第171話 北へ
北海道は言うまでもない豪雪地帯である。
日本の豪雪地帯は主に日本側にあり、太平洋側でも膨大な積雪が観測されるのは、青森と岩手ぐらいである。
大介にしろツインズにしろ、本格的な雪というものを知らない。
一応は4WDを用意して、タイヤなども雪仕様にしておいたのだが。
「まだ12月なのにこんなに降ってるのかよ。つーか南の方の北海道はまだそんなに降らないとか聞いてたんだけど」
普通に雪が積もっている大地に、びっくりの三人である。
大介は常に、暖かい場所で暮らしていた。
暖かくなくても、少なくとも雪の少ないところで暮らしていた。
プロ野球のキャンプなどは、主に沖縄や九州の日本海側で、雪がそうそう降ることもない。
東京も千葉も、3cmの積雪で道路が渋滞するような、情けない場所で暮らしているのである。
重たくて滑りにくい、まともな4WDをわざわざ買う。
燃費もさほど良くないので、これほどのものが必要なのかとは思ったものである。
だが現実には、間違いなく正しい選択であった。
大介がその運動神経を活かして、アイスバーンの上でもしっかりと運転する。
しかし想像以上ではあった。
人目を気にして、三人だけの自動車旅行にしていたが、これならもう飛行機のファーストクラスでも使って、そこからタクシーを使った方が良かった気もする。
丸三日ほど貸し切りにしても、500万もした車ほどにはならないだろう。
だがこの先も、八人まで乗れるこの車は、結構使えるのではないかと思う。
途中で事故るか遭難するかとも思ったが、なんとか目的地を回ることには成功する。
この地方は――と言っても広い地方であるが、大牧場が多い。
北海道の、主に南東部になるか。
これでもまだしも、雪は積もらない場所なのである。
北海道の場産地を巡るというのは、夏場にはそこそこメジャーな観光ルートである。
だが冬場に内地の積雪がない地方から来た人間が自家用車で動くのは、かなり自殺行為に近い。
「死ぬかと思った」
ハンドルを握っていた大介はそう言うが、天候が悪ければ本当にその可能性もあった。
「まあまあまあ、無茶をして」
目的地であった、七月に訪れた牧場。
本当はもっとスムーズに来る予定だったのだが、どうやら今日はここで泊まりになりそうだ。
子供は風の子というわけでもないが、邪悪な双子は無邪気そうに、雪の中を出歩いている。
「東京ん人が冬に北海道で車走らせるなんて、無謀だべ」
おじいちゃんにはそんなことも言われたが、大自然を確かに舐めていた。
地球の力は強い。
大介が何本のホームランを打とうと、これに勝つことは出来ない。
まあ夏の甲子園球場の熱気を持って来れれば、勝てるのかもしれないが。
夏に見た仔馬は、もう随分と大きくなっていた。
動物の成長は早いものであるが、まだ子供っぽさを十分に残していた仔馬が、もう大介よりも大きいところに頭がある。
もちろん体はまだまだ細いが、やがて400kgを超える重さにまでなるのだ。
「まだ売れてなかったんですね」
「まあ、今どきはさあ」
だいたい生まれた仔馬は、その夏にはセリにかけられるか、お得意さんにそれまでに買われることが多い。
日本の競馬の事情はちょっと特殊で、まだ一歳にもならない仔馬の方が、年を越した一歳馬よりも高い値段がつく。
なぜかと言うと、そこまで残っている馬は、セリで売れ残った馬だと見なされるからだ。
これがヨーロッパやアメリカであると、ちゃんと馴致といって訓練をさせた馬の方が、当然ながら高くなる。
サラブレッドの青田買いは、日本でこそ多いものなのだ。
ただそれも昔の話。
金持ちの道楽であった時代は、既に生まれる前から、買い取り先は決まっていたりした。
それも生産者の言い値であったりしたものだ。
そんなバブルは、バブル経済の弾けた数年後に遅れて弾けて、一気に馬産農家は減っていった。
この仔馬に関しては、馴致という人を背中に乗せるぐらいまでの、基礎的なことはこの牧場で出来る。
だが本格的な育成は、とても施設が足りないのだ。
馬主が買ってくれれば、育成用のセンターに送ることになる。
売れなければ……さすがにいきなり肉にはならないが、牧場の負担で育成をして、最後まで買い取り手が現れなければ、牧場の名義で道営の地方競馬で走らせることとなる。
この牧場もこの仔馬だけではなく、何頭も生産しているし、既に牧場を離れた馬もいる。
だがこの仔馬だけが残っているのには、理由がある。
一つにはそこそこ高い馬、ということがある。
1500万は大介がこの旅に用意した車、三台分である。
