第88話 後半戦突入

 現在において地上最強のピッチャーは、上杉勝也と言われている。

 剛の上杉に柔の佐藤などとも言われるが、直史は舞台がアマチュアであるので、正確には比較が出来ない。

 また最強のバッターは白石大介で、これに対抗できそうな選手は、少なくとも国内にはいない。

 そして、女上杉、女大介(なぜか名前)と呼ばれているのが権藤明日美である。


 権藤明日美は成績優秀で賢明な性格をしているが、肝心なところであんぽんたんなところはある。

 可愛く言えば天然だ。

 そして周囲がそれをフォローするだけの人徳を持っていたりもする。

 オールスターが関東で行われるということもあり、ツインズは平然と観戦を優先し、それに付き合った明日美やその友人は何人もいる。

 そしてこれから、珍しくも大介がツインズに何かプレゼントしてやるという話になり、それを上杉が案内してくれるとなった時、明日美が手を上げたのだ。

「私、上杉選手に会いたい!」

 珍しい明日美のお願いである。


 元々上杉がいる時点で、三人でのデートにはならないのだ。

 快く動向を許可したツインズであるが、それを見ていた周りの女子大生たちは、やや不安になる。

「明日美は上杉さんのファンやったん?」

 水沢瑠璃の言葉に、わずかながらの事情を知っている恵美理は答える。

「ファンはそうだけど……前に会ったことがあるから」

 あれは、会ったと言っていいのか。


 もう二年も前になるだろう、夏の甲子園。

 こっそりと試合を観戦しに来ていたのが、上杉であった。

 明日美と恵美理は白富東の応援をしていたのだが、試合後に球場を出たところで、上杉と接触した。

 珍しくも転倒しそうになった明日美を支えたのが、上杉だったという話である。




「ガチっぽいと言うか、なんか少女マンガみたいやな」

 瑠璃の言葉に、考え込んでいた鷹野瞳はうなる。

「上杉選手なら、スミの隣にいてもおかしくはないな」

 この友人たちは皆、明日美のことが大好きなので、天下の上杉であっても値踏みするのだ。


 明日美は、何者にも縛られていない。

 上杉は古くからの土地の名士の家柄であり、政治家の家系であることはそこそこ知られている。

 金持ちのスーパースターはあだち的なライバルキャラを思わせるが、上杉はそういう器ではない。

 紅白歌合戦の時、羽織袴で審査員席にいた、上杉の貫禄のある姿を、思い出した者もいる。

 あの隣に明日美が立ったとして――。

「ありやな」

 瑠璃はそう言うが、恵美理は「私の明日美さんが」などと寝言を仰っている。

 お前には彼氏が既にいることを忘れてはいないか? いや、おそらく忘れているのだろうが。


 皆の明日美が、誰かの明日美になる。

 それに耐えられないアスミニストは、確かにいる。

 だが本物のアスミニストならば、推しの幸せはちゃんと願ってやるべきだろう。

 冷静に考えれば、まだそんな状況でないことは分かるはずなのだが。


 この日を境に、明日美の処女を守る会は分裂していく。

 アスミン幸福派と、明日美原理主義者である。

 偶像に対して何を求めるのか、それは現実であるのか、あくまでも美しい理想であるのか。

 両者の争いとは全く関係のないところで、明日美は自分の人生を選ぶことになる。

 明日美が「私のために争わないで」と叫ぶまで、およそあと100日。

 もちろんこれは、誰かの妄想である。



 

