第9話
エステラは待った。じっくり十日ほど。
ウェルツィアの街から王都まで、普通に向かえば二週間以上かかる。だがレオンハルトが移動をやめたのは九日程経ってからだった。何をどうしたのか分からないが、驚くべきスピードでウェルツィアから離れていった。正直に言えばちょっと口元が引きつった。
どうして分かるのかと言えば、例の弄り倒した探知魔法で感知したからである。レオンハルトには黙っていたが、アレはお互いの居場所が分かる。エステラとしては絶対に逃げるつもりでいるのだから、当然の処置だろう。
レオンハルトが居なくなってから、どうしてあんなにあっさりとエステラから離れたのか何度も考えた。ひたすら森を行く逃亡劇は逃げる方も大変だったが、追う方も相当に大変だっただろう。それを飽きずにひと月近く繰り広げ、最終的に勝ったというのに。
しばらく囲い込んだ事で満足したようにも見えなかった。恥ずかしさを覚えるのもバカらしくなるほど四六時中、静かに淡々と、用事がない限りエステラの傍に居続けた。逃げる準備は続けたし同情もあったが、エステラだって少しずつ距離が詰まっていくのを感じていたのに。
魔力を封じて鎖で繋いで、安心したとは思えない。あれだけ他人とエステラを関わらせたがらなかったのに、いくら世話係が必要とはいえ騎士を置いていくのも気になる。
だがいくら考えても分からないものは分からない。状況が整ったと思えたエステラは、いまだにぐるぐると考えていた思考を断ち切った。
「よし、やるか」
気合を入れる為に、あえて口に出す。ついでにぱちんと両頬を叩いて、魔力の代りに竜人の力を引っ張り出した。妖精を追い払う時とは比べ物にならないくらい大きく。瞬間的に竜人の膂力を手に入れるとすぐさま魔封じの首輪を引きちぎった。
無理に抑え込まれていた魔力が滞りなく流れだすと、物凄くさっぱりとした気分になる。気持ちがいい。気持ちがいい?
「……あれ?」
なんだか似たような話をどこかで聞いた気がする。どこでだっけ、と記憶を掘り返して気付く。レオンハルトの魔力揺れだ。
話半分で受け止めていたが、もしかしたらこの感覚に似たものを感じたのかもしれない。それなら確かに、快感を覚えるだろう。惚れたの腫れたのと話していたから、なんとなく肉欲を伴うものと考えてしまっていた。なんかごめん、とエステラは脳内で一応謝っておく。
それからさくさくと魔法で身体強化を施すと、足の鎖も引きちぎる。足輪の方はぴったりフィットしていて、どうにも上手く力が込められなかったのでとりあえず諦め悠々と脱出の準備を済ませた。
そうして万が一を解消するために、廊下に潜む。
「や、こんにちは」
食事を持ってきた騎士の前にするりと姿を現わせば、物凄く驚いた顔をして固まってしまった。奇襲に弱いなら騎士としては二流じゃないか、と思いながらエステラは距離を詰めていく。さすがに後ずさりはされなかった。
「初めまして」
「貴様……くそ」
「うわ、本人を前にそういう感じになっちゃうほどか」
盗み聞きの内容から、それはそれは憎まれているだろうとは思っていた。思ってはいたが、多少なり外面を取り繕うことくらいはするかと考えたが甘かったらしい。目があった瞬間から親の仇かというほどに睨まれ、吐き捨てるような返事が返ってくる。心の準備をしたとエステラは思っていたが、目の当たりにすると引いてしまう。
「レオンハルト様に私と会うなと言われているはずだ」
「言われてっていうか、これ見てこれ。割と物理的な問題だったんだよね」
未だに短い鎖を付けて嵌っている足輪をプラプラと揺らして見せる。何故か鼻で笑われた。
「つまり罪人か。あの方も本当に慈悲深い」
「あ、完全に私とも話出来ないわけね」
レオンハルトさえ絡まなければ、普通の人なのかもしれない。だがエステラの立場を考えると、彼の中でレオンハルト抜きに考える事は出来ないだろう。
