3.夕日と夕空


 僕が初めてガクと出会ったのは、七歳の秋。曇りだから庭の散歩に出ていたら、風に飛ばされた帽子を取ろうとして、壁を乗り越えている所に出くわした。

 見つかって驚いた拍子に転げ落ちたのに、「ごめんごめん」と笑っていたんだから、なんて頑丈なやつだと呆れたのをよく覚えている。

 聞いてもいないのに、「この帽子、オレの宝もん! 母ちゃんが買ってくれたんだぜ! いーだろ!」なんて自慢して、うるさいったらありゃしない。


 僕が電動車椅子を使っているのを見て「足、痛いのか?」と心配したり、かと思えば「オレも乗りてー!」とバカなことを言い出したり。

 でも、サングラスを「うわっ! かっけー!」と言われたのは気分がいい。


「オレ、糸見楽! また明日な!」

「やだよ、おまえくさいし」

「えっ」


 実際、その時のガクは洗ってない犬みたいな臭いがした。ガクは不思議そうな顔で、しばらく自分の腕やシャツの胸をふんふんとかいで「わかった」と言う。


「明日はちゃんと風呂入ってくるからな!」

「今日は入ってなかったの!? うわっ! 汚い!」

「くさくなかったら、遊びにきていいだろ?」


 その時、「ダメだ」と答えたら、僕らの運命はどう変わっていただろう。僕は初めてしゃべった同世代の男の子に、今までに無い楽しさを覚えていた。

 家の中にずっと閉じこもって、ベッドの上でゴロゴロして。車椅子に乗るのは食事や勉強の時だけ。大嫌いな太陽が差さない曇りの日だって、散歩に出ないで閉じこもっていることが多い。その日外に出たのは、本当にたまたまだった。


 僕はきっと、退屈していたんだろう。ふってわいたガクの存在を、これっきりにしてしまうのはあまりにも惜しかった。だから。


「……いいよ」

「じゃ、また明日」

「うん。また」


 そうして門から帰って行くガクを見送りながら、嵐みたいなやつとは、こういうのを言うんだろうと知った。

 次の日やってきたガクは、ちゃんと清潔な格好をして、おかしな臭いもしなくて、やっぱりとても騒がしかった。来るなと言えば良かったかなと僕は少し後悔したけれど、そんなのは最初だけで、すぐおしゃべりに夢中になってしまう。


 ガクの話は要領を得なくてよく分からないものも多かったけれど、僕が見たことない外のことをたくさん知っていた。学校の様子や、夏祭り。パン屋から漂ってくる美味しい匂い。オモチャ屋のショーウィンドウに並ぶロボット。

 夕焼け空の話も、そんな流れで出た。


「なあ、夕日。オマエの名前って、やっぱり夕日のお父さんとお母さんが、夕焼けがキレイだな~、目と同じ色だな~ってつけたのか?」

「知らないよ、そんなの」


 吸血鬼は太陽が苦手だ。焼け死ぬようなことはないが、日の光のもとでは腕力も下がるし、日光で火傷するやつもいる。僕は虚弱体質だが、日差しが気持ち悪いぐらいで、吸血鬼としては平均より少し下程度の日光耐性だった。

