第18話 超人の領域
この時のために生きてきた気がする。
もちろん錯覚なのだが、大介はそんな感覚さえ覚えていた。
自分の、人間の一生を捧げるのに、充分だと思えること。
どれだけ計算高く考えようとしても、この対決には本能が反応してしまう。
喜びのあまり、笑みが浮かぶ。
見ればマウンドでは常に無表情たらんとする上杉も、同じ笑みを浮かべていた。
人は望むべき場所に立った時、喜びを感じる。
そして喜びを感じる人間は、その顔に笑みを浮かべるものだ。
上杉に向かって立つ大介は、深く息を吐いてから、脱力して構えた。
支える筋力は最低限に、全ての筋力はバットをスイングするのに向ける。
握り締めるのは、インパクトの瞬間だけでいい。
ツーアウト、ランナーなし。
問題なく勝負していい場面だ。上杉であれば。
振りかぶる上杉。そして弓を引くように、その体が折り曲げられる。
きりきりきりと、人間の肉体が、ただボールを投げることだけに最適化される。
踏み出した足。しかし肉体はまだ力をためる段階。
そこから体が開く。開いたと同時に腕が振られ、ボールが放られていた。
大介のスイング。ボールの下をこすって、バックネットに叩きつけられる。
球速表示は163km。タイミングはばっちり合っていた。
既にこの段階で、上杉しか投げられない領域の速度である。
それにいきなり合わせてきた大介に、観客は感嘆する。
多くの強打者を、それこそ金剛寺をも屈服させてきた上杉のストレート。
本気を出せば、それこそ誰にも打たれない。
だからあとは完投するペースで、ほどほどの力で投げてきた。
分かるか、白石。
お前になら分かるはずだ。
分かるよ。
我々は同類だ。
ただボールを投げて、バットで打つ。
そこに何も駆け引きはなく、ただひたすら速く強く重く、そしてそれを迎えうつ。
処理のために、脳の領域を確保する。
音を遮断する。静寂。
色を遮断する。無彩。
形さえも、必要な線以外は消えてしまえ。
上杉の体軸と、それを中心にして旋回するボールの中心点。
それだけを脳はトレースする。
考えるためのエネルギーは脳にはいらない。
ひたすらに反射する。それだけの存在になれ。
二球目、またもバットの上をこすって、審判のマスクを吹っ飛ばした。
タイミングは合っている。だが足りない。
(回転か)
理屈ではない。ただ漠然と悟る。
バッターボックスを外して、肺の中の空気を入れ替える。
気が付けば腕が痺れている。
打ち損ねたことによって、上杉のボールのパワーが、ある程度のダメージを腕に残してしまっている。
肺の中の空気を吐ききって、そこから深くゆったりと呼吸をする。
大丈夫だ。震えは止まった。コントロール出来る。
バッターボックスの中、ゆったりと脱力して構える。
あと一球だ。最後の一球、必ず一番速い球が来る。
注意するべき場所が違った。
ボールだけだ。ボールだけが問題だ。
上杉の指がリリースした、その瞬間だけを脳で処理しろ。
あとは反応だけが打ってくれる。
ボール、来る!
バット、振る!
ストレート。審判の目からそれは消えた。
キャッチャーのミットが吹っ飛び、そこから転々とボールが転がる。
振り逃げをされる。そう思ったキャッチャーは慌ててボールを確保するが、大介はバッターボックスに膝を着き、荒い呼吸を繰り返していた。
何をした?
今、こいつと上杉の間で何が起こった?
ボールをキャッチし切れなかったキャッチャーには分からない次元。
ただ確かなのは、こいつがバットを振ったということ。
ボールをタッチしたが、審判の声が遅れる。ただ腕で示している。アウトだ。
白石大介と上杉勝也、一打席目の対決は、三球三振で上杉に軍配が上がった。
お互いの手を握り締めながら、桜と椿は画面に見入っていた。
大介が負けた。
まだたったの一打席とか、このままで済むはずがないとか、そういうことではない。
大介が負けた。
本気で、この打席に全てを賭けて、それで負けたのだ。
これまでの全ての試合で、本当の意味では本気になっていなかったのを、二人は知っている。
大介の限界。
それを上杉勝也が上回った。
巨大なホームシアターでそれを見ていたイリヤは、ふらふらと立ち上がった。
「ごめんなさい、ちょっと酔ったから、私は寝てるし」
画面越しの空気だけで、彼女の感受性は大きなダメージを受けた。
それは同時に、新たなる創造の種でもあったのだが。
画面に見入っている双子に、イリヤはこれだけは言っておく必要があるだろうと思い、口を開く。
舌の周りがおかしい。
「大丈夫、まだ上があるわ。二人とも」
聞こえたツインズが同時に振り返ったが、イリヤはもう振り返らなかった。
つい先日、春の六大学リーグ戦の、初戦を終えた早稲谷大学の学生寮。
食堂に備え付けられていたテレビで、樋口と直史に加え、星と西、さらには野球部一年生が10人ほど集まって、試合を見ていた。
それに釣られて一般の学生も集まっていたわけだが、大介の三振で大きく息を吐く。
「レベルが違いすぎる……」
