第5話
【意見を持つ訓練をしよう】
何かの記事で読んだ話。
アメリカの大学で研究するのに、常に自分の意見を持って立ち位置を明確にしなければいけない、らしい。意見を持つという言葉を読んで、自分が全くできていないぞと結構焦った。文章は、どちらの政党を支持するとか、何かの出来事についてどう思うだとか、研究者らしい文章が並んでいたのだが、私のようなアカデミックに関わりのない生活をしていると、Aという製品が好きとか、この人のコメントについて同意できないとか、もう少し日常に即した話題になるのだろう。しかしながら、貴方がそう思うのならそれでいいんじゃないの? とは思うけど、私はこう思う、とまで言えない。相手は尊重するけど、自分との区別ができない。これでは、曖昧で中途半端だ。だから私は相手との間にきちんと線を引くためにも意見を持つ訓練が必要なのではないかと考える。
意見を持つということは、自分の輪郭が明確になる手段の一つだ。例えば、一人で週末を過ごすことが好きだが、大人数で外出するのは得意ではない。自分の中で好き嫌いが明確になっているだけで、例えば週末のBBQに参加するかどうかを決めることができる。嫌いだけど、お付き合いとして必要だからきちんと参加するのか、理由を作ってでも参加できないことにするか、自分の意見で選択できる。予定なければ参加してよ、と言われて嫌だなーと思いながら参加するという消極的な選択をする必要がなくなる。私という輪郭がクリアになるのだ。
意見を表明することは時に対立を生むが、ロジカルに会話できる相手かどうかを測ることができる。何が問題で、何を望んでいて、どう変化して欲しいのか、察してくれと望まれても、できないものはできないのだ。自分がそのようにしていることを気がつくこともあるし、要求されることもある。ただ、ひとりの頭の中でグルグル考えるよりは、一旦は口に出して何らかの反応を見たほうが物事は進展する。また、それがマイナス方向であればあるほど、きちんと話せる相手かどうかが明白になるのだ。
意見を持つことのデメリットもある。日本の風土とは合わないのだ。多くの人は意見が対立すると感情的に処理してしまう。基本的にあれはあれ、これはこれ、と区別することは苦手なのかもしれない。自分でもできないこともある。でも、それでは自分のコントロールができていないことになる。坊主と袈裟ではないけど、纏めていけないものを纏めて考えるのは中途半端だ。だから、考えをまとめて区分しなければならない。
これを書いていて、できない事が多すぎて嫌になるくらいだ。きちんと自分の意見を持って、表現しよう。できないものは訓練するしかないか。
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