あとは所有権の問題だ。
元々この馬の母親は、この牧場で生まれたものが、競走を終えて繁殖用に戻ってきたものだ。
そしてその母馬から生まれた仔馬は、その母親を買っていった馬主に、毎年買われていった。
だがその馬主が破産し、馬主を続けられなくなった。
よってこの馬はセリにもかけられたのだが、そもそも父親が高額な馬であったため、下手に安い値段はつけられない。
しかもその馬の仔は、当たればでかいが外れも多いというパターンが多く、馬主からはやや敬遠されているのだという。
馬主になるということは、単に買ってそれで終わりというわけではない。
もちろん餌代などは馬主負担になるし、もう少し成長して人を背中に乗せるようになったら、育成のための牧場に移して、その費用も払わなければいけない。
やがていよいよデビューとなれば、厩舎というさらなる育成の仕上げと、体調管理の場所に預けられる。
だいたい毎月、60万円は飛んでいく計算である。
それも人気厩舎となれば、さらに値段は高くなるし、特別な訓練をさせるとなると、それは別払いである。
もっとも大介にとって、金額はさほど問題ではなかった。
問題なのは馬主になるということが、そのまま長い人間関係になりそうだということだ。
「来年の馬は売れそうなんですか?」
「そっちはまあ、分相応な馬をつけたので」
とにかく問題なのは、この仔馬一頭らしい。
金ならある。
そしてツインズは乗り気である。
大介個人としては、別に買ってもいい。
ただそもそも競馬に興味のない自分が、関わるべきものなのだろうか。
遭難しかけでたどり着いて、一泊の恩になったということはあるが。
「俺が買ったとして、何をしなければいけないんですか?」
その瞬間の、獲物を狙うような目を、大介は見逃さない。
「まずは馬主登録だべ。だけんど白石さん、過去の所得と今の資産、ちゃんと満たすかねえ」
他にも色々と条件はあるのだが、個人事業主で犯罪歴もない大介は、金以外にはほとんど問題はない。
過去二年の所得が1700万円以上で、資産が7500万円以上あるということ。
普通なら大介の年齢では一番難しいこれが、しっかりとクリアされている。
「あとは調教師の先生に預けるんだけんど、白石さんは関東と関西、どちらがいいべか」
競馬には中央競馬と地方競馬の二つがあり、中央競馬は東と西に分かれている。
預ける場所が二つあるということだ。
そこから移動して、各地の競馬場で走らせるというわけだ。
買った後もちゃんと見に行くならば、通常は西の方がいいだろう。
西は滋賀県の栗東市にトレーニングセンター、通称トレセンがあり、東は茨木県の美浦村にもトレセンがある。
競馬場は中央競馬でも色々とあるが、主に大きなレースが行われれるのは、中山、府中、中京、京都、阪神の五か所。
三月から11月まではだいたい大阪にいる大介なら、まだしも滋賀の方が近い場所である。
もっとも車を飛ばしても何時間もかかるが。
関東への遠征が多いことを考えると、東に預けてもいい。
どちらにしろ牧場の方に、懇意の調教師はいるそうだ。
競馬というのは基本的に、土日に行われる。
地方競馬は逆に平日なのだが。
この馬は血統的に、地方では向かないだろうと思われている。
予備知識のない大介としては、ああそうなのかと信じるだけだ。
よって自分ではなく、双子にとって見やすい場所を考える。
すると東になる。
大介に比べると時間に縛られることのないツインズに、そのあたりは任せればいいだろう。
そもそも当初は、彼女たちの方があの馬を気に入っていたのだから。
「そんだら名前はどうすんだべか」
「え、まだ名前つけてないんですか?」
「うちらは勝手に読んでるけど、レースで呼ぶ名前は馬主さんが決めるものだべさ」
「へえ」
まあそのあたりも、ツインズに任せた方がいいだろう。
あるいはイリヤあたりであれば、いい名前を付けてくれるかもしれないが。
日本語に限るなら、瑞希あたりに頼んでも良さそうだ。
「名前はねえ、サンカンオーにしよ!」
「略してサンちゃんで呼びやすいしね!」
そうやら既に決まってしまったらしい。
大介は気づいていないが、色々と名前負けしそうな馬である。
そしてこんなありふれた名前の馬は、実は既に存在する。
ただ条件によるが、過去にあった馬名でも、付けられないことはないのだ。
サンカンオー。
絶対に名前負けしそうな気の毒なこの馬は、大介よりもツインズに懐くようになる。
当たり前の話かもしれないが。
「ダービー勝てるといいな」
レースの名前としてはそれぐらいしか知らない大介である。
