第116話 運命

 そのままでいけば勝てただろうに。

 最後の最後で、エゴが出たのか。

 ただ、ここで自分のエゴを出してきたからには、直史の覚悟のほどが分かる。

 これが最後の対決になるかもしれないと、そう思っているのだ。


 場所は東京ドーム。

 対戦は日本代表と大学選抜。

 観客は満員でテレビ中継もあり。

 これ以上はない舞台で、パーフェクトを拒否して、最後の対決。


 これを予感していたのではないのか。

 直史ならこうすると思ったから、一番打者を志願したのではないのか。

 もちろんここまで完全に抑えられるとまでは思っていなかった、と思う。

 自分の直感がどこからきたのか、自分でも分からない。




 打席に入る。

 思えば野球のピッチャーとバッターほど、集団競技の中で、一対一が見守られるシーンはないのではなかろうか。

 敵と味方で18人。それなのに注目されるのは一対一。

 歪だとは思わない。

 まさに対決と呼ぶに相応しい、これが野球だ。


(で、お前は最初に何を投げてくるんだ?)

 初球でいきなりストレートを投げてきたら、その初球で終わらせる。最大球速のストレートでも、チェンジアップのストレートでも変わらない。

 膝を抜いて腰を入れれば、スタンドまでは届くだろう。


 だがそこは投げられたのは、カーブか?

 真上から落ちてきたかのような、そんな錯覚を覚えるカーブであった。

(なんつーえげつないドロップだ)

 ボールのコールであるが、一応ゾーンは入っていたと思う。

 

 そして二球目は、スライダー?

 分かっていたが、曲がりすぎた。

 こんなにこいつのスライダーは曲がるのかと思いつつ、バットでデッドボールになるのを弾く。

 他のピッチャーの球だったら、今のでも打ってしまったろう。

 よく知りすぎているがゆえに、思ったよりも曲がったボールに対応出来なかった。


 そしてここでタイムがかかる。

 樋口がマウンドに向かうのを、大介は見ていた。

 こんな光景は初めてだ。

 いや、似たような光景は、ジンが樋口の位置にいたのか。




 戻ってきた樋口は、疲れたような表情をしていた。

 何を話していたのかは分からないが、どうせ非常識なことだろう。

 カウントは1-1で、ここからだ。


 何を投げてくるのか、ワクワクが止まらない。

 大介の知る直史とは違う。もっと別のピッチャーが、この四打席目の相手なのだ。

 いや、これが本当の姿なのか。

(ここまで舞台を整えてようやく本気って、コスパの悪いやつだな)

 だからこそレアで、打ち砕く価値もあるのだが。


 そして次に投げてきたのは、スルー!

 振っていくが、これは予想よりも変化した。

 わずかに回転軸がずれて、縦スラ気味になったのか。

 空振りしてしまったので、それはそれであちらにとってはいいことなのだろう。

(力入れすぎでコントロールが利いてない。そんで俺はそんな乱調のナオは知らない! あんま意味ねえぞ)