 大介の境遇を聞く上杉は、その大きな器でもって、やや呆れながらも受け入れた。

 女二人を一緒に面倒見るというのか。

 まあ上杉の家も政治家家系であるので、祖父には他に女性がいて、自分とそう年齢の変わらない叔母がいることは知っている。

 さすがに父の代はそんなあからさまなことはないが、そこそこの浮気は母も容認しているらしいことは気付いている。


 だが、本妻と妾というのとは、この場合は全く違う。

 大介は双子の美少女を、同時に扱おうというのだ。

 もっとも彼としてもそれは不本意なもので、普通に一対一の恋愛をしたいようではあるが。


 双子だから成立するのか。

 二人ともが、大介を共有しようとしている。

 この関係の主導権は大介ではなく、双子の方にあるようだ。

 上杉は紅白で双子と会っているので、面識がないわけではない。

 だがまさかこんな非常識なことを考えているとは知らなかった。

「お前も大変だな」

「そう言ってくれるのはあいつらの兄貴と、上杉さんぐらいです」

 二人を引き受けることの大変さは、この二人の厄介さを知らないと分からないと思ったが、上杉はちゃんと分かっているようだ。


 上杉の家などは、単に田舎というわけではなく、土地持ちの山持ちなので、はるかに佐藤家よりもややこしい。

 佐藤家もそうだが上杉家も、家系図を遡って行けば父方は皇室から臣籍降嫁した家になる。

 そんな中では普通に、ごく最近まで本妻と妾という存在は残っていた。

 大介の場合はそれに差をつけるわけではないので、より大変だと思うのだ。




 境遇に同情しながら上杉が連れて行ってくれたのは、銀座の百貨店であった。

 どこかのブランドにでも連れて行ってくれるのかと思ったが、本当の名家の金持ちというのは、発想の上を行く。

 百貨店の中でもVIPフロアに連れて来て、様々な装飾品や衣類などを選ばせるわけである。

「すげ……」

 大介は驚いているが、同時に呆れてもいる。

 これは自分に必要な世界ではないな、と。


「いらっしゃいませ、上杉様」

 びしっと高そうなスーツで決めた初老の男性が近付いて挨拶をしてきた。

 上杉は鷹揚に頷くと、大介たちを紹介する。

「白石大介だ。そのパートナー二人に、色々と選んでやってくれ」

「かしこまりました。そちらのお嬢様は?」

 ふむ、と上杉は顎に手をやる。

「せっかくだから、ワシが案内しようか」

 こくこくと頷く明日美である。


 百貨店の上部にはこういった、本当の金持ち向けの階がある。

 まあさらに上であると、外商部というお宅を訪問して、商品を提案してくる者がいるのだが。

 上杉は明日美に、装飾品やブランドのドレス、靴、バッグなどを案内する。

 もちろん他に商品を説明する、百貨店の者もいる。


 上杉は明日美の立ち姿を見る。

 女子野球のスーパースターを、上杉ももちろん知っている。だが直接に見ると存在感が違う。

(首が真っ直ぐで、体の軸がぶれない)

 美しい体が、服の上からでもはっきりと分かる。


 どこかで会ったような気がするのだ。

 もちろん雑誌やテレビでは、見たことはあるはずなのだが。

「権藤は野球を見にくることはあるのか?」

 一通り着替えさせて見せると、幼い顔立ちにもしっかりと色気が出てくるものである。

 むしろしっかりと化粧をし、肩の出た赤いドレスなどを着せると、全く印象が違うようになる。

「基本的にはテレビでしか見てませんけど、神宮は色々と伝手があるので」

 神宮なら同じセであるから、どこかで上杉と会ったことがあるのか。


 ここで上杉は、珍しくもナンパめいた言葉を口にした。

「前に会ったことなかったか? どうも初めて会った気がしないんだが」

「ありますけど、憶えててくれたんですか?」

「いや、そんな感じがしただけなんだが、どこで会ったかな」

「甲子園です」


 弟の試合を見に行った上杉が、明日美の見た目よりもずっと重い体を、ひょいと軽がると支えたのだ。

「そういえば、そんなこともあったか」

 上杉の記憶の中では、ぼんやりとしたものである。

 ただ、明日美の印象は強烈だ。

 パンツルックの今日は、見た目は少年っぽささえ残していた。髪は腰まであったのに。

 その髪をまとめてドレスを着ると、一気に大人びた雰囲気になる。

 女は化ける。

 ただ明日美はそれでもニコニコと、鏡に写った自分を楽しそうに見ている。


「あの服とか諸々、払っておいていいか?」

「かしこまりました」

 ナチュラルに女性にプレゼントをする上杉であるが、彼にとってそれは今までになかったことであった。




 女との買い物は地獄だと言われるが、ツインズは割とそんなことはない。

 判断が早いのだ。

 結局選んだのは指輪が一つずつであったが、それでも200万ほどなので、別に高くはない。

(いや高いよ。庶民感覚抜けたらまずいぞ俺)

