第2話 モーニングルーティーン

 些細な悩みを引きずらない性格に生まれついたのか、目覚めは快適だった。

 和風の寝室で目覚めた小熊は、障子を開けて朝日を浴びながら布団を畳んだ。

 きっと快眠が得られた理由の半分くらいは、引っ越しを機に新調した寝具と、緑茶由来の着色料で青い畳の風合いを復活させるスプレーで蘇らせた畳のおかげかもしれないと思いながら、布団を押し入れに仕舞う。

 万年床で暮らすほど怠惰な生活をする気は無い。そう思いながら小熊は高校時代から着ているベトナム雑貨の黒いパジャマを摘まんだ。 

 このくたびれた寝間着も東京の大学生っぽい物に買い替えたほうがいいのかもしれないと考えた小熊は、昨日自分を悩ませた金欠という現象を思い出し、とりあえず自制することにした。


 屋外での農作業のため大型スピーカーのついた豊作ラジオのスイッチを入れ、NHKーFMをかけた小熊は、バイエルの練習曲を聞きながらユニットバスで朝のシャワーを浴び、下着とカーキ色のデニムパンツ、ボタンダウンシャツを身に着けた。

 帆布を自分で縫って作った巾着袋にiPadとワイヤレスキーボード、マーブルチョコの紙筒のような形のアルミ製ペンケースとノートを入れる。

 最初はルーズリーフファイルを持って行っていたが、高校ほど板書の多くない大学ではノートのほうが軽量で便利だった。大学ノートとはよくいったもの。


 最初は鍵盤を押す練習の短音から始まったバイエルが中級の両手弾き練習曲になるのを聞きながら、陽当たりのいいキッチンで朝食を作る。

 檜のバーカウンターテーブルに並べたのは、ベーコンエッグと四枚切りのトースト、バターとジャム、リンゴとトマト、ラージグラス一杯のスキムミルク。

 バーのキッチン側からリビング側に回り、スツールに腰かけた小熊は、簡単に作った朝食をあっさり済ませる。食べさせる相手も居ない気楽な一人暮らし、凝った物を作るのは休日だけでいい。

 たまに衝動的に朝からメキシカンピラフと牛肉の唐辛子煮とか作ってしまうこともあるが。


 朝食の洗い物を済ませた頃にはバイエルは中級編を終えつつあった、平板で簡易な曲が流れている。普段は嫌いじゃないピアノ曲が少々耳に障る。

 自分がピアノを習ったり教えたりしているんじゃなく、近所で子供がピアノを習い始めた家から、昼下がりに毎日聞こえてくるようなバイエル。

 目覚めてシャワーを浴びて朝食を済ませ、今流れている楽曲のように代り映えしない朝を迎えたが、自分はまだ目覚めていない。

 別にこれからスポーツの試合に行くわけでも、敵機を迎え討つべく出撃するわけではない、これから始まる一般教養の講義など、目が覚めていような寝ていようが関係ないと思った小熊は、赤いスイングトップスタイルのライディングジャケットに袖を通し、巾着袋を持って玄関前に立つ。

 

 バーカウンターを自作した時の端材で作ったシューズボックスからプロケッズの布製バスケットボールシューズを取り出した小熊は靴紐を結び、シューズボックスの上に置いてあったヘルメットを被った。 

 革グローブとキーを手に玄関を出た小熊は、築五十年過ぎの木造平屋には不似合いな分厚い樫のドアを閉め、ディンプル型の鍵で施錠する。

 隣接するコンテナの扉を開け、中から自分のスーパーカブを押し出す頃には、家から聞こえるバイエルは上級課程の曲を流し始めていた。

 コンテナを閉じて外に出したカブをキック始動させた瞬間、いままで止まっていたかのような胸の鼓動が復活し、自分の体に血が通った気がした。

 エンジンを暖機させながら各部の簡単な点検をする。安定したアイドリング音にバイエルの上級者向け楽曲が混ざる。

 

 多くは親に習わされたピアノを途中で泣いて行くのをいやがることなく、研鑽を積み上位の技術を身に着けた人間だけが奏でる音。

 このエンジン音も同じだ、と思った。日々のメンテナンスと、異常が発生したらすぐに察知することが可能な耳によって産み出された音。

 とりあえず眠っていた体は今日の義務をこなす程度に目覚めてくれた。それに満足した小熊はヘルメットのストラップを締め、革グローブを付けてカブで走り出した。

 非のうちどころのない完全な朝から、小熊の一日が始まる。


 数分後、ラジオをつけっぱなしにしたまま家を出たことに気づいた小熊は、慌てて家まで戻って来た。 

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