第40話 エミリ救出作戦―⑦

 窓から飛び出して、少し下の屋根に着地する。辺りを見回した俺は、自分の置かれている状況を理解して思わず顔をしかめた。


「屋根を伝っていくって、マジか……」


 エミリがいる尖塔までは、まだかなりの距離がある。そもそもこの場所からじゃ、尖塔の窓の高さには届かない。どこかで上へ登らないと……。


 本当に行けるのか? と不安が頭をよぎる。それを振り払うように、俺は強く屋根を蹴って走り出した。


 今の俺には、メアがかけてくれた魔法がついている。こんなステージ俺の敵じゃない。


 走る、走る。角度が付いていて不安定な屋根の上を、出来る限りのスピードを出して走る。


 時折、暗い視界が明るく彩られて、リーダーたちがちゃんと仕事をしてくれていることを気づかせてくれる。パクレさんに作ってもらった魔道具も見事な出来栄えだ。

 城下町の方の作戦は上手くいっているようだ。エレンはどうだろう。メアとロジクルさんは、もう合流出来たかな。


 しばらく走っていくと、今俺が走っている屋根より、少し高い屋根にぶつかった。登れない高さじゃない。手を伸ばせばすぐに届きそうな距離だ。

 魔道具を固定しているベルトを締め直し、ゆっくりと壁に足をかける。


 人間界にいた頃の自分に、異世界の城の屋根を走っていることを伝えたらなんて言うだろう。エミリとまだ出会う前の、死んだ目をした俺は。


「よ……っと!」


 どうにか屋根の先を掴むと、懸垂のように体を持ち上げた。体が少し上に持ち上がったところで、右手を伸ばし、屋根にしがみつく形でどうにかこちらの屋根へよじ登る。


「いってぇ……」


 もう既に両腕が辛い。でも、こうして情けない姿を晒してもいられない。俺はもう一度立ち上がって、走りだす。


 こっちの屋根はそんなに長くは続いていなくて、すぐに城壁にぶつかるようだ。四角くでこぼこした壁、っていえばいいのか、上手く表現が見つからないけど。そういう壁。階段状に高くなっていくその壁は、まるで俺に登ってくれと言わんばかりだった。


 いつ兵士に見つかるかわからない。一度足を滑らせたら死。そんな切羽詰まった状況を走り抜けてはいるけど、不思議と焦りはなかった。

 焦りの代わりに俺の脳裏によぎるのは、この世界で過ごした日々ばかりだ。


 ――突然エミリが死んだと聞かされて、混乱した頭のまま屋上から飛び降りた。あの時は完全に冷静さを失っていたと思う。絶対にエミリに会えると、根拠もなく信じ込んでいた。


「おい、見つけたぞ!!」


 静かな夜を破る強い声が聞こえて、俺は思わず振り返った。窓から顔を出した兵士が、俺を指さしている。


 まずい。見つかった。


「くそっ!」


 ただ、壁はもうすぐ目の前だ。俺はスピードを上げ、壁に手を伸ばす。四角い窪みに手をかけて、四つん這いの体勢で登り始める。


 ――落ちてすぐロジクルさんに会って、言葉がわかる魔法をかけてもらえたのは幸運だった。ガッシュさんやゴンゴさん、リーダーに他にもいろんな人に出会って、支えられて、俺は今ここに立っている。


 壁は思った以上に薄くて、不安定な体勢は少しの風ですら命取りになるほどだ。俺は必死に掴まりながら、着実に上へ登っていく。

 

 それにしても、見つかったのに兵士たちが追いかけてこない。あの窓からここまで、そんなに距離はないはずなのに。いやありがたいんだけど。


 そう考えていた時、不意に、両腕に痺れるような痛みが走った。


「ッ!?」


 腕の力が抜けそうになって、慌てて力を入れ直す。痛みはすぐに全身まで広がってきていた。耐えられないわけじゃないけど、壁を登るだけでも精一杯だからこれ以上障害を増やさないでほしいってところだ。

 

 それと、この痛み……苦しさと言ったらいいのか、それには覚えがあった。


「魔素……?」


 魔素に蝕まれながら夜の森を走っていた時、感じていたのはこれに似た苦痛だった。ただ、あの時と違って、今の俺は人より魔素を多く吸収できる体質。魔物を取り込んだり魔素の塊を飲み込んだりしても、特に身体に異常が出ることはなかった。


 ということは、俺の身体が異常をきたすほど大量の魔素が、体内に流れ込んでいる?