 大介はそう自分に言い聞かせる。


 薬指にはまった指輪をうっとりお眺めるツインズは、こういう時は普通の女の子に見える。

 だが彼女たちも大学生になり、自分の食い扶持は自分で稼いで、学生でありながらも社会には出ている。

「それじゃ俺たちは明日も試合だから帰るけど、権藤さんをしっかりと送れよ」

 タクシーに三人を入れて、大介は別れの挨拶をする。

 名残惜しげなツインズであるが、どうぜまた後半戦も見に来るのだ。東京ならずとも神奈川までも、彼女たちは遠征する。


 走り去るタクシーを見ながら、さて自分たちも戻るかという大介と上杉である。

「白石、あの子はいったいなんだったんだ?」

「えと、権藤さんのこと?」

「ああ。何か存在感が普通の人間とは違う」

「いや、上杉さんがそれ言っちゃダメでしょ」

 大介としては上杉こそが人外の存在であり、明日美にはそこまでの違和感を覚えない。

 人によって、こういったものの感じ方は違うのだろう。


 ただ上杉は珍しく、難しい顔で考えこんでいる。

「またあの子に会えるように誘ってくれるか?」

「それはまあ、いいですけど。上杉さん、一目ぼれですか?」

「分からんから確かめたい」

 変に照れたりすることなく、そう言葉にする上杉である。


 不思議な話、と言っていいのだろうか。

 上杉もまた、恋愛ごとにそれほど興味を持つタイプではない。

 家のこともあるので、そのうちお似合いの相手というのが、普通に決まるのだと思っていた。

 だが明日美と出会って、話して、他の女とは何か違うと感じる。

 恋までは、あとほんの少しだけ足りないのかもしれない。




 タクシーの中で明日美は、困惑していた。

 ドレスと装飾具を一式、プレゼントされてしまった。

 もちろん嬉しいのだが、なんでこんな展開になったのだろう。

「知ってる、アスミン。男が女にドレスを贈るのは、そのドレスを脱がしたいって意味なんだよ」

「う~ん、あたしたちももっと大介君を誘惑していかないとなあ」

 そう言われても戸惑うばかりの明日美である。


 上杉は、大きい人だった。

 六大リーグの中には、上杉よりさらに大きい人もいたはずなのだが、とにかく感じるのはその大きさだ。

 憧れはあったと思う。だからこそ会いたかったわけで。

 ただ、ここまで高い物をプレゼントされても、どうすればいいのか分からない。

「どうしよう……」

 明日美には恋愛脳がないわけではないが、そのあたりの情緒はまだ未成熟なのだ。

「分からないなら分からないで、それでいいと思うよ」

「ちょうどお仕事も入ってるし、そちらに注力すればいいし」


 明日美は芸能事務所に所属していて、色々な仕事が入ってくる。

 基本的に健全な案件ばかり入ってくるのは、彼女にはそういうイメージしかないからだ。

 芸能界はカオスであり闇があるが、ツインズの周りは違う。

 イリヤという存在は、日本の芸能界の力を受けなくても成立する。

 彼女一人の存在が、日本の芸能シーンに与える影響は大きい。


 とりあえず紹介されている中には、主にCM関連の仕事が混じっている。

 ドラマにも出てみないかなどと言われているが、自分に演技など出来るとは思っていない明日美である。

 だが、彼女は勘違いしている。

 明日美は明日美であるだけで、既に見る者を魅了するのだ。




 今年のプロ野球も、後半戦が始まる。

 ここまで88試合を消化して、大介の打率は0.407 出塁率0.555 OPS1.467となっている。

 もちろん首位打者と打点はぶっちぎりのトップであるのだが、本塁打がやや少な目と言っていいだろう。

 それでも35本を打っていれば、当然ながらホームラン王も含めて三冠街道を驀進中である。

 出塁率を含めれば四冠だし、OPSを含めれば五冠だ。

 大介のいる限り、セの野手が打撃成績でタイトルを取るのは、盗塁王ぐらいしかないのか。

 その盗塁もリーグ三位であり、総合的な成績は他を圧倒している。

 一番分かりやすいのは、四球の数であろう。

 去年127個だった四球が、既に91個とまでなっている。

 どうしても少なくなる安打の数も、111となっている。


 大介の打撃の本当の魅力が何か、首脳陣も分かってきたが、それよりはデータ班の出した数字の方が明らかだった。

 ほんのわずかな上下はあるが、大介にはスランプがないのだ。

 五月の成績が比較的悪かったと言っても、それでも0.372の打率を維持しているし、何よりその五月も出塁率が五割を優に上回っている。

 そんな確率で出塁して、そして盗塁して得点圏に進む。

 だがその割には、ホームベースを踏む回数は打点に比べればはるかに少ない。

 大介は間違いなく、ホームラン以外では誰かを帰すのが役割のバッターなのだ。


 気をつけるべきは七月に入ってから、丁度打率が三割しかなかったことだろうか。

 それでも三割なのだから、すごいとしか言いようがないが。

 それにこの中には、上杉との対決があった。

 デス・ロードの八月は迫ってくる。


 去年はむしろ、その期間に成績を圧倒的に伸ばしたデス・ロード。

 高校球児が甲子園を占拠する間、ライガースは大阪ドームを代わりの本拠地として使う。

 甲子園の期間中の休みを増やせとか、そんな議論がまた語られているらしい。

 問題なのは特にピッチャーであるのだ。


 球場としての純粋な機能はともかく、甲子園でないとやはり試合は盛り上がらない。

 ホームランが出にくいと、しかも特に左バッターには出にくいといわれている甲子園をホームで、大介は大量のホームランを量産している。

 大介の打球の軌道が、やはり風の影響を受けないというのが大きいのだろう。


 そして今夜も、大介はホームランをかっ飛ばすのである。

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