第2話


 美乃梨が事故に遭い一月ほどが経過していた――

 

 そんなこと全く知らない白川 翔(しらかわ しょう)は、いつも通り勉強をしていた。

 というよりも、彼には――それ以外にやることがないといっても過言ではない生活環境だった。

 小学校3年生になった頃。あるひ突然、妹から『キモイから二度とその顔見せないで!』と罵倒され自室に軟禁状態となったからである。

 本来なら、そんな妹の言動をなだめるべき役割である父親は完全に美乃梨の味方であり。父親に逆らえない母親もまた翔の軟禁を黙認。

 何度となく学校からの問い合わせもあったが、精神的な問題だと親は嘘を吐き続け。結果的に本来ならば高校に通っている歳になっても翔の生活は変わらなかった。

 翔が家の中を自由に行動できるのは妹が学校等に出かけている時間だけであり。お風呂に入ったりするのも、そういった時間を利用して暮らして来た。

 母親の方は罪悪感から、それなりに気を使って翔の面倒を見ているが、父親の方は関心を示さなくなっていた。

 より正確に言うのならば、美乃梨が産まれてから翔に対する興味が薄れ始めていたと言った方がしっくりくる。

 だからこそ、翔は驚いた。まさか父親から頼みごとをされるとは思ってもみなかったからだ。


「頼む! 翔! 妹に! 美乃梨に会ってやってくれないか⁉」


 話しかけられるのは8年ぶりくらいだろうか?

 ノックもなしに突然ドアが開いて入って来るものだから、最初は誰がきたかも分からなかったし。父親だと認識出来たのだって隣に母親が居たからである。


「おねがい翔! 都合が良すぎる話をしてるってのは分かっているの! でも、お父さんの話を聞いてあげて!」


 正直なところ父親はともかく、母親の頼みは聞いてあげたいと思う翔であったが、妹に会う――その理由が理解できなかった。

 ひどく嫌われている相手。自分が軟禁状態にされてしまった原因。そんな相手にいまさら会ったところでどうなるのだろうか?

 いい印象が全く思い浮かばなかった。


「でも……」

「頼む! 頼むよ翔! 美乃梨が会いたがってるんだ!」

「え?」


 父親の顔をみれば、冗談じゃないことだけはわからなくもない。

 しかし、理由も説明もなしで納得しろと言われても無理な話である。


「なんで?」

「美乃梨が! 美乃梨がやっとしゃべってくれるようになったんだ!」


 ますます訳が分からなくなった。

 

「ただね。話すようになったと言っても……なんか今までとは違っていて…ね」


 ほとんど話したことのない父親に聞くよりも母親から説明してもらった方が早い気がした。


「お母さん。よく分からないけど、きちんと順序立てて話してくれないかな?」

「あぁ、そうよね。いきなり、こんなこと言われても訳わかんないわよね」


 母親から聞いた話によると妹は車に撥ねられたらしい。

 頭も強くうっていたみたいで記憶障害が起きている可能性があるとの説明だった。

 ちなみにひき逃げした犯人は捕まっていて、薬物中毒者だったそうだ。

 それと、美乃梨が倒れていることを通報してくれた人は匿名だったそうでお礼もできていないとのことだった。 


「じゃぁ、ボクが会っても大丈夫ってこと?」

「えぇ。むしろ会いたがっているの。だからお願い。美乃梨に会ってあげて」


 翔が「わかったよ」と言って理解を示した途端に父親から出かけるから付いてきてくれと頼まれ。

 言われるがまま、外に出た。

 久しぶりの外の空気は、なんだか少し新鮮で、でもどこか異界にでも飛び込んだような違和感があった。

 太陽は、まぶしくて――雨上がりだからだろう。むわっとした湿気の多さと変な臭いで少し気分が悪くなる。

 そもそも外に出る事がなかったのからサイズの合う靴すらなく。とりあえず父親の革靴を履かされていた。

 ぶかぶかで歩きづらい。それでもないよりはましだと思った。





 約8年ぶりに見た街の景色。

 父親が運転する車のウィンドウごしに見た街並みには、やはり違和感しか感じなかった。

 軟禁状態になった当初こそ、外に出たいという欲求も強かったが――今となっては完全に馴染んでしまっていたからだ。

 翔にとっての世界――そのほとんどが自分の部屋であり。妹の居ない時間だけが平和だった。

 そんな、平和な時間を自ら壊すような事態に直面しようとしている事実を実感し始めたのは大きな病院が見えてきた時だった。

 今ならまだ逃げられるんじゃないだろうか?