色々と思うところはあるが、エステラを逃がした事でレオンハルトに絡まれるのも可哀そうである。エステラが彼に接触したのは適当に言い訳できるようにするためだ。具体的に言うとちょっとばかりボコボコになってもらって、勝てませんでしたごめんなさいと言ってもらうつもりだ。
「よし、それじゃ話をする事もないね。逃げさせていただきます」
「許すと思うか」
「許してほしいなんて思ってないから」
◆
金の事など考えず馬を調達できる所で躊躇わずに入れ替え、レオンハルトはとにかく先を急いでいた。途中で一緒に戻っていた騎士のコーレインがついてこれなくなったが、気にせず無視する。
自分からエステラと離れたというのに、どうしても落ち着かない。不自由はないだろうか、何か傷ついてはいないだろうか。残してきたメイエルと接触していないだろうか。そんな事が浮かんでは消える。柄にもなく怯えていたのだが、本当に怖かったのか分からなくなっていた。
そう、レオンハルトは怖かったのだ。最初はただエステラを好いて、守りたくて、その意識の片隅において欲しかった。初めて真っすぐ視線を合わせた時のように、誰に歪まされる事もなく。
だというのに思った以上に近付きすぎてしまった。
エステラと重ねた穏やかな会話は、理解できない事や同意できない事もあったが心地よかった。蛇に噛まれて倒れてもなお外に出たがるところは変わらなかったが、それ以外の話題では概ね柔らかに言葉を重ねていた。そうして言葉を重ねれば、それに比例するようにエステラの事を知っていく。
どうしてもその状況が欲しくて、外に出たがる彼女を繋いででもそうしたはずなのに。自分がエステラを知るのと同時に、自分を知られて彼女の雰囲気が変わっていくと気付いた時に背筋が冷えた。
誰も彼もがレオンハルトの話を聞いているようで聞かないから、そんな事が起きるなんて完全に想定外で。エステラが優しいのも良くなかった。レオンハルトの些細な主張を受け入れたり、怒ったり、諭したり、笑顔を返したり。今は随分と柔らかな反応になりつつある。それがレオンハルトを更に知られる事で、決定的に損なわれる可能性に恐怖した。
物理的に繋ぎとめて嫌われる事は良い。不甲斐なさをを笑われても良い。彼女に相応しくあれるよう重ねる努力を嘲られても良い。この身の醜悪さに怯えられてもいい。
だがレオンハルトを知った上で万が一にも愛されたら、と思うと倒れていたエステラを見た時と同じくらい動揺した。
愛だの恋だのという感情がどれだけ身勝手で下劣なものかは良く知っている。それを自分から向けられる気持ちの悪さを許容してくれた彼女がそんなものに侵されたら。
それが怖くて、レオンハルトは生まれて初めて逃げ出した。エステラの提言に乗る形で。少しの間、距離を取って揺らがない自分を取り戻したかった。鎖で繋いで魔力を封じたところで、どこかに行ってしまうかもしれないと感じていたのに。もしかしたらなんて根拠のない思いに縋ったのだ。
それでもどういうわけか、王都に近づくに従って恐怖は薄れていく。それからどうして離れてしまったのかと考えていた。くだらないものに負けた自分を恥じる気持ちが、恐怖を押しつぶしていく。
だから王都についた翌日、変わらずエステラの位置を教えていた魔法が移動を始めてやがて切れても、自業自得だとレオンハルトは静かに受け止めた。騎士団引き止めの為に王や王女、要職連中が目の前にいたが、全く気付かれることがないほど静かに。
「たかだか一人取り逃がして、負傷者を抱え込んだ位で辞める事はないんですよ」
「そうだ。お前の打ち立てた功績は、多少の事では揺らがんぞ」
レオンハルトは事実をありのままに報告したつもりだった。エステラを最初に連れ帰った時の誤解以外は。だというのに、何故か責任を取るために辞めたいと言っている事にされている。