あとは凱旋門賞か。
大介の父はプーに近い状態の時もあったが、ギャンブルには依存していなかったので、競馬には詳しくない大介である。
しかしダービーという言葉は競馬のみならず、様々なスポーツに波及している。
たとえば野球なら、ホームランダービーやハーラーダービー。
競争というとダービーである。
不勉強な大介と違って、ツインズは色々と説明してくれる。
この馬の父親はクラシック三冠馬で、さらに父型を遡ると、曽祖父が日本史上最高と言われた種馬であるらしい。
そして母親をたどっていくと、日本の伝統的な母系に、当時としてはそこそこお高い祖父や曽祖父がいるらしい。
競馬の中では母父、母母父と呼ぶそうだが。
「シンザンにトウショウボーイはともかく、グラスワンダーかあ」
「仕方ないけどノーザンダンサーが多めだよね」
ツインズが見ているのは血統表で、これは10代以上前の祖先の馬も、全て分かるものである。
競馬はブラッドスポーツというように、血統で走る馬が決まると言ってもいい。
「オグリキャップはいねーの?」
大介の素人丸出しの質問に、ため息をつくツインズである。まあオグリキャップを知ってただけでも、大介は偉い。
「オグリキャップは仔馬の成績が悪かったから、今の馬にはほとんど入ってないはずなんだよねえ」
「母母父ぐらいなら入ってるのもいるかもしれないけどねえ」
大介は横から血統表を見るが、何やら同じ名前が何度も出てくる。
「このノーザンダンサーっての、なんでこんなに親戚に入ってんの?」
初心者にはありがちな質問である。
「ノーザンダンサーは強い子供がたくさん生まれたから、今はもうほとんどの馬に血が流れてるんだよ」
「ちなみに今のサラブレッドの父親を遡ると、100%がたった三頭の馬にたどりつくらしいよ」
大介が野球に忙しいので、代わりに調べておいたらしいが、学生で資格も取って、芸能人までやって、大介の試合を応援しにくるこの二人に、どうやったらそんな暇が生まれるのか。
競馬のシーズンというのは、だいたい三月下旬から、年末までのいっぱいである。
おそらく大介に代わって、調教師と相談したりするのは、この二人になりそうである。
馬産地を後にした三人であるが、とりあえず分かったことがある。
冬の北海道を自動車旅行するというのは、愚の骨頂であると。
やはり行くなら夏がいいのだろうが、最近は北海道でも気温は上がっている。
来年の北海道との試合は、アウェイゲームなので、その時に見に行く時間が取れるかもしれない。
せめて旅行をするなら、札幌市内などの冬まつりにするべきであったか。
だがあまり人の多いところであると、周囲の注目を浴びることになるか。
元々三人とも、田舎の出である。
大介は東京出身だが、東京でも田舎はあるのだ。
ツインズでさえ本格的に東京暮らしが始まったときは、夜の盛りに遊び歩いていたものである。
もちろん危険はない。ツインズなので。
「今度旅行に行くときは、暖かいところか南半球を考えないとな」
優勝したら球団がハワイ旅行に連れて行ってくれるのだが、大介はもう二回で飽きた。
いや、今でも色々と楽しめるのだろうが、この二人のために何かをしてやりたいと思う。
高校時代の自分に、お前こいつらと結婚するんだぜ、などと言っても絶対に信用しないだろう。
寄り切られた気分ではあるが、悪くはない。
「暖かいところ……沖縄?」
「でも三人で行くなら、マスコミいないところの方が良くない?」
「ハワイはいるから、バリとか?」
「ガラパゴス!」
「それいい!」
リクガメを見るために、ガラパゴスを選ぶ俺の嫁たちが可愛い。
一人と二人の関係は、少なくともこの三人でいる限りは、破綻の兆しも見せない。
だが大介はこの特異な三角関係が、ずっと続いていくのも不思議に思うのだ。
身内は、少なくとも佐藤家の方は、直史をはじめ誰も非難しようとしない。
だが大介の方は別だ。
母も祖母も、また新しい家族も、理解はしてくれないだろう。
大介もさすがに理解されるとは思わない。
だが三人での生活は必要だ。
フェリーで本土に戻り、雪のない道路を安心して走っていると、後部座席のツインズは手をつなぎながら寝ている。
(眠ってるときは安全なんだけどなあ)
色々なことを知ってしまった今でも、まだ二人に振り回されることの多い大介であった。
×××
本日より第四部Aの続編である第四部Eが始まっております。
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