第19話 流星
覚悟が足りなかった。
死ぬ覚悟も、殺す覚悟も。
おそらくそれが、自分と上杉との差であり、違い。
チームを背負っているエース。郷土の英雄。名家の跡取り。
そういったものを全て背負った上で、上杉はマウンドに立ち、試合を捨てて己を捨てて、ただ大介を叩き潰しにきている。
なるほど重い。
マウンドという高い位置から見下ろしているピッチャー。
重圧に負けるな。腰を落としすぎるな。だが見栄も張るな。
普通体でいろ。
試合の勝敗はもう関係ない。
上杉が叩き潰そうとしているのは、己に近付く、また一つの存在。
若々しき凶暴な猛獣の前に立つのは、巨大な山塊。
その爪や牙がいかに鋭かろうと、勝てる道理はない。
道理など見るな。
理屈など蹴飛ばしてしまえ。
ただ、バットでボールを打つためだけの獣になれ。
大介のまとう空気が変わった。
叩き潰すつもりでいたが、どうやらレベルアップさせてしまったらしい。
だが、それは今の大介には毒である。
ひたすら無人の荒野で投げてきた。
日本海の荒波に向けて。そしてある時、気付いたのだ。
自分のやっているこの不毛な石投げの向こうに、辿り着くべき境地があると。
大介は打席の前よりに立った。
上杉のストレートに反応するには、それは絶望的な数センチ。
だが上杉には分かる。そこがお前の踏み込むべき数センチだと。
この若者は、叩きつぶすとか、へし折るとかではへこたれない。
北風と太陽だ。必要なのはバランスを狂わせること。
初球で勝負する。
大介に対して、ストレートの握りを見せる。
怒涛のように観客席から轟音が聞こえるが、上杉はもうボールにだけ全神経を集中する。
イメージするのは、キャッチャーミットを突き抜けて、そのままバックネットにめり込むボール。
今日はもうここまでだ。これで充分。
マウンドから、バッターボックスの大介と呼吸が合った。
渾身の脱力から、渾身の筋肉の爆発までは一瞬。
真ん中高めのストレートが、不思議な音を立ててバットに当たった。
熟練のカメラクルーが、打球の行方を見失った。
その中で「ドン!」という音が聞こえた。上杉の背後から。
上杉は指で背後を指した。
ころころとボールが転がるのは、センターの背後。
振り返ったセンターでさえ、不思議そうにそれを見つめる。
外野の観客が放り込んだのか。それにしても打球はどこへ行ったのか。
オーロラビジョンに映し出されるのは、球場の各所を映し出すスロー映像。
大介の打った打球は流星のように、バックスクリーンのオーロラビジョンのぎりぎり下に当たっていた。
つまりはホームランだ。
バットをそっと置き、大介はベースを一周する。
そのくせ視線は、マウンドに仁王立ちする上杉に向けられていた。
大介と上杉の視線が絡み合い、バックスクリーンを見る。
そこに表示されていたのは、170という数字。
誰もが己の目を疑うか、機械の故障としか思えない数字。
人体は力学構造的に、177kmまでのボールしか投げられないという説がある。
もしそれが本当であるなら、上杉はその限界へ、また一歩近付いたことになる。
ホームベースを踏んだ大介は、バックネット裏の観客が、全て立ち上がって腕を上下させているのを見た。
戻ってきた音はごうごうと、耳の奥を震わせる。
甲子園中が、ただただ沸き立っている。
ああ、なるほどな。
これは他の誰かでは無理だ。
ベンチに戻ってきた大介に、チームメイトたちが群がって体中を叩く。
この試合四本目のホームランではあるが、他の三本とは価値が違う。
完全に気の抜けた上杉の160kmに満たないストレートではなく、これまでに未到達の領域を一撃で破壊したのだ。
打てるはずがないのだ。
これまでに一度も見たことのなかった球を、打てるはずがない。
しかしそれをしてしまったのだ。
角度がもう少しついていれば、場外へ飛んでいてもおかしくなかったかもしれない。
ライナーと言うよりは大砲のような、破壊力に満ちた一打であった。
「105マイルをホームランにするって……」
メジャー換算したロイも、あきれ返る他はない。
自分では絶対に無理だ。断言出来る。
スピードが全てではないと言っても、それでも限度というものがある。
あと一人というところだが、ここで上杉は降板した。
四点差とはなったが、あと一人アウトを取れば、負けではあるが完投であるのに。
それだけ上杉に与えたダメージは大きかったということか。
そして九回の表、山田は三人で抑えて完封勝利。無傷の四勝に到達した。
この時点では、セ・リーグの先発ピッチャーではハーラーダービーのトップタイである。
大観衆は山田の完封もだが、それよりもやはり大介と上杉の対決に大満足した。
剛腕でもって三振の山を築いていた上杉が、この試合は七つしか三振を取れなかった。
また一試合に四本のホームランというのは、プロ入り以来最悪の数字である。
そして自責点だけで四点を取られたというのも初めてであり、まさにこの試合は歴史的な一戦であったのだ。
果たしてこの勝負、勝ったのはどちらであったのか。
四打数で一本を打った。しかしその一本がホームランであった。
日本史上最速を出した上杉であるが、それをホームランにしてしまった大介。
普通ならば打てるはずがないのだ。それを打ってしまった。
ヒーローインタビューは完封勝利の山田と二ホーマーのロイに加えて、大介までの三人が引っ張ってこられた。
そして仕方のないことだが、大介が主人公であった。
「ありえん……」
数分間固まった状態から、やっと樋口が口を開く。
計測機械の故障でないことは、実際にテレビ画面を見ていた樋口には分かる。
高めに浮いたストレートが、上杉は一番球にスピードが乗りやすいのだ。
それに比べると、直史はまだ現実を認めていた。
しかしどうやったら、初見の170kmが打てるのだ?
