第20話 コロンブスの卵
なぜ自分がスランプに陥っているか、大介はちゃんと分かっている。
上杉との対決のせいだ。
あの対決の後、上杉は登録抹消された。少なくとも10日間は一軍の試合に出られないということであり、これまでずっと故障知らずの上杉なので驚かれたが、実際は故障ではなく休養程度のものだったらしい。
上杉にとっても大介との対決は、己の肉体を限界以上に駆使したものであったのだ。
手の毛細血管は断裂し、全身の筋肉がきしみをあげる。
それが上杉が、最後の一人に対しても投げず、他の者にマウンドを譲った理由である。
三日間は安静にして、そこからキャッチボールを再開するという、肉体へのダメージは大きなものであった。
上杉にとっては、プロにおいて初めて、先発らしい先発をしたという意識がある。
大介との対決は、数字の上では自分の負けであったろうが、これを糧としてさらに上を目指すことが出来る。
今はそのための回復期間である。
上杉と違い大介は、翌日からも試合に出ていた。
元気なものだと上杉は苦笑したが、そこから明らかに大介のパフォーマンスは低下していった。
大介は肉体の分かりやすい故障ではなく、自分でも原因不明のスランプに陥ったらしい。
対決した両者には、おおよその原因は分かっている。
上杉の最速のストレートを打つのに、大介は己の肉体の回路を、書き換えてしまったのだ。
そしてその書き換えが強すぎて、元に戻らないのだ、と思っていたのは上杉の方である。
大介の方ではどうやら、あの一発を打つために、パソコンで例えるならメモリをリセットしてしまったようなものだと感じている。
これまで10年以上も、毎日バットを振り続け、強者たちとの戦いで刻み続けた経験。
それが、強引に書き換えられてしまった。例えるならそのようなものだ。
肉体の調子を取り戻すのに、どれだけの時間がかかるかは分からない。
さすがに肉体に染み付いたスイングはあるので、肉体的な問題ではない。
おそらく肉体を制御する脳の問題だ。
少しずつでも基礎からやり直していく必要があるのだろうし、それ以外には元に戻す方法も思いつかなかった。
あるいはいつの日か突然に、調子が戻るのかもしれない。
ただ、それをずっと待っているわけにはいかない。
数日間の休みを空けて投げるローテーションピッチャーと違って、大介は毎試合出る必要のある野手だ。
守備がいくらよくても、バッターとして打たなければ、チームが勝てない。
単なる調整のためなら二軍に落ちることも考えたが、だからといって誰が三番を打てるのか。
それに試合に出て点を取らないと、給料は上がらない。
神奈川との残りの二戦に敗北し、そして次の広島との戦いで三連敗し、ついにトップは入れ替わった。
その後に大介は、実父からのアドバイスを受けたのだ。
簡単な話で、メモリがリセットされてしまったのなら、リセットされていないメモリを使えばいい。
父を天才だと思ったのは、それが初めての大介であった。
中京フェニックスとの三連戦。
昨年度最下位のフェニックスは現在も最下位であるが、ライガースはここまで五連敗と、完全に調子を落としている。
しかも直前二試合は完封負けと、完全な下り坂だ。
主力の三人が怪我で離脱したのもあるが、それに加えて神奈川との初戦から、スーパールーキー白石大介が完全に調子を崩している。
170kmをホームランにするようなマネをして、これからどうなるのやらと戦々恐々としていたが、あれで逆に調子が狂ってしまったそうな。
ベテランならそれなりにスランプの乗り越え方を分かっているのかもしれないが、ルーキーにそれは難しいだろう。
なんとかこの三連戦を勝ち越し、最下位脱出への勢いをつけたい。
そのフェニックスとの試合を控えて、大介はマシンを相手にバットを振っていた。
見物している取材陣から見ると、あの試合直後のとてつもなくひどかった頃とは比べ物にならないぐらい、まともになっている。
だがそれでもオープン戦後半からシーズン序盤に見た、柵越えして当たり前という打球はほとんどない。
フォームが変化しているようには見えないが、本人の中では何かが違うのだろう。
解説者の中には往年の名選手などもいるのだが、それでもこの小さな大打者に向かって、何かアドバイスが出来るとは思えない。
そもそも今の大介は、崩してしまったものを、一つ一つ積み直している段階なのだ。
誰かが何を言っても、まずは以前の自分を取り戻すことが先決である。
ただその表情は、前日の夜までと比べれば、はっきりと明るくなっていた。
本拠地NAGOYANドームに迎えて対決するフェニックスとしては、大介の復調がどうかは大切な問題である。
だからスコアラーや相手チームのコーチなどは、顔見知りの解説者などに話を聞きに行くのだ。
だいたいプロ野球の解説者は現役時代にも成績を残しており、下手をすれば監督やコーチよりも見極めの目を持っているものがいたりする。
そこへ聞き出すわけだが、大体見解は一致していた。
まだ全然戻ってないと。
やはりそうかとほくそ笑んで、試合前のミーティングに臨むのである。
本日のフェニックスは、落ち目のライガースを叩き潰さんというわけでもないが、ローテーションも良くエースの釜池が先発である。
ライガースの先発は、ここまで無敗の四連勝という山田であるが、とにかく今のライガースは援護がない。
山田は今のところ防御率一点台という好成績であるが、とにかく点が入らなければ、勝つことは出来ない。
釜池と山田を比べれば、はっきり言って山田の方が上だろうが、落ち目のライガースであれば勝機は充分にある。
ここをきっかけに勢いをつけ、なんとか二年連続の最下位は避けねば!
