第230話 聖戦
またここに来てしまった、と樋口は感慨深く思う。
高校球児たちにとっての聖地、甲子園球場。
オープン戦と、すでに一度三連戦で来ているが、その時は試合に出ることがなかった。
甲子園になど別に来たくもなかったし、高校生になってまで野球をやる意味などないだろうと、中学生の頃には思っていたのが樋口である。
キャッチボールを教えてくれた父が死に、そしてそれと関わるように、樋口の世界は動き始めた。
上杉勝也、そしてその弟の正也と共に、別に来たくもなく、来れるとも思わなかった甲子園にやってきた。
あの熱い夏を、結局樋口は忘れることが出来なかった。
恩人である上杉を、優勝させることが出来なかった。
プロに入って一年目から優勝し、数々の栄誉を手にしているのを見て、やっとほっとしたものだ。
もう一つの目標である、新潟に初めての優勝旗を、という目標は意外にも次の年に達成出来たのだが。
高校生の頃はほぼ無縁であった神宮球場は、大学野球では飽きるほど何度も試合をし、そして今では球団の本拠地となっている。
これからのプロの生活では、他にも多くの球場で、プレイしていくことが多くなるのだろう。
プロのみが使う甲子園のブルペンで、樋口は軽く吉村のボールを受ける。
(悪くないな)
だがライガースを抑えられるかは微妙なところだ。
単純に試合に勝つためだけなら、大介は敬遠してしまえばいい。
野球というのは一方的に勝負を避けることがルールのある、珍しいスポーツだと思う。
ただ高校では学生らしくないとされていたが、プロではプロとしての興行から、現在大介を露骨に敬遠することは出来なくなっている。
それでも意地より飯が優先するプロの世界では、よほどシビアに勝負を避けていたのだが。
甲子園での対決で、大介の恐ろしさはよく知っている。
だが真に理解したと言えるのは、味方となった時だ。
ワールドカップはまさに、一人で大会を破壊した。
アメリカでもハイスクールのベースボールがあそこまで注目されたことなど、今までに一度もなかったという。
もっともあれが野球のパフォーマンスだけではなく、直史の双子の妹が、イリヤたちと組んでやってしまったからだが。
そしてWBCでは、散々にMLBの当落線上の選手たちを蹂躙した。
決勝で直史がマダックスなどしなければ、MVPは大介だったろう。
(あれをまともに打ち取ろうってのは、上杉さんぐらいしか許されないだろ)
もう一人、結局一度の準公式戦しか戦わずに、完封した者もいるが。
おおよそプロの世界を理解してきた樋口としては、直史と自分がバッテリーを組めば、年間20勝0敗で年に一度のペースぐらいではノーヒットノーランが出来るだろうと思っている。
ただ、今はレックスの投手陣で、大介を封じなければいけない。
(厄介なことだな)
それでもお仕事なので、やらなければいけないだろう。
代打時代からマスクを被ったここまで、樋口の打率は四割近くになっている。
ただし正捕手争いに勝利した今、爆発的にバッティングで貢献する意思はなくなっている。
計算高い樋口は、年俸を増やすことをちゃんと計算している。
必要なのは打率よりもOPSだ。
そして打点やホームランはほどほどでいいし、怪我の可能性が高い盗塁は、出来ればしたくない。
一回の表はワンナウト二塁で、三番の樋口に回ってきた。
キャッチャーが三番打者というのは、かなり今は珍しい。
去年は三番に入ることが多かった緒方は、二番に入っている。
セカンドランナーにいるのは西片なので、深めのヒットならば単打で帰ってこられるだろう。
だがさすがに樋口も、そこまで簡単にプロのボールをヒットに出来るわけではない。
(特にこいつは)
MLBでも先発と中継ぎの両方で結果を残しているキッド。
去年は19先発ながら12勝5敗という立派な成績を残していた。
そのうち一つはリリーフから得た一勝であるが、立派に貯金を作ったピッチャーではある。
今年は序盤で勝ちがつかなかったため、リリーフで起用されることが多かった。
だが他の先発陣の不調から、またも先発ローテに復帰。
そもそも安定感が微妙だっただけで、抑える時はしっかりと抑えるピッチャーだったのだ。