「分からん……」
頭を掻くしかない直史である。
そして他の、プロから調査書こそもらったものの、結局志望届は出さなかった者たちは胸を撫で下ろした。
「プロに行かなくてよかった……」
そう思うしかない、怪獣大決戦であった。
同じ頃、かっこよすぎる大介の姿に鼻血を出しながら失神したツインズは、二時間ほど後に就寝しようとしたイリヤに発見された。
スポーツ紙のみならず、一般紙までもがこの最後の対決を一面にした。
投げも投げたり、打ちも打ったり、といったところである。
そこまで三連続三振でありながらも、最後には日本最速をバックスクリーンへ叩きこんだ。
打球が速すぎて、多くの観客もほとんどは見失ったという。
次の日スクリーンの確認をした作業員は、おそらくこれがスタンドへのライナーだったら、直撃して死人が出ていたかもしれないと言った。
同じプロ野球選手や、プロに進もうと考えていた者は、どちらも化け物すぎるこの結果に戦慄した。
多くのニュース番組が、この対決を紹介した。
画像解析などから、間違いなく170kmは出ていたと判明した。
さすがの直史でも、ピッチングは球速ではないとは言わなかった。
翌日、特にいつもと変わらない朝を迎えた大介は、いつも通りの練習メニューに入る。
マシンをぽんぽんと柵越えした後、バッティングピッチャーに交代して投げてもらう。
まずはストレート。
ミートを外してピッチャーゴロになる。
大介は首を傾げる。
「すみません! 何か適当に変化球投げてください!」
言われるままに投げられたカーブを、盛大に空振りした。
当てにいった。
だが体が崩れた。
「すみません! しばらく変化球を!」
プロのバッティングピッチャーというのは、前年までは選手であったのが、そのままバッピとして採用される場合が多い。
なので当然、高校レベルでなら今でもエースというものなのだが、それにしても変化球がまともに打てない。
一度ボックスから外して、素振りをしてみる。
こちらは問題ない。他の者にチェックしてもらっても、いつも通りの危険なスイングスピードだと言われる。
もう一度入って、またマシンのボールを打つ。
今度はストレートまでがゴロになったりフライになったり、空振りしたりする。
さすがに周囲もその異変に気付く。
「大介、お前にもきたな」
西片が変に深刻にならないように、気遣いながらも声をかける。
「それがスランプだ」
なるほど、と納得出来るものでもない大介である。
走塁や守備には問題がない。
ボールを空間で捉えることが出来ていないのかと思ったが、キャッチボールもスローも問題はない。
フライで打球の距離を間違えることもないので、問題はバッティングだけだ。
素振りは問題ない。映像を撮影して自分の目で見ても、まともなものだと思う。
だが、もう一つの素振りでは?
