——奈良公園
おばあちゃんは完全に包囲されていた。
四方、三百六十度を完全に取り囲まれて、本能寺にいた信長でももう少し身動きできたくらいであろう。おばあちゃんは一歩も動けない。
わたしも、怖くて、少し離れたところから同情して眺めるしかできることがなかった。
でも、日常茶飯事であることは想像ついたから、わたしは通り過ぎることにした。
鹿せんべいは、別なところで買うことにしよう。
・・・
しかし恐ろしいほどの光景であった。確かに、ちまちま観光客にもらうより、おばあちゃんを襲った方が効率的である。鹿も考えたもんだ。けれどおばあちゃんもやっぱりひかない。襲われてたまるかと言った強い視線を鹿に送っていた。静かな覇気は、わたしの肌にも感じられた。鹿は本能的に感じてたろう。安易に動けないほどのものを。
わたしのイメージでは勉強机みたいな簡易的な台をこしらえて、おばあちゃんがのんびり煎餅を売っている感じであったが、その台の周りに柵をたて、さらに後付けで金網を巻いていた。その周りにわちゃわちゃ集まるもんだから、鹿が観光客で、人間が見られる動物園みたくなっていたけれど、悲哀なものである。
・・・
奈良駅についてから、ずいぶん道に迷った。
わたしの方向音痴の典型パターンに、思い込みというものがある。「あっちに歩けばいいんだね」とそっちに歩いて疑わない。だから気づいたときにはトンデモないことになっている。今回もそれだった。
歩けど歩けど田んぼ道。自動販売機。床屋。民家。そういう風景である。
こっちじゃないかも、と思うのに二十分以上かかった。それで折り返して、また駅まで来て、すぐ逆に行けば、二分で奈良公園だと知ったとき、よくも間違えられたものだと我ながら感心した。
・・・
「忙しい忙しい」
ベンチに座って歩きすぎた足を休めていると、平安貴族が走り回っているのが見えたが、彼はついにわたしの前までやってきて、
「忙しい忙しい」
と言い、宮殿はどこだと聞いた。知らないと答えると、
「そんなはずはないだろう。宮殿は、女なら誰でも知っているはずだ。そうやって、私の気を引こうとしても無駄だよ。君のような貧乏女には興味がないよ」
「何を!」
「むう」
彼は遠くを見ていた。そっちには別な女の子がいた。わたしよりいくぶんぽっちゃりとした、パーカーを着た子だった。
「むむ、悪くないじゃないか」
と彼は彼女の方へ走っていった。見ていると彼は女の子に話しかけ、袖から紙とペンを出すと何やら書きつけて渡していた。女の子はまんざらでもなく、恥ずかしそうに丸い顔を赤らめていた。
それから二人は別れた。男はたぶんまた忙しいだのなんだの言ってるのだろう。変なナンパ男である。
・・・
しゃがんで鹿に煎餅をあげる。
来る前はオーストラリアの羊を想起する、のんびりとした鹿世界を思い描いてたけれど、実際きてみると鹿は傲慢で、利己主義で、かわいくない。もらうことが当たり前だと思ってる。そりゃあ、その辺をわかれと言っても無理なものだろう。だから、これはもうしょうがないものなのかもしれない。言葉が通じないかぎり、分かり合えないものかもしれない。
「最近質が落ちてるんだよ」
鹿が言った。
「あ、そうなんですか。あの、草は食べないんですか」
「最近は、ほとんどそうだね。もう草を食べるという習慣がなくなってきてね。喉に気持ち悪いんだよ。でもそれは、言っちゃあなんだが、人間が喜んで煎餅やるからなんだね」
「そうです……ね。確かにそうです。あげたいから煎餅あげて、食べたがったら嫌気がさすというのも勝手かもしれないですね」
「そうなんだ。一度魚をやったからには、やり続ける義務が生じるのさ。ここをこうしたのだから、ペットを飼ったのと同じ。俺たちに人間の区別なんてついてないんだから、餌はもらわないと困るよ」
少しだけ分かり合えたのかもしれない。わたしは残りの煎餅を全部あげた。それで満足して家に帰るのであった。
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