かろうじてそう呟いたのは、土方であった。
分からなくもない。球速だけでピッチャーの価値が決まるわけではないが、今年のドラ一候補と言われている四年の梶原は、ストレートのMAXが151kmである。
しかし画面の中でアナウンサーが「最速更新!」と叫び、解説者が乾いた笑い声を発しているように、まともな解説が出てこない。
初球の163kmは、上杉の高校時代の最速だ。
二球目の165kmは、公式戦における上杉の最速だ
そしてラストの168kmは、樋口の知る上杉の最速を上回っていた。
日本人の最速記録を、一気に更新した。
それよりも17kmも遅い梶原でも、ドラフト一位候補。
さらに言うと直史のMAXは148kmであるが、試合では146kmまでしか投げたことはない。
顔を見合わせる直史と樋口。
「あの人、ほんとに人間か?」
「いや、いきなり165kmに当ててくる白石もたいがいだろ」
「あいつはサイヤ人クォーターだから……」
真ん中高めのストレートを、まさか大介が空振りするとは。
まさにあの夏の、一打席勝負の再現か。
「当たったように見えたけどな」
樋口はそう呟くが、正直大介のスイングの方も目で追いきれなかった。
スロー再生がされるが、完全に振り遅れている。
ただ、軌道は合っていたと思う。
「次は打てるかもな」
直史は呟いたが、周囲からは反応がない。
特に樋口が何も反応しないのは、直史にとっては意外である。
「勝也さん、負けるかもな」
その言葉に、周囲の野球部員たちは驚く。
今まさに、日本人最速を更新した、自分でも受けていたピッチャーなのに。
樋口は自分の言葉に、自分でも驚いているようであった。
「いや、勝也さん、本気で投げると集中力が続かないから」
だから上杉は圧倒的に直史よりも上の奪三振率なのに、ノーノーやパーフェクトの回数は少ないのだ。
気を抜いて投げても、平気で150km台後半が出るというのがもう反則だが。
ネットの海は大騒ぎである。
『祝! 日本最速更新!』
『上杉はブルペンでは167km投げたことあるらしいからな』
『球速の出やすい甲子園だからな。実は164kmぐらいだろ』
『三年前の統一規格知らんやつおるんか……』
『球速の出やすい球場と出にくい球場があるから、トラックマンでちゃんと修正したってあれか』
『でもあれ、本当は一試合ごとに調整せんといかんのだろ?』
『すげーめんどいらしいとは聞く』
『つまりまだ日本最速は165kmのまんま?』
『それはでも、逆に遅くなってる可能性もあるし。センバツなんか150km投げたの二人だけだろ?』
『佐藤次男が158kmで上杉以来の球速なんだが?』
『忘れさられてる大滝』
『素で忘れてた。一軍登板マダー?』
『左腕は出にくいんだっけ?』
『だからトラックマン正確に設置せんと』
不思議な話である。
よほど運が良くないと、今日は負けると思っていた山田であるが、なんだか勝ち星が付きそうだ。
しかも上杉と対戦して。
神奈川は確かに打線陣は弱いのだが、上杉は防御率1を切るピッチャーだ。
今年もこれまで四試合で二点しか取られていないし、それもエラーがらみが多かった。
だがこの試合では、既に三点を取られている。
それもその三本が全てソロホームランと、上杉らしくない点の取られ方だ。
上杉はフライボールピッチャーだが、奪三振が多いため、打たれてもスタンドには飛ばずに内野フライで終わることが多い。
しかしこの試合ではロイに二本を打たれたのはともかく、一軍に上がってきたばかりの黒田にも一本打たれた。
だからといって調子が悪いわけではないだろう。150km台後半のストレートを打たれたのだ。
おそらく全精力を、大介との対決に注いでいる。
そのためか普段に比べると球速が遅く、上杉の背中を守る守備陣があたふたしている。
このあたふたが打撃にも影響しているのか、ヒットを打ってもそれが点につながらない。
大介との二打席目の対決は、さすがに全球ストレートなどということはなかった。
だが高速チェンジアップとカットボールでカウントを稼いで、最後にはまた168kmのストレートで三振を奪った。
三打席目はカットボールがツーシームに変わっただけで、あとの組み立ては全て一緒だ。
他を見ても、今日の上杉は偏りすぎている。
ホームランを三本も打たれたのに、他のヒットは内野を抜けていく平凡なゴロだ。
球速自体はそれでも150kmを平気で出してくるのだが、明らかに普段の上杉とは違うピッチングだ。
山田はヒットを五本打たれているが、神奈川の打線がちぐはぐで、ゲッツーを三つも取ってもらっている。
この調子であれば、あとは自分が打線を抑えれば、上杉がいくら大介を抑えても勝敗には関係ない。
ただ、投手の本能として、山田は上杉がそこまでして大介を抑えようとする理由が分かる。
ここで強烈に叩き潰しておかないと、ゴールデンルーキーは金剛寺たちが戦列に復帰すれば、また打点を量産しだすだろう。