目を瞑ってこれまでに対戦したピッチャーのボールを、そのイメージした軌道で打つ。
だがその記憶が、ぐにゃりと歪む。
当然のように、素振りにも異常が出ている。
まるで今までの記憶を、体さえもが失ってしまったように。
あせるな。
一つ一つのフォームを確認しながら、マシンの100km前後のスピードから試していく。
一定のゆっくりとしたボールに、タイミングを合わせて打っていく、
下手に飛ばそうとはせずに、基本のピッチャー返しで。
打球に勢いはないが、ヒット性の当たりにはなってきた。
球速を上げると、130kmぐらいのところでフォームがおかしくなる。
変化球に関しては、おおよそどんな変化でもおかしい。
宣告してもらってからカーブやスライダーを打ちにいっても、空振りかゴロ、あるいはフライと統一性がない。
これがまだしもゴロばかりであれば、傾向と対策は練られただろうに。
スランプ。言葉にしてしまえばそれだけなのだろう。
だがこれは大介にとって、初めての経験だ。
メンタル的なものとは思えない。ただ、原因らしきものはある。
あの、上杉との最後の対決。
初球を狙っていって、170kmをバックスクリーンに叩き込んだ。
あれを打てた理由は、自分でも説明がつかない。
説明がつかない力を引き出した反動だとでも言うのか。
初戦を上杉で落とした神奈川だが、二戦目と三戦目は勝った。
打線はそこそこの働きしかしていないのだが、なにしろライガースの打線が全く機能していない。
そして神奈川との対決の次、広島との三連戦でも、三タテを食らった。
原因は明らかで、この五試合で大介が18打数の1安打、しかもそれも内野安打だけという絶不調だからである。
それでもまだ打率は三割というのが、いかにそれまで打っていたかの証であるのだが。
しかし三振の数が一気に増えてきた。
一番の西片と、四番のロイをつなぐ三番で、これだけ凡退があれば仕方がない。
コーチ陣としても見て分かるのは、大介のフォームのタイミングがおかしくなっているということだけだ。
それでも一日ごとに、まともにはなっている。マシンのストレートには対応出来るように戻ってきている。
だが、試合では打てない。
選球眼が問題ないのは、フォアボールで出塁は出来ていることからも分かる。
ただスイングが、まるで小学生からやり直したかのような、基本的なものになっているのは分かる。
広島との三連戦最終戦も、6-0で落とした。
大介の調子が悪いのは確かであるが、他のバッターも全く機能していない。
序盤の勢いは、やはり大介がいてこそか。
金剛寺もいない今、一人気を吐くロイであるが、ヒットはともかくホームランにつながる打撃が出来ていない。
大介は今、一定以上球速やキレのあるストレート、そしてほとんどの変化球が打てない状態になっている。
ゴロを転がして内野安打を狙った方が、まだマシかというレベルだ。
沈黙のロッカールーム。
大介は苛立ちを表に出すのではなく、ただ思考する。
上杉との対決。特にあの最終打席からおかしくなったのは、完全に時系列的に間違いない。
今の自分は、そのおかしくなった部分を確認していっている。
それこそ小学生に入る以前、父から習った基本のスイングから。
だから徐々に戻ってきてはいる。
プロ基準で通用するところまで、戻っていないだけである。
首脳陣としても、練習の様子などを見て、徐々に良くなってきているのは分かる。
だがチームのためを思うなら、打順を後ろにするか、二軍で調整させた方がいいのではないかとも思う。
しかしこういった調子の悪い時も、一軍で使った方が早く戻る場合はある。
それに今の大介を落としたとして、誰を三番に持って来るというのか。
スタートダッシュからの貯金を一気に食いつぶしていっているが、まだチームの勝率は五割以上のキープしているし、大介の打率も三割は余裕である。
他のベテランにだって、調子の悪い時はある。ただ若手に限っていえば、一度二軍に落として、プレッシャーから解放してやる意味はあるのかもしれないが。
そんな大介のスマホが震える。
電話の先は、登録してはいるものの、これまでにかかってこなかった相手。
「もしもし」
『おう、スランプというか、上杉に調子を狂わされたみたいだな』
「その通りだよ。なんか一発で治るアドバイスでもあんのか?」
『あるぞ。そのために電話したんだし』
大介も自分で振っておきながらギョッとする、実父からの電話であった。
大庭は短い期間であるがプロで過ごし、その才能が開花しかけたところで選手生命を失った。
だがその後は長いブランクを置いた後、少年野球のコーチをして、そこから高校野球の監督となった。
指導者としても、立派な結果を残している。才能だけでどうにかする人間ではないのだ。
「マジで、方法あるのか?」
『あるぞ。今のお前のやってることも、時間はかかるけど元には戻せるだろうしな。だけどすぐにある程度の数字を出すには、こっちの方がいい』
自信満々と言うよりは、ごく普通の口調。
父とはこんな人間だったろうか。
「教えてくれるのか? タダで?」
『お前は実の父をなんだと……。まあ普通に教えてやるよ』
「そっちに行ったらいいのか? 明日は移動日だから、なんとかなるけど。何日ぐらいかかる?」
『10秒だな』
絶句する大介であった。
父親としてはだらしない場面を憶えている大介だが、野球人としては信用している。
だが、10秒はないだろう。
そうは思ったのだが、実際には10秒もいらなかった。
そして、ああ、発想が全く違うんだな、と思った。
「なるほど……」
『じゃあな。まあ怪我だけはしないように頑張れよ』
「ああ、サンキュ」
『お前が頑張ると、子供の七光りで俺もおこぼれにあずかれるんでな』
少し照れたような、大庭の言葉であった。
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