第155話 不敗の神

 プレイオフの試合において、一度も敗北したことのないピッチャー。

 まさに神とも言えるそのピッチングは、今年も冴え渡っていた。

 ただ一つ、大介との勝負が、その栄光に陰を射す。


 センター前に抜けそうなライナーをキャッチして、人差し指の骨折。

 これでは試合に勝っても、投げられない期間が出来てしまう。

 あの勝負は結局、どちらが本当の勝者だったのか。


 だが同じようなことは、大介にも言える。

 ミスショットで捻挫した手首。あの離脱がなかったら、おそらくホームランは70本の大台に乗っていただろう。

 しかし今、ここにおいて、そんな過去はどうでもいい。


 七回の裏、ノーアウトランナーなし。

 ホームランかスリーベースがほしいところである。

 だが大介の場合、相手が上杉であっても、外野はかなり深く守る。

 ならば狙うのはホームランだ。


 なんだかんだ言いながらも、未だに上杉は、完全に負けたとは思われていない。

 ライガースとスターズでは、打線陣の援護が全く違うからだ。

 それに大介がホームランなどを打ったときは、さすがに神奈川の打線も奮起する。

 一点以内に抑えれば勝てるなら、上杉も本気で投げてくるだろう。




 この場面で大介は、大きいのを狙っている。

 パワーで引っ張るライト方向なら、今日はそれなりの風がある。

 技術で角度をつけるレフト方向の方が、今日はいいだろう。

 だが大介と言えど上杉クラスのストレートを投げられてしまえば、そんなホームランの打ち分けが出来るはずもない。


 全力で打つ。

 それだけを意識して、反射で打つのだ。

 手元で変化してくる球は、その変化ごと叩き潰す。

 気をつけなければいけないのは、チェンジアップだけだ。

 だからリリースの瞬間に、反射で反応しなければいけない。


 マウンドの上の上杉は、大きく呼吸をしていた。

 まだ疲れてなどいないだろうが、より力を込めるための予備動作だ。

 どこかの頭のおかしな技巧派と違って、上杉はシンプルに毎年パワーを増している。

 いずれ壊れるのではないかというぐらいに、そのパワーはスピードに結びついている。

 だがそれだけのことをやらなければ、大介には勝てない。

 歩かせてしまえば簡単な、勝利への立派な迂回路。

 だがそれを選ばないことによって、上杉はここまでの存在となったのだ。


 初球、素晴らしいスピードボールが、素晴らしいコントロールでアウトローへ。

 反応した大介のスイングは、その173kmを捉えた。

 だがわずかに振り遅れていて、レフトのスタンドの中へと飛んで行く。

 ふわふわとした、大介としてはあまりない質の打球は、安全な距離でスタンドに飛び込む。


 打たされたと言うべきか、打たれたと言うべきか。

 上杉としてはまさか、これで簡単に空振りしたり、見逃してくれるとは思っていない。

 だが打った大介も反省しきりである。

 今のは完全に、打ってもホームランにはならないボールだった。

 集中して絞らなければ打てないボール。

 反射だけで対抗するには、上杉のボールの威力は強すぎる。


 二球目を、続いて投げてくる。

 わずかな違和感。だがそれを考える前に、内角へとチェンジアップ。

 スイングを体のずっと後ろに残して、体が開いてもまだバットが出てこない。

 掬い上げたスイングは、引っ張りすぎてライトのスタンドに飛び込む大飛球である。


 二球でツーストライクになった。

 次で決めに来るか、それとも外して来るか。

 だが一度大介は打席を外して、先ほどの違和感の招待を考える。


 なんとなくだが、チェンジアップのような気がした。

 そう、投げる前、リリースの前から球種が分かっていたのだ。

 記憶を逆戻しして思い出せば、簡単なことだ。


 上杉は大介に対して全力のストレートを投げる場合、必ずタメがある。

 フォームのタメではなく、その前のタメだ。

 深呼吸をしたり、ロージンを長めに持ったり、いくつかのルーティンで集中力を高める。

 そういったものがないのが、チェンジアップだ。

 いやむしろ、最高出力のストレートを投げる前に、そういった儀式めいたルーティンを長めに行う。


 ならば次はどうだ?

 上杉は明らかに、長い間を空けている。

 尾田からのサインに一発で頷いたら、間違いなくストレートだ。

 分かっているのに打てなければ、もう二度と打てない。

 これだけ分かっているのに打てないのなら、もう勝負になっていない。


 上杉が頷いた。

 ストレートが来る。


 技術よりもひたすら、パワー! パワー! パワー!

