第56話 変わらない優しさ

 私が振り返ると、もうここにはいるはずのない藍斗の姿があった。

 いや、藍斗は私がなにも伝えずどこかへ行ってしまったことに怒って帰宅しているはず。


 これはもしかして私が藍斗を求めすぎたせいで見えた幻覚⁉︎

 だとしたら早く家に帰ってベッドに横にならなきゃ……。


「……幻覚?」


「なわけあるか。本物だよ」


 本物? この藍斗は幻覚ではないのか?


 いや、もしかすると幻覚が自分を本物だと思わせようと嘘をついているのかも……なんてあるわけないか。


 本物の藍斗がなぜまだこんなところに? 家に帰ったんじゃないの?


「なんでまだここにいるのよ。もうとっくに家に帰ってると思ってたのに」


「飯崎が急にいなくなってどこに行ったかも分からない上にな、飯崎の携帯がトイレの前に落ちてて連絡も取れないって状況で帰れって方が難しくないか?」


 藍斗はそういうが、理由も言わずにいなくなってしまった私に怒ってこの場から立ち去るのはおかしなことではない。

 それに藍斗は私のことが嫌いなのだがら、尚更帰っていてもおかしくない状況だと思う。


「だって私、何も言わずに居なくなったのよ? 2人で遊んでる最中に。それも今日は藍斗の誕生日だっていうのに私は連絡もなしに居なくなったのよ? そんな私に藍斗が怒るなんて……当たり前じゃない」


 自分で選んだ行動のはずなのに、後悔なのか藍斗に対する謝意なのか、私の目からは大粒の涙が溢れ出した。


「いや、当たり前じゃないだろ。飯崎がなんの理由もなく居なくなるような奴じゃないってのは知ってるから。それに映画館のスタッフさんに聞いたら俺と同い年くらいの女の子がお婆さんをおんぶして急いで出て行ったって話は聞いたからな。それなら待ってるしかないだろ?」


 なんで……。なんで藍斗は私にそんな優しい言葉をかけるの? 藍斗は私のことが嫌いなんでしょ? 嫌いなら嫌いらしく私の失態に乗じて怒ればいいじゃない。責めればいいじゃない。それなのに……。


 私の目からはさらに大量の涙が溢れだす。


 どこに行ったかもわからない相手をただひたすら待ち続けるなんて、そんなのもう好きな相手にでもないとできることではない。


「お、おい。あんま泣くなよ」


「泣いでなんがないわよ‼︎」


「それで泣いてないは無理がありすぎる」


 今日は私がようやく決意を決めて藍斗のために行動を起こした日。行動を起こしたのは藍斗のためだけでなく、自分のためでもある。

 それなのに、今日という日が台無しになってしまうのではないかと思って心配していたが……。


 やっぱり藍斗は優しい。


 藍斗に好きになってもらう作戦は失敗だろうが、藍斗の優しさを改めて実感できたのは間違いなく私にとってプラスになる。


「アンタさ、私のこと嫌い……?」


 私のこと好き? と訊く人は世の中に大勢いるだろうが、私のこと嫌い? と訊く人は少ないだろう。


 今日は藍斗に好きになってもらおうと思っていたが、逆に嫌われてしまうような行動をとってしまったので、嫌われることはあっても好きになることはないだろう。


 それならせめて、私のことを嫌いになっていないかどうかだけは確認したかった。


「……嫌いじゃねぇよ」


 嫌いじゃない。


 それは人によってあまり喜べた言葉ではないのかもしれないが、私にとって藍斗からの嫌いじゃないという言葉は大きな意味を持っていた。


「……じゃあ好き?」


「調子乗んなバカ」


 藍斗に嫌いじゃないと言われて思わずテンションが上がってしまった私は後々考えると恥ずかしくて顔を両手で覆いたくなるような発言をしてしまっているが、今は気にならないのだからどうでもいい。


「……飯崎はどうなんだよ」


「--え?」


「俺のこと嫌いか?」


 私は藍斗から嫌いかと訊かれて、思わず、これって脈あり? と思ってしまった。


 もしここで私が藍斗に、好きと伝えたらどうなるのだろう。やはり断られてしまうのだろうか。

 しかし、これは今までで最大のチャンスかもしれない……。


「……嫌いじゃないわよ。前から何度か言ってるけどね」


「何度か言われた後も俺のこと嫌いな素振り見せるから。やっぱ嫌いなのかと思って」


「あ、あれはもう私たちのコミュニケーションみたいなところあるから。クセだと思ってくれればいいわ」


「……分かった」


 私が藍斗のことを嫌いじゃないと言ったとき、一瞬藍斗の表情が緩んだような気がしたのは気のせいだろうか。


 一時はどうなることかと思ったが、あれだけ失礼な行動をとっておいて藍斗に嫌われなかったのだから、それで良かったと前向きに考えることにしよう。


 そう思いながら私たちは帰路についた。

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