 ちょっとどころではなく、予想していた勝負とは違う。


 次に投げられたスルーチェンジも、大介は早くに見切った。

 今度は回転軸は正しかったが、バットが自然と止まってくれた。

 ボールは急減速し、ベースの手前で落ちた。ランナーは動かないが、走っていたら盗塁成功である。もっともここで盗塁を決めてどうするという話になるが。

 これでまた平行カウントであり、勝負球がきてもおかしくはない。


 直史の決め球としては、カーブとスルーが多い。

 今日はストレートを積極的に使ってきて、それとチェンジアップの緩急が極悪だ。

 あの二打席目のチェンジアップも、新しい投げ方をしたのかもしれない。

 それと他のバッターに対しては、カットボールかスプリットか、見極めのつきにくい球種も積極的に使っている。


 次で勝負するかと思ったが、カーブをゆっくりと外してきた。

 これは組み立てだ。コンビネーションだ。

 最後は速い球が来る。

 そう思わせてチェンジアップを投げてくるのが、普段の直史であるのだが。

 普段を通り越して、本気になっている直史がどうするかは、大介も分からない。




 イリヤのペンが止まった。

 この試合、それまでずっと直史のピッチングを見て、曲を書き散らしていたイリヤであるのに。

 メロディーラインを幾つも、曲にならないように奔放に書き散らして、それでもここで意識が向けられる。


 直史らしくない。

 セイバーの率直な感想である。

 だが少し考えれば、それは感じ方次第だと分かる。

 勝利を求めるのが直史のスタンスだ。

 今、勝利だと思えるのが、試合に勝つことではなく、大介に勝つことに変わっているだけだ。

 勝利ではなく対決を選んだということではなく、対決の勝利が本当の勝利だと考えたのだ。


 イリヤも止まった。

 地鳴りのような歓声の中で、彼女にとって最も大切な、音が消えた。

 映像が脳の中で、赤とオレンジの色となって、音階のように頭蓋骨の中で響く。

 地獄のような感覚の中で、それでも目を離すことが出来ない。


 フルカウント。

 次で決めに来る。

 心臓の鼓動だけが、激しく音を感じさせる。

 自分の心臓が張り裂ける前に、勝負を終えてほしい。




 ざわめきの中にある、不可思議な静寂。

 次が勝負球だ。

 速い球か遅い球。

 速い球はカット出来るし、遅い球は待って打てる。

 なので速い球を投げてくるはずなのだが。


 想像を超えてくるか?

 この打席で勝負する直史は、直史らしくはない。

 だからと言って、ストレート真っ向勝負など、それこそ人格自体が変わっていると言える。

 ゆっくりとした動作から投げられたのは、ストレート!

(打つ!)

 スイングは止まらない。

 だが、わずかな迷いがあった。高めに外れている。

 それでもここで打つしかないと思ったが、わずかな迷いが勝敗を分けた。


 ボールの下をこすった。

 打球は前にすら飛ばず、ほとんど真上に上がった。

(参ったな)

 見逃していればフォアボールになっていたが、それを選ぶはずもなかった。

 カットするしか方法はなかった。だが想像以上にボールのホップ成分が強かった。

 結局は、負けたということだ。

 樋口のミットの中にボールが収まって、スリーアウト。

 ゲームセットだ。




 ゆっくりとマウンドを降りてきた直史は、憔悴していた。

(マジで投げてきたってことか)

 確かに本気でなければ、確実にスタンドに放り込んでいただろう。

 チェンジアップでも腰の回転だけで、ドームならスタンドまで飛ばす自信はあった。

 だが結果はこれだ。


 ストレート。

 ピッチャーが一番最初に習う、変化しない変化球。

 その威力に負けたということか。

 単に球速だけではなく、これまでに投げてきた全ての打席。

 間違いなく今のストレートが、今日の最高だ。

 ゾーンに入っても、打てたかどうか。


 とにかく、これで終わったのだ。

 NPBのトッププロが集って、たった一人のアマチュアの前に生き恥を晒した。

 だがそれでも、大介は爽快であった。

 直史は本気で投げていたのだ。




 翌日の第二試合は、当然ながら直史は投げてこない。

 大学選抜の他のピッチャーは、ほとんどが細かく継投してきたのだが、プロのパワーの前に圧倒された。

 それでもあちらも、西郷のホームランがあったりと、ささやかな反撃はしてきたが。

 大介もホームランに打点三と、それなりに調整はさせてもらった。

 11-2と快勝したが、それで気が晴れるはずもない。


 目の前に迫ったWBCなのに、代表の選手たちは浮ついているような気がする。

 まあアマチュア相手というか、たった一人のピッチャーにあそこまでやられては、それは動揺もするというものだ。

「一試合、投げ合ってみたいな」

 上杉のようにワクワクしている者もいるが、これは人類の例外である。


 そんな浮ついた心でプレイしてれば、注意散漫で怪我もするというものである。

 元々膝の調子が悪かった東が、戦線離脱となった。

 フェニックスがここのところ最下位続きなのは、この東がレギュラーシーズンを通じて長くプレイできないからである。

 そしてまた、ピッチャーでも怪我人が出た。

 こんな時に無理に新しい変化球の練習をして、肘が痛くなったという。


 気持ちは分かるのだが、動揺しすぎである。

 あのたった一回の試合で、どれだけ日本代表がかき回されているのか。

 そんなことを思っていたのであるが、大介は島野に呼ばれた。

 相談の内容ごとは、補充の選手に早稲谷のバッテリーを呼ぶべきかということだ。

「いや、それ俺の考えることじゃないでしょうに」

 大介としてはそう言うのが自然なのだが、島野は現場の選手の代表として、大介から見解を聞きたいらしい。


 それはもう、選手団に走る衝撃は大きいだろう。

 ピッチャーは大切であるが、球数制限のある大会においては、直史の支配力は落ちる。

 いや、球数の少ないピッチャーだから、むしろ上がるのか?

