第8話 依頼

 小熊は森林地帯をワインディングロードを快適に走っていた。

 季節は春と初夏の間。桜が散って葉桜になり、一掃緑を増した新緑が、車体に映っては後ろへと流れていく。

 道路周辺の木々が途切れ、無限に広がっているかのような山脈が視界に入る。気持ちのいい陽光に照らされながら、小熊は自分が十代を過ごした山梨もそうだったことを思い出す

 地表の三分の二は海で、人は海を見ると生命がここから生まれた神秘を感じると聞いたことがあるが、小熊は自分が生まれた場所はここだと実感していた

 日本の七割は山林で出来ている。


 極めて快適なツーリングだった。

 これからもそうであれないいと思いながら、小熊は前方にそびえる。春を迎えたというのに雪を被り、鋭く切り立つ凍り付いた山脈を見つめた。

 そして先ほどからバックミラーに映る白い光。

 光を振り切るようにアクセルを開けた。本当に厄介なのは、背後の白い光ではなくこのバイクなのかもしれない。


 町田の大学で突然呼び出されて二時間少々。甲府昭和のバイク便会社は何も変わっていなかった。

 山梨とのそ周辺県の物流拠点となっている甲府昭和で数多く見かける鉄筋コンクリートの倉庫、シャッターを開け放たれた内部はバイクガレージになっていて、奥にあるプレハブが事務所になっている。

 小熊がここに在籍していた頃、通勤に使っていたカブの指定席だった事務所横の駐輪スペースにカブを駐める。並んでいる他の通勤用バイクや原付を見るに顔ぶれは変わっていないらしい。仕事用のバイクといえば、浮谷の黒いホンダ・フュージョン以外出払っている様子。あの一癖も二癖もありながら、バイクが好きという気持ちで繋がっていた仲間に会えないのは少し残念だが、まだここをやめて一か月少々、懐かしむには記憶が新しすぎる。


 事務所のドアが開き、小柄ですんぐりとした、丸っこい体形の女子が飛び出してきた。自分の色気を否定するかのようなサロペットスタイルのデニムオーバーオールと度の強い眼鏡、ふんわりと甘い香りのするショートボブの髪、この人はきっと、一か月が一年、あるいはそれ以上になっても変わらないんだろう。

「小熊ちゃん!元気だった!?」

 小熊の所属していたバイク便会社の社長、小熊が道の上で信頼する数少ないバイク乗り、浮谷東が小熊に抱きついてきた


 浮谷に招き入れられ、小熊は応接スペースに落ち着く、小熊がソファに体を沈め、町田から甲府までの疲労とも言えない程度の体力消費の後で一息ついていると、浮谷がインスタントのコーヒーとドーナツを出してくれた。

 浮谷の好物というだけでなく、車輪の回転に命を託すことを生業とする人間の安全を守るものと信じているドーナツはいつも事務所に置いてあって、切れそうになると誰かが補充する。バイク便の仕事は待機が多い。必然的に暑さ寒さから逃れられてコーヒーを飲めるドーナツショップに寄る機会が多く、小熊もよく長居した場代替わりにドーナツを買って帰った。


 目の前に出されたオールドファッションっぽいドーナツは、よく行くドーナツ屋で見かける物より少し淡い色をしている。社長に目線で許可を貰い一つ食べてみる。揚げ物特有のくどさが控えめで、生地に独特の臭みがある、嫌悪感のある臭みではない。

 小熊は眉を上げて浮谷を見た、この社長とは付き合いは短くとも「これは何のドーナツですか?」と口に出して聞くような浅い関係じゃない、浮谷は聞いてくれと言わんばかりの表情で話し始めた。

「こないだうちまで晩ご飯食べに帰ったの、そしたらママがひーちゃん丸くなったわね、って、それでドーナツをおからのドーナツに変えたの、ほらあの市場のとこの店」


 小熊も知ってる店だった。この倉庫兼事務所の近隣にある広大な卸売市場。市場内の食堂は基本的にそこで働く人たちに向けた店だったが、最近は物流不況で客足も盛りを過ぎ、今ではグルメスポットとして外部の客を歓迎している、その中にあった自然食品店のことだろう。

「ねぇねぇ小熊ちゃん、わたし太った?」


 浮谷が体を押し付けてくる。正直少し体重は増えたように見えるが、それは小熊にとって浮谷の女としての魅力を損なうものではなかった。どうやら最初に思った通り浮谷は変わらないらしい、甲府の資産家だという実家を出て自分の力で生きていこうとしていることも、それが今いちうまくいってないことも、不安定な形で非常に安定している。

 とりあえず小熊は見た目の感想を正直に告げる。

「太りました。ドーナツは一回の休憩で二つまでにしてください。あと運動をしましょう。仕事は運動になりません」


 揚げ油にも米ぬか油を使っているというドーナツ二個を両手に持って食べていた浮谷は心外と言った顔をした。きっと横に置いてあるコーヒーも、いつも通り砂糖とクリームがたっぷり入ってるんだろう。

 小熊はいつも甘いものを食べる時そうしているようにブラックコーヒーで口の中をさっぱりさせる。インスタント特有の焦げ付いたような味だが、つい先ほど大学の部室で飲んだドングリのコーヒーよりいくらかましな味。意外とドーナツに合わないこともない。


 ここでドーナツとコーヒーを楽しんでいるのはここまでカブで走って来た小熊に必要な休息なれど、バイク便ライダーに悠長な時間というものは存在しない、とりあえず浮谷がさっそく言いつけを破り、三つ目のドーナツに手を伸ばす前に、小熊は仕事の話の戻すことにした

「ここに来るまでに電話でおおまかに内容は伺いました。私は言った。その仕事には二台が必要だと」

 浮谷はソファから立ち上がり、バルミューダの湯沸かしポットに水を注いでスイッチを入れながら答えた。

「もちろん私もそう考えた。もう来る頃よ」


 正直小熊がこの仕事を請けたのは、もう一度浮谷と走れるのを楽しみにしていたという理由もあった。ここに来て仕事用のバイクが浮谷の黒いフュージョン以外駐まっていないのを見て、目論み通りになると思ってた。替わりに聞こえてきたのは、小熊が出来れば二度と聞きたくなかった音。

 同じフュージョンながら音が太く大きい、しかも小熊のあまり好まぬバイクに乗りながら音楽を聴くスピーカーを付けているらしく、ジョン・ボンジョビの曲が一緒に近づいてくる。

 浮谷が愉快そうにコーヒーを淹れるのを尻目に、小熊は事務所を飛び出した


 無駄にタイヤを鳴らしながら駐まったのは、倉庫内の蛍光灯の灯りでけばけばしく輝くパールホワイトのフュージョン。

 派手なフュージョンに乗ったバンソンの革ジャン姿の女は、バイクと同色の下地にプラチナシルバーの十字架が描かれたヘルメットを取る。

 零れて流れる蜂蜜色の髪、パールホワイトのフュージョンに比しても白さの目立つ肌、エメラルド色の瞳。

 小熊の前に現れたのは、数か月前に入院生活を共にした、付け加えるなら三人の同室者の中で最も仲の悪かった女、清里のシスターというまことに適材不適所な仕事で生計を立てているバイククレイジー、あと馬鹿。


「よっ小熊ちゃん!、祈りながら生きてるか?」

片手を上げて挨拶したのは、小熊の二度と会いたくなかった、道の上で全く信頼できない女、桜井淑江だった。


  

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