——マドレーヌラジオ


 今日は何を聴こうかしら。


 わたしは学生時代の不眠症の名残りで、寝るときにはラジオを聞くことにしている。もう不眠症ではないので、十分も聴けずに眠ってしまうことも多々であるが、それでも無音で布団にいるとあの頃の恐怖感を隠し味に、少し退屈を感じすぎるのだ。


 わたしが聞くのはバラエティラジオか学問系ラジオ。バラエティラジオはみなさん想像つくでしょう。「オールナイトニッポン」とか、「ジャンク」とかです。もう片方のは何かというと、「ラジオ深夜便」とかラジオドラマ・小説の朗読あるいは偉い人のインタビューとかになります。


 ナウタイムというのに、それほどこだわりのないわたしは、適当に趣味に合ったものを選んで聞く。とても古い音源だったりする。ネットにはなんでもあるのだ。ほんとにその時の気分であって、習慣付けて効いているものは今のところない。


(こんな雰囲気に包まれたいかな)

 と漠然とした思いつき。


 そうやって、思いつく単語で検索して、目に入った番組が、わたしの記憶の鍵であった。


 面白いアーティストさんが喋るラジオだし、その話の内容と思い出になんの関連もないけれど、ふと思い出した映像があるのだ。記憶の鍵、と大仰に、詩的に表現したけれど、大した思い出というわけでもない。普通の、過去の一幕である。




 中学生のわたしは理科室へ来た。

 一人である。というのも、男子たちが勝手に帰ってしまって、班での掃除当番であるのにそれをわたし一人に任せたからである。掃除だけに、義務を放棄したのだ。


 理科室には王子先生(プリンス)がいた。顔が良くて背が高くて長い髪をハーフアップにくくって、そのまま少女漫画に出てくる年上王子様であるという評価から、女子たちの間でそう呼ばれていたのだ。わたしはむしろ「理科の先生」と呼んだ。本人には単に「先生」とそれだけで呼んだ。


 今から掃除の時間なのに、先生は理科室の全ての机にズラーっとプレパラートを並べて、顕微鏡を運んでいるところであった。


「今から掃除なんですけど」

「諦めてくれ。どうせ明日も掃除するだろ。その時にまとめてやればいい」

「明日は土曜なんで、掃除はないです」

「なるほど。じゃあ月曜に」

「理科室の掃除は金曜だけです」

「なるほど」


 太陽光発電地帯みたいになっていた。それらは全て岩石剥片だと教えてくれた。わたしにはどれもほとんど同じに見えた。


 しょうがないから、机を拭いたり、床を掃いたりするのは諦めて、せめて掴めるゴミだけでもないようにしようと床を点検するのであった。そしてわたしは、壁際の棚の下に何か挟まっているのを見つけたが、苦心して抜き取ってみると、それは写真であった。古いセピア色の小さな写真である。男女の学生が写っていて、この学校の制服ではなさそうであった。


「いや、この学校の制服だね」


 顕微鏡から目を離して先生は言った。


「君の着ているその可愛い制服になる前の制服だよ。たしか、国語の森先生がこの学校の出身だったけど、彼女がここの生徒だった時代は、それ着てたんじゃないかな。聞いてみれば。聞きたいでしょ。聞いてあげようか、君、好奇心強そうだからね」


 ペラペラ喋るのでわたしが口籠もっていると、


「ちょうど森先生がいた頃だと思うよ」

「なぜですか」

「その棚が来たのが九十三年、制服が変わったのが九十七年。彼女は九十二年から九十五年在校してるから、もしかしたらね」


 わたしは写真を持って職員室まで行ってみた。そして森先生に写真を渡して見覚えがあるかと聞いてみたが、結果は「ない」であった。


「そうか残念だね」と理科の先生は言った。

「それ楽しいですか」


 熱心に石を薄く切ったものに光を当てて覗いているのを不思議に思い、聞いてみた。先生はわたしに場所を譲った。レンズに目を当てて覗くと、確かに綺麗であった。ゴッホみたいな青色で、ピカソみたいな模様だった。そういうと先生は笑った。


「一つ一つ違うんですか」

「そりゃあね。ほとんど同じだよ。でも、差はある。好きなのがあれば、もちろんそうでないのもある。でもそれが好きということなんだよ。わかるかい?」

「わかりません」


「人は絶対的な判断ができないんだ、相対的にしか物事を捉えられない。だから百個見ると、勝手にその百個の平均を頭の中で作ってしまう、それより上だと感じたのを好き、下が嫌い。どでかい好きが一つあると、それ以外を好きになれない。小さな好きがいくつもあると、嫌いも少なくて、押し並べて普通と言った感覚かな。百個のうちに一つでも好きなものがあると、その分野自体を好きと言っても……」

「いいんですか」


「ああ。試しに河原へ行って石ころを百個選んでみたまえ、その百個の中でも好きなものと、そうでもないものがわかってくる。そのうち、嫌いなものも現れるかもしれない。それが本当だ。嫌いなものができた時、君は本当にその世界の住人になったということだ」


「あるんですか。この中に嫌いなもの」

「たくさんあるよ。だって僕はこの模様に性的興奮を覚えるくらいだからね」

「うげぇ」

「安心したまえ。君に性的興奮は覚えないよ」

「うげぇ」

「女の子ってつまらないだろ」

「そうなんですか……?」


 それからわたしは石に関するいくらかの概論を聞いた。

 帰りがいつもより少し遅くなった。



 なぜそんな昔のことを思い出したのかは、忘れてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る