(しかしここで打ってもなあ)
しっかりとボールを選んで出塁した樋口であるが、その後の四番ワトソンが凡退し、点は入らなかった。
大介が三番に復帰してから、明らかにライガースは調子を上げている。
毛利がえげつないぐらいに際どいボールを見極め、今日も先頭打者出塁。
ここは想定内の樋口である。
続く大江には進塁打を打たせて、ワンナウト二塁。
そして大介の打順である。
(ここだな)
普通なら大介を歩かせるような状況。
吉村はスライダーを投げられるが、真田のような対左用の特効兵器ではない。
(というわけで)
(そこだとバットが届くと思うんだが)
(当てさせればいいんですよ)
初球のアウトローを、大介は見逃した。
わずかに外れてボールとなる。だがストライクとコールされてもおかしくなかった。
二球目もアウトローで、これも外れる。
「トライク!」
「ん?」
大介は審判を見たが、視線が合ってしまう。
「入ってたか……」
「入ってるんだよ」
大介の独り言風味に、樋口は応じる。
コースは同じだ。だが樋口が少しだけ、ミットを動かしながらキャッチした。
ボール判定されても仕方がなかったが、これで次のボールが要求しやすくなる。
吉村はサインに一発で頷き、三球目を投げる。
その膝元へのスライダーを、大介は掬い上げた。
スタンドの最上段近くへ。ただしポールの右方向。
ライトへのファールである。
(思ったよりはかなりはっきりしたファールだったな)
もっとぎりぎりに飛んでいくかと思ったが、マウンドの吉村も安堵している。
これでワンボールツーストライク。
樋口の出したサインに、吉村はまたも一発で頷く。
アウトロー。大介は踏み込んで手を出す。
だがボールはわずかにスライドしていく。スライダーと言うよりは、カットに近い。
これで空振りしたり、ゴロを打ってくれればありがたいのだが、大介は上手く三塁側にカットした。
そう簡単には打ち取れない。さすがと言うべきなのだろう。
(じゃあもう、これでいくしかないかな)
樋口のサインに、吉村はわずかに迷ったが、強く頷いた。
盲信ではなく、不安を感じた上でさらに、樋口への信頼が頷かせたのだ。
アウトローへの後はインハイ。単純なリードだ。
このボールを大介は打ったが、わずかに球威を読み違えた。
高く上がったライトへのフライは、風に押されてグラウンド内に戻される。
一度フェンス近くまで下がったライトは、数歩前に出てこれをキャッチした。
これでランナーがタッチアップし、ツーアウト三塁とはなってしまったが、大介をアウトにすることに成功した。
次は金剛寺であるが、とりあえず肩の力が抜けた樋口である。
レックスとの対決ばかりではなく、ライガースの他のチームとの試合も見ていた樋口は、今のライガースの弱点が分かっている。
それはピッチャーだ。
かなり充実してきた投手陣であり、ピッチャーそのものに問題があるわけではない。
せっかくのピッチャーを活かしきれていない。
つまりキャッチャーがまだ未熟なのだ。
滝沢と風間の二人を、ほぼ同じぐらいの割合でスタメンのマスクを被らせている。
逆に言うとこの二人は優劣がつかない程度のレベルなわけだ。
確かにピッチャーとの相性もあるだろうが、樋口の調べた限りでは、どちらもそれほどの違いはない。
配球やリードについて考えているのは、ベンチのバッテリーコーチ島本らしい。
島本もいつまでも、二人を遠隔操縦しているわけにはいかない。
なので普段は任せているが、ポイントを絞ってサインを出している。
つまり逆に言えば、ベンチからのサインを解読すれば、ピッチングの内容も分かってくるということだ。
だがベンチからのサインを解読し、さらにバッターにサインを送るのは時間がかかる。
あまり打ちすぎてもあちらにバレてしまうので、しばらくは樋口一人で活用するしかない。
それにしてもライガースも、しっかりとしたキャッチャーを獲得するべきではないだろうか。
あるいはこの二人以外にも、もっと力を入れて育成するべきではないか。
(ライガース、今年の新人にキャッチャーはいなかったな。てか、ここ数年ほとんど取ってないのか?)
