第9話 黒姫

 黒姫駅から黒姫山の頂に向かって真っすぐ、中腹にある開発集落からさらに県道を登った先。

 勾配はきつく曲がりくねっているが、舗装は新しく凍結の心配は無さそう、道の脇の土手では、雪がまだ消えるまいと頑張っている。空気は東京の空気の倍の値段がするんじゃないかと思うほど清冽で、風景も新緑の季節特有の生命観に満ちていた、木々の隙間から見える山々の景色は、息を呑むほどに美しい

 この村に来るまでの風景は、以前に来た時と別世界だった。


 勾配はきつく曲がりくねっているが、舗装は新しく数か月前にここに来たのは、地震によって発生した孤立集落の救援のためだった。

 あの時は土砂災害で不通になった県道を迂回し、別荘開発業者が私費で敷設した登山道を通ってここに来た。

 真冬の厳寒期、北極に等しい過酷な冷風が何もかも凍り付かせる道。木々の枝は人間の体をたやすく引き裂く刃物になり、当然滑落すれば助からない。しばしば道を塞ぐ倒木を切り開き、土砂を乗り越えて登ってきた。


 小熊はあの時の自分がなんでそんな事をしたのか、未だに全てはわからない、集落で水も食べ物も、暖を取る手段さえ尽きそうになっている親友を案じる、浮谷社長の涙を見たせいかもしれない。

 涙が色気を増す女は居るが、浮谷社長は顔が子供っぽ過ぎるので、泣き顔を女を下げる、笑顔でいたほうが魅力的だ。

 集落の入り口が見えた。小熊は手を振って後ろからついてきている桜井に合図し、黒いフュージョンを滑り込ませた。


 依頼を受け招かれた甲府昭和の事務所に招かれた場で、桜井に再会した小熊は、真っ先に踵を返し逃げだそうとした。

 自分のカブに向かって走り出そうとしたところで、後ろから桜井に抑え込まれる

「会いたかったぜ、小熊ちゃん」

 小熊は手足をバタつかせ必死に逃げようとしたが、上背で10cm以上ある体格差からは逃れられない、それに、桜井の体から微かに発するカモミールのような薫りを嗅ぐと腰砕けになる、教会という彼女の職場のせいだろうか、以前バイク便の仕事で神父が通販で頼んだグラビア写真集を届けたことがあったが、崇拝物の到着に気を良くした神父にお茶に招かれた時、教会内は秘蹟の儀式に使われる香油のラベンダーを思わせる薫りで満ちていた。もっともその教会は桜井の話では、葬式でも結婚式でも提示する価格は他の協会より安いが、後からオプション費用をあれこれ取るボッタクリらしいが。


「私はあんたに二度と会いたくなかった」

 小熊がそう言いながら桜井の祝福を逃れようとするが、桜井は小熊をしっかりと抱きかかえながら言う

「私のもう小熊ちゃんには会えないって思ってた、でも私たちは道の上で再び会う、神の御心には逆らえねぇんだ」

 これから仕事を頼むパートナー同士が事務所の前で格闘を繰り広げてる様を眺めた浮谷は安心したように頷く


 病院に入院している間の知り合った友達同士というものは、退院後再び会った時、妙によそよそしくなることがある。基本的にパジャマ姿で寝っ転がりながら過ごす対等な時間。外の世界の恰好で互いに社会的な立場のある身で再会すると、なんだか同じ時間を過ごしていたことが幻のように思えてくる、そのまま互いの健勝と長らくの友情を祈って別れつつ、疎遠になることが多い。

 少なくともこの二人の間にある壁は、目の前であっさりと溶けて消えたらしい。同じバイク乗りという共有は、思ったよりも濃いのかもしれない。

 帰ろうとする小熊と帰すまいとする桜井を何とか説き伏せ、浮谷は二人を事務所に招き入れた。

 

 事務所の応接スペースにあるソファに座った小熊はもう観念した様子だった。桜井は仕事に乗り気な雰囲気。これもまた二人に共通した事情、今、金を必要としているという理由がある。

 互いにブーツでつつき合っている二人の向かいのソファに落ち着いた浮谷は、仕事の説明を始めるべくMacBookProを開いた。浮谷の思った通り、小熊はもうテーブルの上に自分のiPadを出している。桜井は何も出してない。必要な物はその都度人に借りればいいと思っているタイプ、浮谷の経験上、そういう人間は物事の要不要の選別が早く、仕事先での人間関係の構築も上手い。


 既に荷物の内容と性質、それから荷受け先と届け先についてはここに来る前、大まかに伝えてある、長野県北部のある場所から、東京まで荷物を運ぶ仕事。詳細はここに来てから。

 浮谷が地図ファイルを小熊のiPadと共有する。ファイルを開いた小熊は一つ口笛を吹き、横から覗き見た桜井は微かに目を伏せた。

 荷受けの場所は小熊も知っているところだった。

 長野県黒姫、黒姫山中腹にある分校を中心とした集落。


 小熊がほんの数ヵ月前、震災で孤立集落となったこの場所に、命を繋ぐ物資を送り届けた。

 桜井の微妙な表情変化に気づいた小熊が横を向き、桜井を直視する

 小熊から目を逸らしていた桜井は、小熊に睨まれて根負けしたように言う

「そこで生まれたんだよ、あたしは」 



   

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