 圧倒的なものに、人は畏敬の念を抱く。

 だが挑戦してしまう人間もいる。

 地面を這うようなストレートに対して、大介はバットのヘッドを走らせた。

 アウトロー。実は一番、速い球を速いと感じないコース。


 思考は加速する。微調整。これは打てる。

 そして弾き返した。

 レフト方向に高く上がったフライは、上杉のボールのパワーに押されたもの。

 だがそれでも、大介のスイングにはバットの先の遠心力が乗っており、高さと共に距離も稼ぐ。

 追いかけていたレフト諦めて、スタンドの中段に入った。


 174kmのストレートがアウトローギリギリに決まって、それをホームランに出来る人間が、世界に他にいるだろうか。

 七回の裏、主砲の一発にて、ライガースは先制点を上げた。




 全力で集中して投げた球を打たれた。 

 その全力を集中したからこそ打たれたのだが、他のバッターなら打てなかったはずだ。

 打球はライナー性ではなく、大介としてはギリギリで入らないかとも思った。

 だが、レフトのポール際とはいえ、充分すぎる飛距離のホームラン。


 ここから一気に打ち崩していきたいところだが、それを許さないのが上杉だ。

 ホームランを打たれることなど滅多にないのに、そのホームランを打たれても崩れないメンタル。

 ショックを受けたり後悔をしたりするのは後回しで、目の前のバッターを片付ける。


 たとえショックを受けても、それを表に出さないのが上杉だ。

 神奈川の別所監督は、ここから継投するかどうかを考える。

 八回の表には、上杉に打順が回ってくる。

 今年もピッチャーのくせに0.276の打率、四本のホームランを打っている上杉だが、さすがにここは代えるべきか。

 だが上杉は無言のままバットを持つと、ネクストバッターサークルへ歩いていく。


 その背中が揺らめいて見えた。

 熱気を全身から発散させている。今の上杉はまだ、戦闘モードだ。

 フォアボールでランナーが出た状態で、上杉に回る。

 ホームランを打たれた直後のエースに対して、向こうのピッチャーはどんな投球をしてくるだろうか。

 バッターボックスの中の上杉は静かだ。

 打率や長打力などから、二刀流をやってみたらどうかなどという話も出てくるが、上杉はそれを否定する。

 甲子園で10本もホームランを打ったのだから、間違いなくバッターの素質もある。

 だが上杉の本質はピッチャーと言うか、エースである。

 しかしさらにその本質は、チームを勝たせる選手なのではないか。


「あ」


 初球の甘めに入ったスライダー。

 振りぬいた上杉の打球は、先ほどの大介が打ったのと、同じような位置に入った。

 逆転ツーランホームラン。

 エースの一打で、試合は一気に動いた。




 天秤は一気に傾く。

 最強のバッターが最強のピッチャーからホームランを打った。

 0が並ぶこの試合、もうそこで流れはライガースにあったはずだ。

 だがその次の相手の攻撃が、あまりにも衝撃的であった。


 エースが投げて、エースが打つ。

 あるいは殴られたら殴り返す。

 上杉の持つ強さは、きわめて原始的なものだ。


 ライガースの応援も一瞬静まり返るが、すぐに大歓声が上がる。

 上杉は敵のチームの絶対的なエースだが、ライガースファンで上杉を嫌いな者はほとんどいない。

 右手を高く掲げた上杉がホームベースを踏み、これで2-1となった。


 それはないだろう、とライガースのベンチは呆然とする。

 これまで山田からつないでいた継投が、一気に崩壊した。

 そしてここから逆転する手段は、おそらくない。


 ホームでのゲームなのに、球場の観客たちが、完全に上杉に心をわしづかみにされた。

 神にも近い、超人の一打は、全てをひっくり返した。

 こんなことが出来るのか、と島野は目をしばたたかせる。

 自分が打たれた分は、自分で取り返す。

 そんなことをプレイオフでやってしまうのが、上杉なのだ。


 生物としての格が違う。

 一撃でライガースの心を折りかけた上杉であるが、まだ全く諦めていない者がいる。

「監督、九回の裏、俺に回りますよ」

 大介はもし1-0のままで終われば、四打席目は回ってこなかった。

 だが逆転されたことにより、四打席目が回ってくることになる。

 九回の裏、ツーアウトには。

 本当のぎりぎりのぎりぎりだ。


 ライガースはピッチャーを交代させ、その後続を断ち切る。

 2-1で確かに逆転されてしまったが、まだ大介の四打席目がある。

 シーズンからそうだが、上杉はピッチャーのくせに、クラッチバッターめいたところもある。