「監督がちゃんと制御できるかどうかだと思いますけど、樋口と一緒なら動きやすいと思いますよ。それに日本代表とか、そういう肩書きあいつ好きなんで」

 そんな大介の意見は、あくまでも参考のものらしい。


 しかし、この時期にか。

 ちゃんと補欠候補として準備していた選手もいるだろうに、直史と樋口を呼ぶのか。

 それはまあ直史は、敵にいたらそれだけで負けてしまうということを、証明したピッチャーではあるが。

 代表団は本気であろう。ここまで差し迫った時期に、わざわざその選択を検討しているのだから。

 もっともその影響がどう出るかは、本当に大介にも分からないことであるが。


 WBCは、ワールドカップとは比べ物にならないほど、大きな大会だ。

 ワールドカップは後付でイリヤが無茶なイベントにしてしまったが、WBCはそうではない。

 ただ本当の第一戦級の出てこないアメリカ代表なら、上杉と直史は打てないだろうなとは思う。

 異例尽くめのことではあるが、面白くなってきたのだけは確かである。




 そして島野は迅速に動き、二人の招聘に成功した。

 新聞やテレビはまたうるさく、大介に色々とインタビューもしてくる。

 それに対して大介としては、さほど答えられることはない。

「まあ、野球の神様が見たがったんじゃないですかね。また俺とナオが一緒にいて、今度は上杉さんまでいる、日本代表っていうのを」

 それは確かに、日本中の野球ファンが見たかったものだろう。


 WBCはまた色々と複雑な仕組みでリーグ戦とトーナメントを行うのだが、日本も会場の一つに選ばれているため、少なくとも観客の動員数には期待が出来る。

 選手自身のパフォーマンスと、スタンドでの騒動を使ってまで、注目を集める必要はない。

 日本代表も、MLBのメジャーリーガーからの参戦はない。

 だからある程度条件は同じだ。

 ボコボコにアメリカを倒して、MLBに対して、お前らは別に世界最高のリーグでもなんでもないと知らしめてやりたい。


 可能か不可能かは、やってみないと分からない。

 だが自信があるかどうかなら、確実にあると答えられる。

 今年はまだシーズンも始まっていないのだが、既に本番はシーズン前に終わりそうである。

 怪我だけには気をつけよう。




 噂を聞き、そしてそれが本当だと知ったときの代表選手たちの表情は、それなりに複雑であった。

 高校や大学といった選抜の果てに、プロにまでやってきた。

 そしてそこでも確実にトップレベルの成績を上げて、この日本代表に選ばれたのだ。

 もっともそれで、この間は完全に封じられたしまったわけだが。

 直接対決したバッターだけではなく、ピッチャーとしても複雑だ。

 シーズン中、回ってきた嫌だなと自分が思う強打者たちを、散々に封じ込めてきた化け物なのである。

 特に大介に対してのあの第四打席は、侮辱とか屈辱ではなく、純粋に衝撃であった。


 普段はなんとかボール気味のコースに手を出させ、カウントを良くしたところで勝負。

 積極的なピッチャーであっても、それが限界のバッターが大介である。

 確かにあの試合も、少し横なら抜けていたピッチャーライナーや、天井に当たるという打球はあった。

 しかしゾーンのストライク、それもストレートで勝負した場面があったのだ。


 今の自分たちに、あんな勝負が出来るか。

 もちろん出来ないとは言わない。なにせシーズン中は勝敗が大事であるので、少しでも打ち取れる確率が高い方法を取る。

 しかしあの最終打席、どう考えてもありえない敬遠の後に、あちらの監督は親指を立てていたのだ。

 辺見は元プロであるのに、あれを許可したのだ。

 打たれないと信じていたのか、それとも別の意図があったのかは分からない。

 だが結果として、日本代表は厳しい評価を受けることになってしまった。


 佐藤直史が来る。

 チェーンソーを持った殺人鬼の来訪を待つような、異常な雰囲気の代表宿舎であった。


×××


 ※ 4.5WBC編に続くかもしれないし、もう一話挟むかもしれない。

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