第8話

 次の日、明朝から寺の方へと向かい家を出る翠雲。

 大臣の白く綺麗な衣装から、庶民らしい衣服を着て寺へと向かう。


「さて、陸奏はちゃんとやっているかな?」


 春桜にも大臣にも見せたことのない嬉しそうな表情で、足取り軽やかに町の中を歩く。大臣としての役職から完全に切り替え、翠雲は民と変わらない服装で歩いていた。


 基本的に大臣が町中を歩くことはない。出歩いたとしても、最低でも二人の護衛を同行させる。

 そのため、すれ違う人たちが大臣の翠雲だと気付くには少々時間がかかったが、それもすぐに正体がバレてしまう。


 庶民と同じ格好でも、変わらぬ立ち居振る舞いに、人々はその姿を見るや否や地に伏せた。


「す、翠雲様……!」


 地べたに額を押し当て震える民の一人に、翠雲はしゃがんで話しかけた。


「どうか頭を上げてください」

「……!」


 声を掛けても、面を上げない農夫の身体は震えていた。

 殺されるかもしれないという恐怖、目に見えない圧力が、どうかこのまま穏便に過ぎ去るようにと、農夫は心の中で祈っていた。


 そんな農夫の肩にそっと手を添えて翠雲がささやく。


「……もし困ったことがあれば、寺に居る海宝殿を訪ねなさい。断られた時には陸奏と言う者を訪ねて私の名前を出しなさい。きっと助けになってくれるでしょう。あまり無理をなさらず。日頃の務め、誠にありがたく思っております。体だけは壊さぬよう大事にしてくださいね」


 翠雲は言い終えると、何事も無かったかのように寺の方へと歩き出す。


 彼の言葉を聞いた農夫はその場で涙を流して喜んだ。それ以降、農夫が人一倍、己の仕事に励むようになったのは言うまでもない。





 その後、寺へと向かいながら町の様子を観察していた翠雲は、ある程度の飢饉は収まったようだと安堵していた。山間部の川から水を引き、城下町近くの村の田畑へと流すことに成功、加えて運搬経路も見直したおかげで、周囲の村への往来もしやすくなった。


 海産物も海から離れた城下町へと届けるには厳しかったところを、干物にすることで城でも食べられるようにした。


 おかげで王城、城下町、周辺の村での取引は盛んになった。それでも、これがその場凌ぎの策であり、他の地域にまで手が届いていないことを、翠雲は誰にも言えずに心配していた。


 しばらく町の様子を確認した後、ようやく寺へと着いた翠雲は本堂へと向かった。

 戸を開けると、そこには海宝を囲むように僧侶達が座して並んでいた。


「おや、珍しいお客様ですね」

「海宝殿、お元気そうで……」

「あなたも、お元気そうですね」


 本堂の中で、僧侶たちに説法を説いている海宝に挨拶をすると、その中から翠雲を勢いよく呼ぶ声がした。


「翠兄さん!」

「おお、陸奏も元気そうだね」


 優しげに微笑む翠雲。

 陸奏は久しぶりに見ることが出来た義兄に大層喜び、座禅の姿勢から立ち上がるとすぐさま、翠雲へと近寄った。


「元気にしておられたのですか? お体は大丈夫ですか? 翠兄さんの策が民を救ったと皆口々にしていましたよ! あと、それから……!」


 楽しそうに話す陸奏に押されたじたじの翠雲は、海宝に目で合図を送った。

 海宝は静かに頷き、僧侶たちへと終了の知らせを告げた。


「ふふ、では今日はこの辺りにしておきましょうか。あまり根を詰めすぎてもいけませんからね」


 僧侶たちは一同揃って海宝へと一礼すると、その場を後にした。

 本堂には、礼の遅れた陸奏が翠雲の横であたふたとしている。その姿を海宝と翠雲が別々に微笑みながら見つめていた。


 陸奏は再び海宝へ向いて座り込む。


「……すみません。嬉しさのあまり、つい我を忘れてしまいました……」


 落ち着いた陸奏が海宝に頭を下げて猛省した。


「無理もありません。もう一年以上会っていなかったのでしょう。大丈夫ですから、翠雲さんとお話ししてください」


 優しく許す海宝に満面の笑みを見せて感謝を述べた陸奏。


「海宝殿、陸奏を連れて行ってもいいですか?」

「ええ、構いませんよ」

「ありがとうございます」

「海宝様ありがとうございます!」

「ふふっ、ゆっくりしていってくださいね」


 本堂の戸を閉めようとする翠雲はさっと振り返り、海宝へと頭を下げてからその場を後にした。


「……ふふ、本当にどちらも素晴らしい兄弟ですね」


 海宝は手を合わせて祈りながら、二人の今後の無事を願った。

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