小熊に駆け寄り、抱き着いてきた。

「よく来てくれたわ!我がカウンティの救世主!」


 背の高い女性はなんだか臭くてベタベタするジャケットを着ていた。小熊には覚えがある、高校時代に同級生だった椎の父。彼はドイツ式のライフスタイルを愛しつつも、若い頃にかぶれたイギリスのファッションにも未練があるらしく、これと同じ物を奮発して買ったが、結局数回着ただけで売ったという、分厚い木綿布に油を沁みこませた防水ジャケット、ある国の人間か、その国の移民しか好まないであろうひどく不便な、オイルジャケットと呼ばれる防水防寒着。


 桜井が横から、普段から葬式や結婚式の仕事を取ってくるのが上手い優秀なシスターと自称しているのがあながち嘘でないと思わせる笑顔を浮かべながら握手の手を差し出すが、オイルジャケットの女からやはり抱擁の歓迎を受け、小熊と同じ目に合わされる

 まがりなりにも若い女子を防水油まみれにしたことを気にするでもなく、脊が高く彫りの深い顔立ちの女性は言う。


「お仕事の話の前にアフタヌーンティーはいかが?それともシェリーかスコッチのほうがいいかしら」

小熊と桜井は目を見合わせた。小熊は前回ここに来た時に何となく気づいていたが、鬱陶しい濃緑色に塗られた宿直室を見るまでもなく、宿直室の隣にある同じくらいの大きさのガレージに鎮座するジャガーのクーペを見るまでもなく、校舎裏に勝手に作られたらしきバラ園の、長野の気候に合わずやや萎れたバラを見るまでもなく、春の季節にオイルジャケットに重ねるには暑すぎるウールシャツを見るまでもなく、この人は自分をイギリス人と思いこみ、生活の全てを英国風に仕立て、この片田舎町でアルスターかクロイドンの素封家を気取る

 ブリティッシュな人だ!

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