第150話 亀裂

 大介の扱うバットは、重く長い。そもそも素材が違うのだ。

 現在の標準のバットのサイズは、様々な選手たちの体験から、おおよそ最適と思われたサイズなのである。

 だが大介の場合は、より外角のボールを打つ必要があった。

 そのため取りまわしのしやすさを犠牲にしてでも、遠くに届くバットになっている。

 重くて重心が先にあるというのは、悪いことばかりではない。

 的確にミートすれば、重さはパワーに変化して、ボールを遠くまで飛ばしてくれるのだ。

 もちろんその前提として、スイングスピードとバットを保持するパワーは必要であるのだが。


 その特別なバットが折れた。

 反発力のある堅いバットは、同時に強靭でもあるはずであった。

 100人殴り殺しても大丈夫というお墨付きのあったバットだが、野球の硬球を打っていくのは、それでも強度不足であったのか。相手が上杉だったからなのか。

(単に俺の未熟だな)

 大介はそう反省する。

 幸いちゃんと、予備のバットはある。

 攻撃の間はベンチ裏で素振りをする。

 手に馴染むようにしっかりと、スイングを繰り返す。


 まさに鬼気迫る雰囲気に、ベンチ裏で待機していた控えの選手たちは声もかけられない。

 だがまだ試合は途中だ。スターズの攻撃もある。

 点差は二点なのだから、ワンチャンスで同点まではありうる。

 上杉を相手に、それはかなり都合のいい想定だが。


 試合はそうそう大きくも動かない。

 上杉が投げていると、神奈川は守備に意識が向いて、攻撃がおざなりになる。

 ましてこの試合も上杉は、ある程度抜いて投げているのだ。

 二点差を守りきって勝つというのは、現実的な話だ。

 だが中には思いもよらないこともある。


 内角に投げた上杉のストレートが、バッターのユニフォームをかすった。

 ゾーンぎりぎりのところであるが、これでデッドボールである。

 上杉は基本的に、デッドボールを己に許さない。

 だがこんなぎりぎりのゾーンであれば、ユニフォームにかすらなければストライクと宣告されていたかもしれない。

 もっともせっかくランナーが出ても、それを活かすことは出来ず、ランナーは残塁となる。ランナーは出ても全く点に結びつく気配がない。




 投手戦というよりは、上杉をどうやって打つかが問題の試合となった。

 七回の裏、ライガースの攻撃は三番の大介から。

 あと一人ランナーが出なければ、これがこの試合最後の対決となる。


 どうせ新記録となるホームランを打つなら、上杉から打って欲しい。

 それがファンのみならず、首脳陣も考えていることだ。

 伝説の誕生には、それにふさわしい舞台というものが必要だ。

 その相手役が上杉であるならば、これより素晴らしいものはない。

 もっともそんなに都合よくはいかないのが伝実なのだが、大介はこれまで夢のような記録を散々に残してきたではないか。


 だがマウンドの上の神は、そんな人間の期待を一蹴する。

 初球が173kmを記録したストレートで空振りを取ってから、次にはカットボールで懐を攻める。

 今度はバットには当たったが、前には飛んでいない。


 他の選手から見たら、当てるだけでもすごいものだ。

 上杉と対戦する場合多くの人間は、その体力を少しでも削るために、案山子のように立ったままになってしまうものだが。

 三球目はアウトローへのストレートを引っ掛けて、痛烈ながらもセカンドゴロ。

 これにて三打席連続の無出塁であり、連続出塁試合という珍しい記録も途切れそうに思える。


 偉大な記録もこれで途切れるか。

 そう思っていたところに、六番黒田がヒットを打ってくれた。

 鋭いスイングから、ボテボテの球がサード方向に転がり、黒田はそれほど足も速くはないのだが、懸命のプレイで塁に出る。

 これでどうにか九回のラストバッターには、大介が立てるようである。

 もちろんそれまでに逆転していてくれたら、それはそれでいいだろう。


 先ほどの打席で微調整した大介は、今度は打てるということを信じる。

 打てるという確信があるのだ。

 だから問題はライガースではなく、神奈川の方にある。

 首脳陣が上杉であっても、まともに大介と勝負させるだろうか。


 島野としては、せざるをえないと思う。

 特にいいのは、今が二点差ということだ。

 たとえ大介にホームランを打たれても、まだ一点及ばないのである。

 ならば勝負をさせなければ、ライガースのみならず全てのプロ野球ファンが納得いかないだろう。

 それに上杉もそれを望んでいる。あれはそういうピッチャーだ。


 