 嫌な予感がした。


 俺は登るスピードを速めつつ、出来るだけ多くの魔素を吸収しようと意識を集中させる。そのとき、どこかから声が聞こえてきた。


「奴はまだ壁にいる! 早く罠を発動させるんだ!」


 ハッと振り向くと、さっき兵士が顔を出していた窓の向こうに数人の兵士たちが見えた。正面に立った兵士が、緊張した面持ちで俺を見上げているのがわかる。


「今発動させます! 発動まで、3、2、」

 

 突然始まったカウントダウンに、いきなり三秒前かよ、と驚く。すぐ近くに下りられるような足場はないし、落ちたら間違いなく死ぬ。 

 つまり、今の俺に出来ることは、信じて登り続けるしかないってことだ。流れ込んでくる魔素はほとんど吸収し終わった。


「1――」


 0。


 カウントがゼロになった時、辺りはしんと静まり返っていた。何も起こらない。罠が発動した様子はどこにもなく、俺は思わず大きく息を吐きだした。


「よかったぁ……」


 多分、俺が魔素を全部吸収したおかげで、罠が無効化されたのだろう。イチかバチかの賭けだったけど、勝てたみたいで良かった。


 ざわめいている兵士たちをよそに、俺はまた手に力を入れて上へ進む。エミリがいる尖塔の窓まで、あと少しだ。あと少しでエミリに会える。


 しかし、兵士たちも見逃してはくれない。耳元で風を切る音が聞こえて、顔を上げるとさっきの光の矢が俺めがけて飛んできていた。この壁の上では避けられないとわかっているのだろう。


 俺はなるべく身を低くして、一段一段壁を登っていく。矢が体を掠めていく。薄れていた脇腹の痛みが、また蘇ってきた。


 そして、不意に左肩に鋭い痛みが走った。


「ぐ、ああぁあ!」


 そのあまりの痛みに思わず叫ぶ。左腕の痛みと衝撃で、ぐらりと体が傾いたのがわかった。明らかに左腕の方に力が入らない。


「ぐっ、う……」


 無理やり右へ体重をかけ、壁にへばりつく。左肩に視線をやると、刺さった光の矢が、今も肉に深く食い込み続けているようだった。道理で痛みがひどくなっていくわけだ。


 冷汗が噴き出していた。痛みで視界が霞んでくる。それでも、それでも。


 俺は、刺さっている矢に噛みついた。そのまま、歯で矢を抜き取る。


「ぎ……ぃっ!」


 抜いた矢を、下へ吐き捨てる。そのまま胃の中身も吐き出しそうなくらい痛い。矢を抜いた拍子に血が噴き出した。


「は、はっ、はあ……っ」


 ――何より、ここまで来られたのはエレンとメアの存在が大きい。二人がいつも俺を支えてくれたから。二人が今も頑張ってくれているのに、俺が頑張らないわけにはいかない。


 激痛が走る左腕を伸ばし、一つ上の段を掴んだ。右足を一段上へ持ち上げ、右腕ももう一段、次に左足。


 震える腕で、荒い息で、顎から汗を滴らせて、それでも動くのを止めない。


 今の俺には、エミリしか見えていなかった。もう一度君に会いたい。たったそれだけの、でも俺にとっては命よりも大事な願いで、異世界まで来た。


 尖塔に届く高さまで、あと五段。四段。三段。二段。


 一段。


 力強く上り切って、俺は顔を上げた。すぐ真横に尖塔の窓があり、ここからなら格子に手が届く。


 最後の力を振り絞って、俺は腕を伸ばした。壁を蹴って、エミリのいる場所へ跳ぶ。


「エミリ!」


 ――俺の手が、尖塔の嵌め格子を掴んだ。


 

 

 

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