キャッチャーは一朝一夕に出来るポジションではない。樋口が言うと信憑性がないが。
12球団を見ても30歳前ぐらいまでの正捕手は、樋口以外には北海道の山下と、福岡の七星ぐらいか。その七星もまだ、二ノ宮のサブ的な役割もある。
あとは千葉も武田が最近はスタメンマスクを被るようになってきたが、どちらかと言うと打撃期待のキャッチャーである。
あれ、ひょっとして今のNPBで最高のキャッチャーって俺じゃね? と樋口は思った。
実績は他にも優れたキャッチャーはいるが、高年齢化が進んでいる。
全盛期と比べたらその力は、明らかに衰えているだろう。
もちろん二軍の方では、キャッチャーも育てているだろう。
もう少し調べる必要があるかなと、樋口は考える。
第一戦は結局、先発交代後にレックスがリリーフ陣を叩いて勝利した。
大介にはソロホームランを一本打たれたが、他の三打席を打ち取ったので、充分な戦果であろう。
ライガースのキッドも悪くなかったが、同点のまま球数が嵩んだところで交代。
その後にオニールが打たれてしまい、黒星を喫したのであった。
実はこの試合まで、今季ライガースはレックス相手に、八勝一敗で完全に負けが先行していた。
それがしっかりエース格の吉村を使って、勝てたわけである。
ライガースとしても連勝を五で止められて、悔しいところはある。
しかしその中でも大介だけは、他の部分に注目していた。
樋口は四打席のうち二打席を、フォアボールを選んで歩いた。
そして残りの二打数のうちで一本のヒットを打って、一打点を加えた。
スターズほどではないが、貧打と言われていたレックス。
だが今日はキッドも打たれて、その後のリリーフも打たれてと、あまりいいところがない。
レックスは以前ライガースにいた西片もいるため、ある程度は手の内を知られている。
今日の試合は特に攻撃面においては、あと一歩が足らなかった。
大介のソロホームランがあって、他に取れたのが二点。
はっきりとは言えないが、吉村のピッチングは良かったのは確かだ。
それにリリーフ陣もしっかりと投げて、七回以降は無失点。
吉村にしても六回を三失点と、俗に言うクオリティスタートである。
大介はここで思い出す。
二年前のWBCに向けた、NPBの日本代表が、大学選抜と対戦した試合。
あれは完全に、直史によってプロのトップが制圧された試合であった。
しかしその直史と組んでいたのは、樋口であったのだ。
寮の部屋で自分のパソコンのモニターに、今日のピッチャーの配球を映す。
大介に対するピッチングは、間違いなく配球が決められている。
だが打ち損じたボールだけが、そのパターンからは外れている。
打ち取られたのは三回とも外野フライで、方向がもう少しずれていれば、あるいは当たりが弱ければ、フライアウトではなくヒットになっていた。
強い打球が打てたのに、それが外野フライにされてしまったということか。
そんなことが出来るのか?
いや、違う。
直史以外と組んでも、そんなことが出来るのか?
大介はもちろん樋口を甘く見ていたわけではないが、正也とのバッテリーであったり、直史とのバッテリーとして考えていたのだ。
それがこうやってちゃんと封じてきている。
いや、一本ホームランを打ったので、完璧に封じたとは言えないのだが。
何かが変だな、と大介は考えるようになる。
そしてその予感は当たる。
レックスとの三連戦、大介は三本のホームランを打った。
これでホームランダービーのトップとして、二位以下を離しにかかったが、その他の打席での凡退が目立った。
12打数の三安打で、その全てがホームラン。
もちろん大介はこんなことは、狙って打っているものではない。
ただ打ち取られた打球も、全て外野フライだったのだ。
優れたピッチャーはバッターに野手の正面に打たせることが出来るという幻想。
直史であればその幻想も、可能であると思っていた。
だが樋口も四年間、直史とバッテリーを組んでいたのだ。
二人がお互いに影響しあって、こんな効果が出ているのか。
そしてレックスは、この三連戦を三連勝した。
大原はともかくその次は山田であったが、復帰第一戦で、やや球が浮いていたのは確かである。
だがこの山田の先発した三試合目で、樋口は猛打賞で三打点。
特に最後の打席は決勝打のソロホームランと、裏の守備で牽制刺殺と、間違いなく勝利に貢献していった。
タイタンズの選手層が厚く、スターズも投手力が揃っていて、ライガースもようやく調子が上がってきた。
だがそこにレックスまでもが調子を上げてきて、なかなか混沌とした、シーズン中盤以降になりそうである。
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