第7話 ドングリ

 流し見した時にそうかなと思っていた生成り色の麻袋は、開けて見るとやはりコーヒーだった。

 この棚にあるのがインスタントコーヒーだけなら、小熊は竹千代にコーヒーを淹れようなんて思わなかった。

 袋のスタンプはインドネシアあたりの文字らしく小熊には読めなかったが、中身の豆は家畜の餌のようなひどい代物だった。

 いったいどこのコーヒー産地で採れた物なのか形がいびつで不揃い、焙煎も甘いらしく色が浅かった。


 キッチンを見回した小熊はフライパンを見つけ出し、軽く焙煎し直した。生豆を買ってきて自家焙煎しているコーヒーマニアに殴り倒されそうな手順だが、薫りはなかなか。

 どうやら美味なるコーヒーには見えないがカフェイン補給剤としての用は果たすらしい。小熊は春目にそれほど多くを求めているわけじゃないし、竹千代は多くを与える価値のある相手というわけでもない。

 手回しのミルで豆を粗挽きにした後、湯が沸くまでドリッパーやフィルターを探していて気づいたが、春目の縄張りらしきセッケン部室のキッチンは、随分と散らかっている。


 食材をあまり置かないせいか不衛生ではないが、ポットはコンロの横に置きっぱなしになっていて、コーヒーを淹れる器具も小熊なら同じ場所、あるいは右手でコーヒー豆の袋を手に取った時、自然に左手が伸びる場所に置いているが、このキッチンは何か作業するたびにキッチンの中でダンスでもするように歩いたり回ったりしなくてはならず、動きが悪い。

 ここで料理をするならば頻繁に手にする調味料類も、わざわざしゃがんで開けなくてはならない一番下の引き出しで、取り出す時に料理から目を離すことになる。


 このままではキッチンという作業スペースが事故の誘発装置になると思った小熊は、せめて目の前にある食器棚くらいは雑多な中身を分類したいという気持ちに駆られたが、そこは他人の作業場、どうせ何か起きても自分の命じゃないと思い、手をつけなかった。

 ドリッパーにセットしたフィルターペーパーにコーヒーの粉を落とし、沸騰後少し冷ましたお湯を慎重に注ぐ。なかなかの手際で二杯のコーヒーを淹れおわった頃、外から自転車が停まる音が聞こえた。


 豆と湯はまだ余っていたので、小熊はコーヒーをもう一杯淹れ足した。もし自転車の主が小熊の思っている人間ならば、この部室に少し長居して貰わなくてならない。

 小熊がカブで遊び回っていた十代後半の多くを、カブで過重な労働を課せられ使い潰されていた春目は、小熊を一段も二段も上回るカブの操縦テクニックを有しているが、小熊にも教えてあげられることはあって、説教の一つもしてやらなきゃならないこともある。

 とりあえず、コーヒーはもうちょっといい物を買え、と。


 竹千代よりピッチの早い、言い方を替えれば優雅さが感じられぬ歩調で階段を昇ってきた後、小熊と同じ手順で引き戸のロックを解除したのは、やはり春目だった。

 ここまで急ぎ目に自転車を漕いできたらしく、少し息を切らした春目は言った。

「こんにちは竹千代さん! あ、小熊さんも来てたんですか? 今日はこれを取りに来ただけで、今から自治体の草刈りに行かなくちゃいけないんです。セリとかヨモギとか、捨てるなんてもったいないので」


 部室の壁にかけてあったドンゴロスの袋を手に取った春目は、くんくんと鼻を鳴らした。

「小熊さんそれ飲んだんですか?」

 小熊は盆に乗せた三つのコーヒーカップの一つを手にして一口飲んだ。

 苦みは粘っこく残るくせに口をさっぱりさせる酸味は無い。控えめなのではなく、元々酸味をもたらす成分が入っていないような欠陥品。

「少し貰った、これはアラビカ種のコーヒーじゃない、きっとロブスタの変種だけど、こんなひどいコーヒーは初めてだ」 

 春目は首を傾げながら言う。

「それ、ドングリです」


 和室の中央に置かれた無垢材の卓子の前で、それまで瞑想をするように瞳を閉じてコーヒーを待っていた竹千代がゆっくりと瞼を開ける。

「秋にたくさん落ちていたから頼んで譲って貰ったんですが、コーヒーにしようとして色々試してもダメで、大学で飼っているウシにあげるために置いといたんです」

 竹千代は静かに小熊を振り向く。平穏な感情を宿す竹千代の黒い瞳を覗き込まずとも、内心で腹を抱えて大笑いしているのがわかる。

 キッチンに入ってきた春目が食器棚からずっと遠くのトイレ脇に置かれた缶を持ち上げて言った。

「コーヒーはこっちです。こんな袋にコーヒーを入れるわけないじゃないですか」


 竹千代は手を伸ばし盆からカップを手に取った。一口啜ってから言う。

「これだって焙煎をやり直せばなかなかだ。人によっては、コーヒーと間違える、かも、しれない」

 竹千代は言いながら耐えられなくなったのか体を前に折って大笑いし始める。

「キッチンが片付いてないのが悪い」

 小熊が顔を赤らめて反論すると、春目は小熊がキッチンを使っている時には気づかなかった地下収納を開けて、茶菓子らしき乾パンを取り出しながら言った。

「このほうがいいんです、同じところに置いたら取り間違えるし、お料理してて、あ、わたしさっきお砂糖入れたっけ、ってなっても、体を使って取りに行ったものなら忘れない」  

 もしかして小熊が春目から得る叡智は、スーパーカブのこと以外にもあるのかもしれない。


 とりあえず雑草取りに行かなきゃならないという春目を半ば強引に卓子の前に座らせた。春目も小熊がローストしたドングリのコーヒーを見て用を忘れたような顔をしている。

 小熊も自分がここに来た時に使っている客用の座布団を敷いて席につく。このまま春目を引き留めてコーヒーの時間を過ごそうと思っていた時、小熊のスマホが振動した。

 竹千代に目線で許しを求めて上着のポケットから取り出したスマホの着信画面を見た小熊は、出ることなくスマホをポケットに戻しながら立ち上がる。

「用が出来た」

 これから過ごそうと思っていた竹千代と春目との時間は、小熊が現在抱えている課題である金銭の問題を解決する上で役立つこともありそうだが、どうやら自分にはもっと優先すべきものがあるとわかった。


 優雅に手を振る竹千代と、小熊の勝手な都合で振り回され、結局他の誰かに小熊を連れていかれることについてすこぶる不満な顔をしている春目に、軽く手を振るだけの挨拶をした後、背を向けショートブーツを履いた小熊はセッケンの部室を出て階段を降りる。

 早足でカブを駐めた駐輪場に向かいながら、先ほど着信のあった電話先にかけ直す。

「小熊ちゃん助けて!」

 小熊が高校時代にバイク便ライダーとして所属した陸送会社の社長、浮谷東の声が聞こえてきた。


 小熊が道の上で信頼できる数少ないバイク乗りで、しばしば刺激的な仕事を依頼し、小熊に退屈しない時間を与えてくれる。

 そして小熊の働きに応じて、幾ばくかの現金をくれる人。

 小熊は浮谷の頼みは断らない。

 そう決めている。

    

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