 だがここで逆転ホームランは、いくらなんでもやりすぎだ。


 どれだけ優れた選手であっても、あらゆる方面に優れているわけではない。

 だが上杉ならば、とりあえずホームランも打てるということか。

 ホームランなら全力疾走しなくてもいいという点では、むしろ効率的ですらあるだろう。




 試合の展開は、膠着する。

 どちらのチームも、ランナーが出ない。

 最終回の裏は、ライガースが先頭打者からの攻撃。

 だがまだ衰えぬ上杉の球威は、連続三振で、今日の三振の数を14個とする。


 だが、ツーアウトから大介の四打席目に回る。

 ただしこの運命は、今日はライガースの方には振り向かないだろうな、と島野はなんとなく悟っている。


 ここでホームランが出ても、同点にしかならない。

 ライガースも今日は継投をかなり小刻みにしているので、延長になると投げるピッチャーの質が落ちる。

 大介には言えないが、今日はもう負けてもいい。

 重要なのはこの試合、上杉を完投させて、点も取られるようなピッチングをさせたこと。

 それだけ消耗させれば、二戦目以降は有利に戦える。


 いや、そう思い込みたいだけなのか。

 だがここでホームランが出て延長になっても、おそらく上杉のスタミナは切れない。

 しかし少しでも体力を削るのは、悪いことではない。

 大介が二本目のホームランを打てるなら、それこそ二試合目以降の勢いも変わるだろう。


 九回の裏、ツーアウトで一点差。

 この日最後の対決は、とても途中退場を許すようなものではなかった。

 マウンドの上杉は仁王立ちし、大介はそれに向けてバットを剣のように立てる。


 この打席も打つ。そんな決意を感じる。

 だが上杉もまた、打たせるつもりなどない。


 初球はすごい勢いのツーシームが、アウトローに決まった。

 ホームランを打たれたコースに変化球を投げ込んできたのだが、キャッチャーの尾田はこれならホームランにならないと判断したのだ。

 大介も見逃す。これを打ってもホームランにならない。せいぜい外野の頭を越える程度だ。


 二球目はチェンジアップが外れて、ボールのカウントになる。

 ただ大介としては、これをゴルフスイングした方が、まだしもホームランに出来る可能性は高かったのではないかとも思う。

 三球目はインハイで、これは真後ろに飛ぶファール。

 そして四球目。


 ロージンを使う時間が長い。

 タメを作っている。全力を出すための間だ。

 全力で投げてくる。ストレートなのは間違いないが、そのコースはどこだ?

 さっき打たれたアウトローに、また投げてくるという可能性もある。

 もしくは挑戦的に内角に投げてくるか。


 ストレートだ。全力のストレートだ。

 分かっているのだから、打つべきだ。


 マウンド上で膨れ上がった上杉の肉体から、投じられるストレート。

 打てるものなら打ってみろというそのストレートは、インハイ。

 狙える。打てる。

 そう思って振った大介のバットは空振りし、ボールはミットに収まっていた。

 高めに浮いた球には、大介の予想を超える球威があった。

 174kmのストレートにて、本日の対決は終了した。


 一本のホームランを打たれたものの、自分のバットでそれを取り返すどころか、逆転までしてしまった上杉。

 常識外の超人は、また普通に非常識な伝説を作る。

 今日もまた、勝って負けた。

 こういった勝負が、ずっとこれからも続いていくのだろう。


 四打数二安打で、その一本がホームラン。

 字にすると印象的には、大介が負けた感じはしない。

 だが二人の間にある空気は、上杉が勝利したというものだ。

 チームを勝たせるのが、チームのエース。

 明日の予告先発は、ライガースが真田であるのに対し、神奈川は大滝である。


 160kmを投げる日本人ピッチャーが二人もいる神奈川。

 だが大介にとってみると大滝は、かなりのカモであるのだ。

 スピードが160kmあるだけならいくらでも打てる。

 それが大介なのだから。


 帰還の際のインタビューでも、大介が言うことは一つ。

「負けたことは後でいくらでも分析したらいい。今はもう、次の試合のことだけを考えてる」

 その次の試合とは、明日の試合という意味だけではなく、次の上杉との対決も含まれているのだが。


 今日もまた、上杉一人に負けた。

 悔しくて、あまりすっきりとは眠れそうにない。

 そう思っていた大介であるが、ベッドに倒れこんだらそのままぐっすり眠ってしまうのであった。

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