さもないと俺の首が! と思いつつも、なんとかこの三連戦は勝てるだろうと思っている雷同監督である。
スターティングメンバーは、ライガースは少し変わっている。
このところ交互に使われて打撃好調の黒田と大江が、ポジションを替えてスタメンに入っている。
当初は外野に入っていたが、金剛寺の離脱で代わりにサードに入ることもあったロイを完全に外野に戻し、五番の黒田をサードに、六番の大江をファーストに持ってきた。
かなり攻撃を重視しているようであるが、肝心の西片から中軸へ、ちゃんと打線がつながるのか。
一回の表、ライガースの先頭打者西片は、見事にヒットを打って塁に出た。
先ごろ奥さんの二人目妊娠が発覚し、ハッスルしている西片である。
幼稚園に入っている娘がいるので、次は男の子がいいかなとデレデレしているお父さんであるが、やる時はやるのだ。
なおこの男、プロ野球のスター選手のくせに、中学校の同級生を嫁にしていたりする。
それでもクラスで一番の美人だったりするのだが。
二番の石井はここのところ打率は上がったものの、やはり西片が出ればつなぎに徹している。
この試合も右へと進塁打を放ち、最低限の仕事をやってのけた。これで大介と、それが凡退してもロイにまで回る。
とにかくここのところ、先取点が取れていない。
原因はほとんど大介であるのだが、首脳陣としても、五試合ノーヒット程度であれば、まだ見ておきたいとは思っている。
だがこれ以上それが続くとなると、さすがに二軍に送って調整が必要かとも思えるのだ。
だが、一部の選手は知っている。
大介は、完全ではないにしろ、秘策を持っていると。
このところ負け試合ばかりで全く出番のない青山が、ほんの少しだけ協力した。
そしてそれを西片と石井は見ていた。
おそらくこの第一打席で、世間は大介の本当の恐ろしさを知る。
コールされた大介は、その特徴的な長いバットを持ち、右打席に入った。
いや、よく見たら右打者用のヘルメットを被っているのに気付いたはずである。
大介はワールドカップでも日本の公式戦でも、右打席でも打った記録がある。
だがもちろん、プロでお披露目するのは初めてである。
最初にそれを聞いた時、もちろん首脳陣は難色を示した。
それまでに大介の左打席で打っていた成績が凄まじすぎたからである。
確かに今は調子を落としている。それは間違いない。
また普段の練習でも、右の素振りは見せているし、それなりにマシンの打球は右でも打っていた。
だがそれが、実戦で通用するものなのか。
最終的には、とにかく試すだけは試してみようという結論になったのだが。
フェニックスのエース釜池は右腕なので、右打席にするメリットはほとんどない。
それをあえて右打席に入ったことに、なんの意味があるのか。
現在の大介は完全に己のバッティングを見失っているが、ならばまら右の方がマシなのか。
しかし事前の練習では、右で打っている様子などは見せなかった。
いや、待て。
このスーパールーキーの入団においては、様々な新聞や雑誌が特集を組んでいた。
嫌でも目に入る逸話の中に、骨折で左打席ではバットが振れない時、右打席で打ったという話があったはずだ。
(どうする?)
(さすがに一球目は外したい)
そのキャッチャーのサインに頷き、外角へ外す。
割とはっきりしたボール球だったので、大介はぴくりとも動かなかった。
これでははっきりとは分からない。もう一球外したい。
内角、膝元の少し危険なボール球。
だが大介はぴくりとも動かず、それを見送った。
結局はカウントを悪くしてしまっただけである。
(歩かせるのはまずいよな?)