 そんな甘い考えはすぐに通用しないと知った。

 車が駐車場に止まるのと、ほぼ同じに父親が車から降り――後ろのドアを開けると後部座席に座る翔の腕をとり。美乃梨の居る病室に向かって急ぎ足で進み出したからだ。

 後からついてくる母親が、「お父さん車の鍵!」と言っているが無視である。

 握られた腕は痛いくらいで――とても逃げられるような雰囲気じゃない。

 エレベーターを待つときも父親はかなりイライラしているみたいで落ち着きがなく。

 よけいなことでも言ったらひっぱたかれそうで怖かった。

 それは母親も同じらしく何も言わず黙って立っていた。

 ようやくエレベーターが下りてきてドアが開く。中には誰かのお見舞いにでも来ていたのだろう老齢な夫婦と、その孫だと思われる子供が一人乗っていた。

 老齢な夫婦は2人とも杖を使っていて足取りも遅い。男の子だけは元気に飛び出し「おじいちゃん、おばあちゃん早く!」なんて言っている。

 冷静に考えればたいした時間でもないはずなのに握られた腕はさらに強く握られ。冗談抜きで痛いのを我慢していた。

 ようやくエレベーターに乗ることができると1秒でも無駄にしないとばかりに父親は5Fのボタンを押すと、すかさずドアが閉まるボタンを押す。

 母親がドアに挟まれるのもお構いなしといった早さだった。もっとも、それを想定していた母親は身体を横にしてするりと入ってきたが。

 5階に着くとドアが開き切る前に父親は飛び出す。

 乗る人が待っていなくて良かった。誰か居たらきっとぶつかっていただろう。

 そして527号室の前で足を止めると、これまたノックもせずにドアを開ける。 


「美乃梨! 翔を、お兄ちゃんを連れてきたぞ!」


 久しぶりに見た美乃梨は病院のベッドに寝ているせいだろうか、妙に弱々しく見えた。

 そして何よりも翔の知っている美乃梨は小学生の――それも低学年の頃の話である。まるで別人みたいで少なからず異性として意識する可愛らしさも持っていた。


「おにいちゃん……なの?」


 美乃梨の視線が頭の上から足の先までじーっと見つめている。


「あぁ、美乃梨! お前が会いたがってたお兄ちゃんだ!」


 父親は翔の腕をグイっと引っ張り、翔を美乃梨の前に立たせる。

 あまりにも強引だったため翔はつんのめりそうになるが何とかこらえた。


「おにいちゃん?」


 茶色い瞳が半信半疑のまま翔に問いかけるが、翔はどうこたえていいやら少し悩んでから、「うん」とだけ言った。


「ねぇ、おにいちゃん。どうしてそんなにも髪が長いままなの? なんかおばけみたいだよ」

「え……」


 美乃梨から顔がキモイから見えないようにしといてと言われていたため翔の髪の毛は何年もの間切っておらず。それは前髪も同じだったため――顔の大半が髪の毛で隠れていた。


「それに、その靴……おにいちゃんのじゃないよね?」

「あ……うん」

「ねぇ、お父さん! お母さん! どういうことなの⁉」

「あ、いや、これはだな……」

「その、ちょっと時間がなくてね」

「どういうことなのか、きちんと説明してって言ってるの!」


 実に理不尽である、こうなった原因を作ったとしか思えない相手が逆に責めているのだから。

 両親は、視線を合わせどうしたものかと思考を巡らせるが、これと言った答えは出せず、時間だけが過ぎていた。


「ねぇ! お父さん! お母さん! きちんと説明してって私は言ってるの!」

「お、落ち着くんだ美乃梨!」

「そうよ、美乃梨お医者さんから、あまり興奮しないようにって言われてるでしょ?」

「だったら、きちんと説明してくれたらいいじゃない!」


 全部お前のせいだろ!


 そう言えたならどれだけ簡単に事は済んだだろうか。

 結局、騒ぎを聞きつけた看護師に止められ、この日の面会は強制終了となったのであった。 





 帰りの車の中も無言だった。

 誰も何もしゃべらない。

 3人とも美乃梨の事を考えていた。

 両親にとって美乃梨は初めてできた子供であり、特に父親の方は溺愛していて。母親の方も父親ほどではないが美乃梨中心の生活を受け入れていたし、本音で言ったら翔を引き取った事を少なからず後悔していた。

 なかなか子供の出来なかった白川夫妻にとって母親の姉が育児放棄した事は、ある意味渡りに船と言ったところだった。

 しかし、いざ自分達の子供が出来てしまえば別――極端な言い方をすれば邪魔者でしかなかった。

 だからこそ美乃梨中心の家庭環境となり、美乃梨の言う事が絶対的な権限を持つようになったのも必然と言えた。

 両親からしたら、それに従って生きてきただけの事。

 義理とは言え息子を軟禁状態にしていることが社会的に見たら間違っていることも理解はしている。

 それを、あんな形で突きつけられるとは思ってもみなかった。

 歪んだ家族関係を今後どうするか?

 両親はそんなことしか考えておらず。翔に新しい靴を買ってあげるとか、美容院に連れて行くとか――そういった最低限のことすら頭になかった。

 その一方で翔は、きちんと今後の事を考えていた。

 一時的にせよ昔みたいに兄妹として付き合って行かなければならないとしたら、それなりの役を演じなければならないことを――


「ねぇ、お母さん。ボク新しい靴が欲しい」

「あ、あぁ。そうね、そうだったわね。お父さん、靴! 翔の靴買いに行きましょう!」

「そ、そうだったな。先ずは靴を買いに行こうか」

「あと、髪も切りたい」

「そ、そうよね。髪も切らなくちゃいけなかったわよね! 電話して聞いてみるから」


 母親が少しでも冷静だったのなら、自分の行きつけのの店に連れて行こうなんて考えもしなかっただろう。

 外に全く出ない生活を何年も続けてきた翔の肌は病的なまでに白く。長い髪はホラー映画にでも出てきそうなほどに不気味。

 当然美容院のスタッフもドン引きだった。

 それでも、なじみのお客さんの息子なんだからと自分に言い聞かせプロ根性で相応の接客態度を見せ。翔を夏向きの短めでさっぱりとした印象を与える髪形にカットし終えたのである。 


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