 そういうわけで、「朝」とか「日」は吸血鬼の名前では歓迎されない。例外として「夕日」は夜を前にした名前だからよしとされていた。


「だいたい、僕は夕焼け空なんてちゃんと見たこともないし」

「え? そーなのか!?」


 ガクは目をまんまるに見開いて、思わず笑ってしまいそうなぐらいビックリ顔になる。こいつは表情がよく変わるから見てて面白いんだと、その時気がついた。


「夕方は疲れて寝てることが多いんだ。気がつくと夜になってる」

「なんだよー、夕焼けってキレイだぜ。もったいないなあ」


 残念そうにうなるガクの姿に笑いをこらえながら、僕は満月を思い浮かべていた。父さんの名前には月が入っている。


「月なら見たことあるけど、あっちの方がキレイだよ。きっと」

「まあ、お月さまはオレも好きだけど。なんか甘そうで」

「なんで食べることばっかり考えてるんだ、ばか」

「へへへ」


 バカ呼ばわりされてなんで笑っているのか。つまりこいつはバカなんだなと見当をつけながら、僕は不思議とそれが嫌いじゃない。

 自分の反応に僕自身おどろいていると、ガクはやおら勢いよく立ち上がった。


「よし! サイッコーにキレイな夕焼け、見にいこーぜ!」

「えっ」


 ガクは自分の思いつきに興奮した様子で、一気にまくし立てた。


「河川敷の土手から見る夕日、すっげーキレイなんだ。真っ赤な太陽がキラキラ光る川に沈んでくんだよ。あれはぜったい一回見た方がいいって!」


 だから今から見に行こう、と。僕はその勢いに推されるまま、初めての外出を決意してしまった。日よけの真っ黒なコートとフードを身につけて、車椅子に乗って。

 ガクが言う川は、家から十五分も離れていなかった。それでも、当時の僕には大冒険だ。しかも途中で落ちていた釘を踏んで、車椅子がパンクしてしまった。


「どうしよう」


 両親は虚弱な僕に甘かったので、しかられる心配はしていない。ただ、立つのもやっとの体で、どうやって川まで行けばいいのか分からなかった。

 次に分からないのは、僕の目の前で腰を下ろして、背中を向けるガクだ。


「ほら、おんぶ! オレが連れてってやるよ」

「おまえ……」


 戸惑いながらガクの背中に抱きつくと、想像以上に力強い動きで体が持ち上げられる。ガクはしっかりと僕の尻を支えると、「ちょーとっきゅー! きーん!」なんて言って元気いっぱい走り出した。

 それも、すぐに息切れしてしまうのだが。


「無茶するからだ、ばか」

「な、なん、のぉ、これしき、ぃ……ごめんちょっとタイム……」

「ばか。本当にばかじゃないか」


 バテたガクは休憩を挟みながら、それでもいっしょうけんめいに僕を背負って川を目指した。汗ばんだ背中から、湿った匂いと熱い体温が立ち上がってくる。

 それを感じた時、たまらない気持ちが湧いてきた。


(どうしてこの子は、こんなに優しいんだろう)


 昨日今日知り合ったばかりの僕に、夕焼け空がキレイだからって。それを見せるためだけに、どうしてこんなに汗を流せるんだろう。

 本当は夕焼けを見るのなんて、初めてじゃなかった。家の窓からなんとなく、ぼんやりと赤い空をながめていただけで、ガクが言う〝サイッコーにキレイな夕焼け〟なんて思ったことも、見たかったこともない。


「ほら! ついた!」


 土手のてっぺんで、僕らはギリギリ日が暮れる所に間に合った。

 世界が赤や橙や金色に染まりながら、長く長く影が引き延ばされて、光と闇の二つに何もかもが塗り分けられていく。その中心の、うるんだように燃える、夕日。

 サングラス越しでも、あまりにまばゆい。

 川面は白い蝶の群れが踊るようにきらめいて、川原のススキは白いたいまつがゆれているみたいだ。家の窓に切り取られた狭さには決して存在しない、頭の上にも体の右にも左にも、背中にも、この光と風が無限に広がっている感覚。


「これが本物の夕日だぜ!」


 誇らしげに言うガクの声に、僕は初めて自分の名前の意味を知った。

 この名前が好きになった。

 それは、これまでどうでも良いお荷物みたいだった自分自身を、僕が初めて好きになった瞬間でもある。今までそんな気持ちになったことは、一度もなかった。


「キレイだね、夕日」

「そーだろ? 来てよかったな!」


 燃え落ちる日の中でガクが笑うのを見ていた時、僕は確信する。気持ちの悪い青空も、うっとうしい雨の日も、こいつが一緒ならきっと楽しいに違いない。

 僕自身のことだって、もっとずっと好きになれる。そのぐらい、僕は糸見楽に夢中になってしまった。



……そうして。

 一ヶ月ほど経ったころ、ガクは大ケガをして父さんの病院に運び込まれた。


 ホウキの柄が折れるまで殴られた上に、ビール瓶で頭を割られてて。病院に連れてきたのはガクの父親で、カッとなって殴ったと言っていた。

 でも、このままだとこいつは絶対にガクを殺す。それも近い内に、だ。


「父さん、一生のお願い」


 だから僕は、このワガママだけは何が何でも通してもらうつもりで頼んだ。


「あの子を、僕の眷属にちょうだい」


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