——思い
「夫のことが心配だわ」
彼女は言った。けれど、彼女の夫という男は、きっと帰ってこない。
いや、もしかしたら帰っているのかも知れない。けれど、生きてるかどうかわからない。少なくとも、その彼と会うことは、おそらく叶わないであろう。
「こうやってね、千人針も作ったのよ。八人、たったの八人っきりしか、わたしには頼めなかったのですけど、でもわたしの懸命の八人の思い」
彼女は赤い粗末な虎の刺繍の入った布を出してわたしに見せた。わたしはそれを受け取る。とても軽くて荒い手触りである。布を折って縫ってあるのだが、何やら、中に何かが入っているようだった。
「中は、小銭ですか」
「ええ、五銭硬貨を入れるの。死線を越えれるようにって。これをね、主人に渡してお守りにしてもらうのだけれど、ついぞ間に合わなくって」
彼女は悲しそうな、少し照れたような顔をして俯いた。きっとそういう会話が彼女と夫との間でもあったのだろう。「間に合わなくてごめんなさい」「君らしいね」みたいな会話が。
わたしは昼食後の散歩に淀城横公園を歩いた。見捨てられた風呂型の公園。取ってつけたように滑り台やブランコ、ジャングルジムだけ置いてある。誰も使わない、忘れられた公園。そこでわたしは彼女と出会った。太陽だけがわたしたちを見ていた。雑草が二倍きらきらと輝いた。
「わたしの夫は……」と目が合うなり彼女はわたしに夫の目撃を尋ねたが、当然、首を振るしかなかった。
「でもきっと、大丈夫ですよ」
わたしはとっさに微笑んで話を聞いた。それから、彼女はわたしに、夫との出会いから振り返って話したのだった。話はようやく今の彼女に戻ってきたところである。
「大丈夫かしら。思いをね、こうやって物にのせて渡したかったの。わたしの心の中にあってもしょうがないですから」
「きっと無事です」
思いは形ではないから。
彼女は幽霊である。とっくに死んだ魂である。この公園にはえる松の木の一本に、爆弾の破片が埋まった幹がある。鉄片が少し出てる。わたしは教えようとも思ったが、ついぞ言いそびれた。
「あなたはこの爆弾に飛ばされて、それ以来生きてないのですよ」
お守りを持たなかった夫は、戦場で生き延びたろうか?
でもふと、生き延びていて、戦争の終わった折に、帰ってきているような気がした。まだ生きてるにせよ、もう亡くなったにせよ。
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