鉄文子の彷徨記

戸 琴子

——睡眠る子


 昔に溜まったお金と微々たる収入で生きてゆく。けれど、さほどの苦労はしない。この世とは、求めなければ、案外苦しまないようにできている。わたしにはこの程度が十分な満足なのだ。


 朝八時、駅の階段を降りていつもなら部屋へ帰って寝るなり何なりするところを、少しの元気が余っていたので、「緑の広場」へ行ってみることにした。

 「緑の広場」は草原である。ずっと行った向こうに砂漠もある。


 わたしは開きっぱなしの錆びた青い鉄の門を通り、馬を借りて乗った。

 あまり大きくない青黒い馬。


 コーラのような甘くて苦い柑橘系の味がする朝日である。疲れがあるからかしら。朝日というほどもう低くもないけれど、たぶんそんな味。遠くに霞んだ山脈の存在に気づいたとき、その味は少し薄まった。

 わたしは馬をゆっくり歩かせた。急ぐ理由も、別段遠くへ行くつもりもないから。



 伏見駅近くのネットカフェに夜中のシフトで入ったけれど、昨夜は、エアスポット的に人の来ない日で、さっぱりやることがなく、掃除だけ済ませてしまうと椅子に座って待っていたがその間に眠ってしまっていた。


 人が来るとジィーとベルが短くなって、足首がつかる程度のあさい眠りから覚める。一度だけ、そうやって目覚めた。それ以外は夢も見ず、瞳の前に灰色の緞帳が下がったり浮いたりしていたのだ。


 こういった人の来ない日とか、逆にとても混む日、というのはサイコロ三つの数字がたまたま重なるような偶然によってできるのだろうか。それとも何か、生命の奥にひそむ天気との関連とか月との関係とかで計算して出せるものなのだろうか。


 わたしはいま思いつきで馬に乗っている。同じようなのが数人重なれば、あの馬貸しにとっては不思議に混む日なのだろう。昨夜は計算上ネットカフェには人の集まらない星の並びで、そういう時は夜勤バイトの人は寝てしまうので次の朝の草原は混む。風が吹けば桶屋が儲かる式の、だんだらな社会模様である。


 でもわたし以外に馬に乗ってる人はいなかった。


 一度わたしは途中商店街により、フライドチキンを食べてゆっくり休憩したあとシャワーを浴びた。それからまた出発した。



 夕方もふかくなって。

 ずいぶんゆくとゲルが立っていた。わたしはそのそばで降りてここらに夜を過ごせるところはあるかと聞いてみた。


「おすすめは、一番近いので、『オアシス』というバーになる。最近できたんさ。砂漠の淵まで行かにゃならんが。……それとも、君がきた方角に戻るかだね」

「なるほど。ありがとうございました」


 彼はゲル愛好家である。どんな職業をしてるかわからないがそのお金でゲル生活を続ける。そういった人をこの草原ではいくらか見つけることができる。この草原に真正の遊牧民はいない。ここらへん、町へすぐ帰れる距離にいるということはゲルを立てたばかりか、仕事へ戻る前なのか。


 ともかく、わたしは戻るにはもったいないほど(無計画に)きてしまったので、せっかくならその砂漠の淵にある『オアシス』というバーにいってみることにした。



 草原がとぎれ、砂漠にはいるところへやってきた。ここが砂漠の淵。

 砂漠町につく頃、空は馬と似たような青黒になって、真綿をひっぱったような雲が斜めに流れていた。その暗さは、草の下、柱の影にまで降りていた。


 砂漠町は住人のいない商業休憩所で、狭い円周内に暖をとるみたいにみっしり建物が集まっている。『オアシス』はシアターの下をくぐり抜けた先にひっそりとあった。


 わたしはカウンターの一番壁際に座って、安いカクテルだけを飲んだ。他に誰もいなかった。クールジャズが悲しく鳴っている。マスターは一人で酒を飲んで音を消したテレビを見ていた。わたしからは、棚にもたれて曲がった背中だけが見えた。


 飲酒乗馬は悪くないが、そんな状態で暗い草原をちゃんと帰る自信もないので、石の塔に一部屋借りた。部屋には白い石塊が転がってる。壁から突出した珊瑚のツノみたいなのに上着をかけて、薄着だけになり、スプリングの効いたベッドに寝転ぶと、そのまま眠ってしまった。



 朝になると砂に露が降りて朝日に輝いた。

 窓の外は半分白くて、半分緑色。


 一段一段バラバラな歩きづらい螺旋階段を降りると、馬小屋へむかい昨日の馬に乗った。わたしはそのまま草原をつっきった。昼過ぎには町へ帰れた。そのまま自分の部屋に帰った。


 緑の広場から少し歩いたところにある安アパートがわたしの部屋。

 慣れたわたしの部屋で、サラダだけ食べると、また眠った。また夜から仕事がある以外、今日は何もない。

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