 神奈川はさらに、そこから二点を追加した。

 充分なピッチングをした琴山であるが、今日はもうこれで降板。

 言い方は悪いが敗戦処理として、高橋がマウンドに登る。

 200勝まで投げさせてくれた球団への、最後のご奉公である。

 既に今シーズン限りで引退を発表した高橋は、出来れば引退試合をしてほしい。球団自体もそれは望んでいる。

 だが優勝争いが本当に最後の試合まで続いたなら、さすがにそれは無理だろう。

 クライマックスシリーズに進んでしまったら、特別試合を組むことも難しい。

 なのでさっさと優勝は決めて欲しいのだ。


 イニングは進んで、やはりライガースが点を返すことは出来ない。

 かといって高橋の技巧派のピッチングに、意外とこれ以上点は取れない。

 来年も中継ぎで出来るんじゃないかと思わせるものであるが、さすがに無理であろう。

 これはもう全ての執着から解き放たれているからこそ出来るピッチングだ。


 そしてやってきた九回の裏。

 上杉はあっさりとツーアウトを取って、大介の打順が回ってくる。

 試合の行方など全く気にしなくていい。

 ただ男と男の勝負がここにある。


 甲子園の盛り上がりも、ここが最高潮となっている。

 連続出塁試合記録が、途切れるかもしれない。

 だが雰囲気的に、ここは単なるヒットや、フォアボールでの出塁は求められていない気がする。


 ホームランか凡退か。

 打てないならばいっそ清々しく三振をしてほしい。

 記録を更新し続けるよりも、上杉との正面の対決を重視する。

 ホームランを打つぐらいの気合を入れておかないと、上杉からはヒットを打つことも出来ないだろう。


 一球目はインローに170kmのストレートが決まった。

 アウトローよりも打つのが難しい、打ってもゴロにしかならないコースであった。

(低めか……内角なら差し込まれるかな)

 大介はバットをくるくると回して、上杉の様子を見る。


 こちらを見てきている。

 視線が大介の思考までもを読み取るかのように。

 それは大袈裟ではなく、大介の呼吸を計って、打てないタイミングを測っている。

 呼吸すら乱してはいけない。

 集中して、ただホームランを打つためだけのマシーンになる。

 だが最低限の絞込みだけは行わなければ、上杉のストレートは打てない。


 おそらくあと一球は必ずストレートを投げてくる。

 上杉は自分の美学で試合を台無しにするような人間ではないが、美学を通せるところでは、普通に貫き通してくる。

 ストレートを打つ。

 そう考えていたので、膝元に曲がったゾーン内のボールも自然と見逃した。

 際どいコースであるが、コールはストライク。

 これ審判は絶対にミットの位置で判断しているよな、と上杉のボールの規格外さに呆れる大介である。




 追い込まれた。

 必ずストレートが来るとは思うが、ゾーン内に来るだろうか。

 ボール球であっても上杉のストレートなら、見極められずに振ってしまうかもしれない。

 だが上杉ならば勝負してくるだろう。

 直史ならばボール球を振らせようとしてくるだろうが。


 呼吸の気配から相手を見極めるのは、上杉だけではない。

 上杉の胸郭が大きく膨れ上がり、酸素を大量に取り込む。

 まさかとは思うが、さらに限界を超えてくるのか。

(ここでチェンジアップでも投げられたら、完全に終わるけどな)