自信の源を折るには三振させるのが一番だろうし、そしてそれが出来るピッチャーは上杉しかいない。
実は単に、勝負したいだけというのは、余人には理解しがたいことだろう。
上杉のピッチングの内容は悪くない。普通のピッチャーであれば、七回までで三失点ならば及第点だろう。
だがこの八回の裏、もし神奈川が九回に追いつけないなら最後の攻撃となるライガースは、最後の打者が白石になりそうである。
この試合は負けだ。
だが上杉は白石に勝った。
しかし最後の打席で打たれないという保証はない。
ゴールデンルーキーを三打席連続三球三振というのは、充分なダメージを与えたのではないだろうか。
上杉が今期初黒星をつけてまでやったことは、今後の白石対策としては重要なものだろう。
そこまでやっても、万一最後の打席でホームランなどが出れば、息を吹き返しかねない。
八回の表が終わる。監督の別所は決断を下さないといけない。
だが上杉は全く躊躇なく、ベンチから立ち上がる。
「上杉」
呼び止めてみたものの、何を言うべきか分からない。
「気をつけろ」
そんなありきたりなことを言って、送り出すしかなかった。
八回の裏、ライガースの攻撃は一番の西片からである。
だがこの試合、西片は全く当たっていない。
西片がと言うよりは、大介の前にランナーを溜めないようにされている。
おそらく大介以降のバッターに対しては50%程度。
そして大介の前に出そうなのは、80%で投げている。
その80%を打てないのを、情けないとは思えないのが上杉だ。
このまま3-0でも、今日の山田なら九回の表まで完投してくれると思う。
神奈川の打線は、一イニングで大爆発するというタイプではない。セーフティリードとまでは言わないが、山田の投球内容などを考えても、おそらくは勝てるだろう。
三打席連続の三振という、プロになって初めての体験を味わっている大介であるが、それでもその前にランナーを溜めたくないのか。
おそらく大介と上杉の差は、この三打席の結果から見るよりも、ずっと小さなものだ。
(そういえばランナーがいる状態で対決してないってことは……)
上杉はここまで、ワインドアップでしか大介に投げていない。
どうにか出塁できないか。
自分か石井。どちらも足がある。一塁にいればワインドアップを止めることは出来るかもしれない。
(……いや、関係ないか)
上杉らしくない、本日の投球。
試合の勝利よりも、大介を潰すことを優先した。
開幕から打ちまくっていたバッターが、一試合を完全に封じられて、そのまま一気にスランプというのはよくある話だ。
実際には打撃への対策をされただけなのだが、自分から何かが失われたと思って、復調しない選手もそれなりにいる。
大介はスランプに落ちないか。
西片の想像の範囲では、とても計れない選手ではある。
しかしそれでも高卒ルーキーなのだ。金剛寺が離脱しているここで、大介まで調子を落としては、チームが勝てなくなる。
西片は高級取りだ。大介の目標する金額とまではいかないが、普通のサラリーマンが生涯に稼ぐ程度の金は、既に貯金してある。
そうなると単に成績を上げるだけでなく、チームとしても成果がほしい。
自分のポジションはしばらくは安泰だろう。ならばチームとしての優勝をして、そこで年俸を増やしたい。
だがそう思ったからと言って、急に技術が上がるわけではない。
他よりは少し力の入った上杉のピッチングの前に、内野ゴロに倒れてしまった。
次の打者の石井にも、ランナーを背負った状況の上杉と大介を戦わせたいとは言ったものの、それを成すための方法など考えついていない。
石井が狙うのはフォアボールの出塁であるが、そもそも上杉はコントロールもいいピッチャーなのだ。
結局は高速チェンジアップを振らされて三振である。
試合では勝っている。
そしてこのまま勝ちそうではあるが、雰囲気は良くない。
もちろん山田がこのまま無傷の四勝目を上げるなら、それはそれでいいことだ。
まだ四月中なのにこの時点で四勝というのは、かなりタイトルに近付くであろう。
だがそれは全て、打線陣の援護があってこそだ。
大介なしで、あるいはここで調子を落として、援護が出来るのか。
助っ人外国人が当たりであっても、中軸二枚を落として、得点力がどれだけ下がるのかは想像したくない。
だが何をすればいいか。まさか代打を送るわけにもいかないだろう。
ネクストバッターサークルから立ち上がる大介は、普段どおりに打席に入る。
ここまでの対戦は三打数の三三振。
3-0と試合は負けていて逆転は難しいとなれば、気が抜けてそれで打たれるということも、他のピッチャーならありえるかもしれない。
だが上杉は今日の試合の意味を、ちゃんと弁えた上で中四日で登板してきた。
マウンドから見下ろす大介は、意気消沈などしていない。
空腹の猛獣のような、ものすごい気迫を、殺意を感じる。
それを上杉も受けて立つ。
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