第9話 雰囲気に流されるのが一番良くないと思う

 隣の部屋からこれまで聞いたこともない様な大きな音が聞こえてくる。


 あいつ、何やってるのかしら。


 玄関で涙を流してしまった私は自分の部屋に帰ってベッドの上を転げ回っていた。

 遂にやってしまった。取り返しがつかないことをしてしまった。


 私は天井家に見捨てられて一人にならないためにこれまで我慢をしながら藍斗の事が嫌いなフリをしてきた。


 藍斗の事を嫌いになる努力をしてきたこれまでの時間は苦痛だったが、1人になる訳にはいかないという使命感でなんとかここまでやってこられた。

 それなのに、その努力を一瞬で水の泡にしてしまったかもしれないのだ。


 流石にまだ私の本当の気持ちには気付かれていないだろうが、なぜ俺の事を嫌いなはずの飯崎が俺に嫌がらせをされて泣いてるんだ? と疑問には思っているはず。


 私は今からどうするべきなのだろか。さっきの涙は目に埃が入っただけだといえば信じてくれるだろうか。

 いや、私は思い切り両目から涙を流していたので目に埃が入ったという理由ではあまりに嘘くさい。


 なんにせよ、先程涙を流していた事を釈明しなければ私に未来はない。



 考えるよりも先に私は藍斗の部屋に行くことにした。


 とはいえ、藍斗の部屋には「家族以外立ち入り禁止」という表札がぶら下げられていた。その表札を無視して藍斗の部屋に入るのはかなり難易度が高い。無理やり藍斗の部屋に入ろうものならどう茶化されるか分かったもんじゃない。

 とりあえず藍斗の部屋の前まで行ってから考えようと思い自分の部屋を出て藍斗の部屋の前に行くと、扉には先程まで掛けられていた表札が掛かっていなかった。


 私が泣いていたのを見て表札を取り外してくれたのだろうか。何も掛かっていない藍斗の部屋の扉を見てふと我に帰った私は一階へと降りていき、玄関を見る。


 すると、先ほどまでシューズクロークの中にしまわれていた藍斗の靴がしっかりといつものポジション、玄関の左隅に置かれていた。

 私の涙を見て焦ったのだろうけど、私の事が嫌いなのであれば普通私に対して行った嫌がらせを取り消そうと態々元に戻すだろうか。


 藍斗は私の今までの行いで私の事が嫌いなはず。それなのに、藍斗の行動に優しさが垣間見えるのは昔から変わっていないなと懐かしさを感じる。

 

 2階に戻った私はもう一度藍斗の部屋の扉の前に立つ。

 今度は不思議と藍斗の部屋の扉を開ける事を躊躇う事はなく、藍斗の部屋の扉を開けた。


「……何やってんのよ」


「いや、別に何も」


 藍斗は床に寝転がっていた。なぜベッドがあるのに床で寝転がっているのだろうか。もしかすると藍斗も私と同じように悩んで転げ回っていたのだろうか。


 そうだったら嬉しいな……。


「あんだけ物音立てながら転げ回ってたら流石に私の部屋にも響くわよ」


「……さっきはすまん。流石にやりすぎたかもしれん」


 かもしれない、という言い回しに藍斗らしさを感じる。藍斗はやっぱり私のことが嫌いだ。でも、優しすぎて謝罪したくなってしまったのだろう。


「謝るのにかもしれないって、謝る気ある?」


「いや、謝りたいって気持ちと謝りたくないって気持ちが交差して出会い頭に衝突した感じになってるわ」


「ふんっ。まあ今までどれだけ喧嘩しても謝罪してこなかったあんたにしては良くできたんじゃない」


「……へ?」


 あれ……? 何言ってるのよ私。


 私が藍斗から嫌われて、さっきの涙が藍斗に嫌がらせをされたからではないと信じ込ませるためには藍斗を突き放すことが必要だ。

 それなのに、なんで私は藍斗を褒めているのだろう。


 私が放った普段は絶対に言う事がない発言に藍斗は目を丸くしている。


 藍斗が驚くのも無理はない。普段通りなら激しい剣幕で藍斗を怒鳴りつけるところなのだから。


「……な、何よ」


「いや、久々に莉愛……いや、飯崎まともに喋ってるなと思って」


「--っ。知らないわよバカ」


 え、今私の事、莉愛って呼んだよね⁉︎ いつぶりの響きだろうか。


 藍斗とまともに会話が成立していたのはママが死ぬ前の話。あれからもう一年以上の期間が経過してしまっている。


 そのせいか、藍斗に名前を呼ばれた私の心は高揚し、やたらと安心感を覚えた。


「……」


「どうした?」


「……」


「てかなんで俺の部屋きたの?」


「……」


 返す言葉が見当たらない。私は何をしにこの部屋に来たのだろうか。


 何か言い訳を考えなくては。


「……そういえばなんかあんたの部屋、変な匂いしない?」


「……え? 変な匂い?」


 藍斗との会話に間ができてしまい、何とか会話をしなければと咄嗟に出た話題が部屋の匂いの話とはなんとも品がないとは思いながらも、藍斗の部屋の中は嗅いだことがない独特な匂いがしていて訊かずにはいられなかった。

 なんだろう、この嫌な匂いなはずなのにもう一度嗅ぎたくなる様な不思議な匂いは。


 私は意外と匂いフェチなので、この匂いが何の匂いなのか、とても気になった。


「あ、あれかな⁉︎ 俺いつも部屋のカーテン閉め切ってるしカビ臭いのかな⁉︎ と、とにかくこんな汚いところは美少女の飯崎には似合わねえから‼︎ さ、もう行こう‼︎ 自分の部屋に戻ろう‼︎」


 慌てた様子の藍斗は急いで私の肩を持ち、くるっと方向転換させて飯崎が部屋から出て行くよう促した。

 藍斗に肩を持たれたことも驚いたけど、なにより藍斗が私の事を美少女だと発言した事に驚きを隠せなかった。


「え、ちょっと急に何⁉︎ そ、それに今あんた美少女って……」


「な、何ってそりゃこんな汚いところにいたらカビ吸い込んで肺がおかしくなるだろ⁉︎ 汚らしい俺がカビ臭くなるのはまだしも超絶美少女の飯崎にそんな臭い部屋にはいさせられないからな‼︎」


 ちょ、超絶美少女⁉︎ この男は何を口走っているの⁉︎ 私の事嫌いなのよね⁉︎ もしかして好きなの⁉︎


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ‼︎」


「は、はい⁉︎」


「わ、私……。べ……に、あん……と、きら……じゃ……ら」


 ちょっと待って、私、何を言おうとしてるの? そんなことを言ってしまったらもう後戻りはできなくなるかもしれないのに。今ならまだ引き返せる。まだ私の言葉を藍斗は正確に聞き取れていないはずだ。


 これ以上言うんじゃない、止まって、止まってよ私の口。

 そんな願いを嘲笑うかの様に、一度動き出した私の口が止まる事はなかった。


「え、なんだって?」


「私別に、あんたのこと、嫌いじゃないから」


「え、それってどういう……」


 そして私は藍斗の部屋を後にし、自分の部屋に入りベットに飛び込んで布団をかぶる。


 言っちゃった。


 言っちゃった言っちゃった言っちゃった‼︎


 言ってはいけないと頭では理解していたのに、私はその場の雰囲気に流されたのだ。非常に強い後悔の念にかられる気持ちとは裏腹に、私は激しい高揚感を覚えていた。

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