 上杉は本当に正面から、大介を叩き潰しにくる。

 ライガースの主砲を機能不全にさせて、残りの試合でペナントレースを制するために。

 ここはパワーで圧倒しなければ意味がない。


 よし、と覚悟が決まった。

 深呼吸して酸素を多く取り込み、脱力したままバッターボックスに入る。

 ゾーン内のスピードボールは全て振る。打ちそこないになっても、ちゃんとボールが飛ぶように。

 むしろバットにさえ当たれば、気合でどこまでも持っていく。


 お互いに間合いを取る。

 全力に対して全力で挑めるように、正面からぶつかり合え。

 ゆっくりと持ち上がった上杉の足。

 その亜音速の右腕から投げられるストレート。

 それは大介のバットと激突した。


 熊でも牛でも殴り殺すような、パワーとスピードを備えた打球。

 それは真正面から上杉を襲い、防ぐように持ち上げたグラブの中に収まった。

 打球の勢いで、グラブがすっぽ抜けるかと思ったが。

 結果としてはピッチャーライナーでスリーアウト。

 試合の勝敗が決し、大介の連続出塁試合記録が途切れた。




 四打数の0安打という、完全に大介が負けた試合。

 翌日の新聞においても、あれは上杉の勝利であると全紙が報道した。

 その流れが変わったのは、上杉の故障者リスト入りが発表されたからである。

 左手人差し指の亀裂骨折が、夕刊には書かれることとなった。

 原因は前日の試合、最後の大介の打球であることは間違いなかった。


 170km以上は出ていた打球を、グラブに収めたことだけでも凄いのだが、その代償は大きかった。

 全治一ヶ月と言われているが、おそらく上杉であれば、もっと早く治してくるのだろう。

 神奈川との三連戦最後の試合の前には、それを知って大介にインタビューしてくる者もいる。


 試合には負けた。だが上杉が二回か三回、ローテで投げられなくなった。

 これは勝負では、引き分けぐらいには持っていけたのではないか。

 一ゲーム差まで詰められたゲーム差は、この日の第三試合でライガースの勝利でまた広げられる。

 なお神奈川の先発は大滝。

 高校時代は大介にコテンパンに敗北しながらも、こいつもバットを折ったピッチャーである。 

 もっともあの頃の大介のバットは、今のような特注ではなかったが。


 この試合、大介は第一打席にホームランを打ち、日本新記録更新しそのホームラン数を61本とした。

 そして第三打席も打ち、62号。

 前日に上杉との対決で敗北したことは、メンタルにダメージを与えることはなかった。

 チームとしても甲子園では一勝一敗の一分と、ゲーム差は結局二のままである。




 翌日の月曜日、記者会見が行われた。

 クラブハウスなどではなく、ホテルにマスコミを集めての取材である。

 62号ホームランということは、それだけ特別なことであった。

 61本で止まるのではなく、そのまま一気に62本目を打ってしまう。


 もう、大介の前に道はない。

 大介の進んだ後に、道は出来るのだ。

 打点にしても打率にしても、陸上競技などとは違い、更新される時には一気に更新される。

 残り14試合でどこまで記録が伸びていくのか、それだけがもう世間の注目になっている。


 打点の記録を塗り替えた時も、打率が四割を超えた時も、これほどの注目はなかった。

 打点というのはいささか地味なものがあり、打率については最後の試合が終わるまで、四割超えは確実になっても、最終的な数字がどうなるかは分からなかったからだ。

 だがホームランに関しては、もう62本に達してしまった。

 これがどこまで伸びていくかが、世間の注目の的になっている。


 それにこれは大介が悪いわけではないが、上杉が指を骨折したことにより、神奈川は勝率を落とすことになるだろう。

 神奈川としては弱みを見せないためにも、隠したかったことではあるのかもしれない。

 だが神奈川はこれをむしろ公開することにより、選手たちの覚悟を促した。

 この二年ライガースの後塵を拝し、優勝できなかった理由。

 それはもちろん選手層があるのだが、それよりも上杉に頼りすぎていたことも理由だろう。


 ライガースの次の試合は、甲子園にタイタンズを迎えて行われる。

 上杉が骨を折ったのに対し、今回は大介は特に負傷をしていない。

 試合には負けているが、これが殺し合いであったら、大介の方が勝っていたのではないか。

 もちろんヒット一本も打てなかったことは確かだが、上杉を投げさせないというこの功績は、大きなものである。


 敗北したにも関わらず、士気はむしろ高まった。

 ここまで粘ってシーズン戦をライガースに近付いていた神奈川だが、さすがにこれで勢いは落ちる。

 上杉が投げなくても他にピッチャーはいるが、確実に勝ってくれるようなピッチャーは他にはいない。

 シーズン終盤で順延した試合などを消化するため、試合の間隔が空いていたりすることが、神奈川にとっては幸運であったか。

 だがペナントレースの結果は、圧倒的にライガース有利となった。


 上杉の骨を折った男。

 また物騒な異名がついた大介であった。

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