(ライガースにしてはいい選手取ってきたよな。やっぱり変化球で試してみよう)
釜池の得意とするのは、左右どちらかに変化しながら落ちるチェンジアップ。
前に二球ストレートを見せていたことが、上手く伏線となるだろう。
(変化球にしぼらないとな)
ストレートは打てそうだ。だからこそ、変化球も打たなければいけない。
この一打席で成果を出さなければ、右打席へのトライは中止せざるをえなくなるだろう。
真ん中あたりから、シンカー気味に落ちてくるチェンジアップ。
大介は膝をゆるめて、腰の回転で弾き返す。
サードの頭を越す、理想的な左打ち。打球を見てスタートしていた西片は、三塁を回ってホームを駆け抜ける。
大介は打った直後に体勢を崩していたため、無理はせずに一塁でストップした。
五試合ぶりの打点である。
出塁の直後に盗塁を決め、そこでロイがヒットを打ち、二点目のホームを踏む。
そして黒田と大江が連打し、さらに一点が入った。
ピッチャーの山田は、今期ここまで四先発の四勝。最多勝の可能性を言うのはまだ早くても、ここで勝てばハーラーダービーのトップになる。
だがそんな気負いが悪かったのか、この試合は打撃戦になった。
五回を終えてスコアは7-4と、勝利投手の権利を得る。
出来ればあと一回は引っ張りたかったが、ここからは最近全く出番のなかった、勝利展開での中継ぎ陣の出番である。
まずは松江。二イニングを投げて一点を返された。
八回が琴山。珍しくも一点を取られた。
一点差でクローザーの青山に託すのかというところで、既に本日二安打の大介から、スリーランホームランが飛び出した。
なぜにこの状況で勝負するのか、という不思議なフェニックスバッテリーの思考である。
まさか、さすがに本来の打席とは違う、右では打てないと思ったからなのか。
これにて大介は、プロ入り開幕初戦以来の、二度目の猛打賞である。
最終回を青山が一点を取られながらも〆て、連敗は五でストップ。
なんでよりにもよって、うちとのカードで復活するのかと、フェニックスファンは意気消沈である。
ライガースはこの試合、大介とロイの二人が猛打賞。
そして黒田と大江も打点を積み、一軍定着への実績を作り始めた。
しかしまさか、右で打つとは。多くの者がそう思っただろう。
大介としてもたとえ左投手相手でも、右打席にわざわざ入ることはなかったのだ。
だが大介は毎日右でも素振りをするし、場合によってはマシンの球も打っていた。
ほとんどぶっつけ本番で試したのだが、やはりこちらのメモリは残っていた。
右で打て。父の言葉は、10秒どころではない短さであった。
左のスイングを上杉のピッチングに特化させてしまったが、右には影響がないかもしれない。
そんな、かもしれない、からのアドバイスであったが、間違ってなかったようである。
またチームとしては、黒田と大江がかなり安定して打てるようになってきたのが大きい。
今日の主役は、失点は多かったとは言え勝利投手となりハーラーダービーの単独トップに立った山田と、もちろん復活した大介である。
正確には復活と言うよりは、予備を使っているようなものなのだが。
山田としては不本意なピッチングだったので、お立ち台に呼ばれたのは大介である。
右で打ったことについてとにかく聞かれたが、そもそも幼少期の大介に最初に父が言ったのが、両方で打てるようになれということだった。
純粋に打つためだけに徹するならば、どちらかの打席に絞ったほうがいいというのは、大庭の考えではない。
そもそも大介は最初は、普通に右でスイングを始めたのだ。それが左になったのは、単純に足の速さを活かすためで。
大庭としては右でも打てたら、左投手対策になると思った程度だ。
ただ自分の感覚としては、両方のスイングを出来たほうが、より主に使うスイングも安定すると感じた。これが大庭の、初めての他者への指導であったかもしれない。
大介の左打席のスイングは、上杉のピッチングの侵食を受けた。
だが右打席の方は、綺麗なままに残っていたのだ。
右で打ってもここまで化け物レベルを保っているとは、誰も思わなかったに違いない。
あの父以外は。
フェニックスとの第一戦は、四月最後の試合となった。
ここ五試合の成績を見れば、大介のイメージは尻すぼみであり、あまりいい印象とはならなかっただろう。
だがこの四月最終日の試合によって、成績も印象も爆上げした。
最終的に四月の成績は、次のようなものである。
打率0.344 出塁率0.487 OPS1.251
試合 28
打席 119
打数 93
安打 32
打点 32
本塁打 10
盗塁 20
四球 26
そして四月の月間MVPは、打者では大介、投手では山田が選ばれた。両者ともにライガース所属である。
山田は無傷の五勝であり、完投が三、完封が一、防御率も2を切っている。
同じ球団から投打のMVPが選ばれて、さらに上杉離脱で神奈川も調子を落とし、チームもまたゲーム差なしのトップとなったのである。
ライガースは調子を取り戻した大介に加え、打率を上げてきた黒田に大江、さらには他の打者も得点力を上げてきた。
ただでさえ最下位であったフェニックスは、見事に三タテを食らった。泣いていい。
開幕から一ヶ月、わずかな期間のスランプはあったものの、それを打席の変更という荒業で克服した大介は、やはりスーパーヒーローであった。
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