結構な時間を費やした気がするが、どうあっても受け入れない流れに言葉を尽くす意味も見いだせない。エステラの言っていたけじめというのはどうつければいいのかと考えながら、なんとなく視線を巡らせる。熱心に見つめる、あるいは憎悪を上手く隠した顔が並ぶ中、遠征中の団長の代りに出席している第四騎士団の参謀だけが妙な雰囲気を纏っていた。
―――動揺、だろうか。レオンハルトと第四騎士団は殆ど接点がないというのに、おかしな事もあったものだ。
そんな事を考えながらぼんやりと眺めていれば、不意に視線が絡んだ。特にアイコンタクトをしたつもりはなかったが、どういう訳か何か納得したように微かに首を引かれる。
「失礼ながら、発言の許可を」
会の始まりから、一切の発言をせずに立ち位置すら表明しなかった男に視線が集まる。
「どうしたシルヴァン」
「レオンハルト殿に騎士団へ残っていただくにしても、今すぐ良案を出せるほどに各々話が詰まっておりません」
残る気などさらさらない。だがレオンハルトは戦後、自分の配置についていくつか案がある事は知っていた。治安維持程度に使うな、王族側近の栄誉を、いや近衛にして外に出さないなど勿体ない等々。
今までは自分の配置などどうでも良いと思っていたが、今はとにかく辞めてしまいたかった。結局この参謀、シルヴァンも他と大して変わらないな。そう思うと深く息をついてしまう。
「ですので本日は一旦解散し、一度今後の配置について案を詰め、それをレオンハルト殿に提案する形にしてはいかがでしょう。レオンハルト殿も具体的な話があった方が今後の想像もつきやすいかと」
シルヴァンの提案はレオンハルトからすれば面倒なだけのやり取りを経て、結局王の一声で受け入れられる事になった。
もうけじめ云々など諦めてエステラを探しに行こうかと考えながら、王城の廊下を歩く。彼女なら今日のやり取りを話せばきっとわかってくれるのではないか。
「レオンハルト……!」
熱のこもった声が響く。いつもより強い不快感がレオンハルトを襲う。
「……王女殿下、何か」
「照れないでくださいな。良いのですよ、エヴァンジェリーナで」
言いながらエヴァンジェリーナは、ほんの少し手を伸ばせば触れられる程近くに寄ってくる。いくつかの花が混ざった香水の香りが、まるでエヴァンジェリーナの心のように纏わりつく。気持ちが悪い。
向かい合う動きに合わせて、レオンハルトは一歩体を引いた。何があっても触れたくない。
「俺には過分なお言葉です」
「まぁ。わたくしはエヴァと呼んで欲しいと、そう思っていますのに」
「俺の身には余ります」
言葉だけを変えて、同じ内容で返事をする。どうせ聞き流されるのだ。
「相変わらず真面目で清廉ですのね。少し寂しく、いえ、わたくし頑張ってお兄様達の仲を取り持ちますわ」
「左様ですか」
「ええ、貴方が耐えてくださっているのだもの」
エヴァンジェリーナの中では、レオンハルトが第一王子と第二王子の継承権争いに慮って遠慮している事になっている。いや、美貌の英雄と可憐な王女の恋物語に憧れる人間は大体そう思い込んでいる。
残念なことに現実ではエステラに会う前からずっと、エヴァンジェリーナの事は気味の悪い肉の中でも相当に腐っていると思っている。ぶっちぎりで最下位を走っている実の姉より少し上程度。幸か不幸か、エヴァンジェリーナにそれが伝わったことはないが。
「それで、その。レオンハルト」
「何か」
「刀礼の儀はいつ頃……?」
熱っぽく潤んだ視線で見上げてくるエヴァンジェリーナに対して、レオンハルトはどんどんと冷えていく。このお姫様は絶対に剣を捧げてもらえると思い込んでいる。
エヴァンジェリーナにレオンハルトが剣を捧げれば、継承権争いが面倒な事になるのはいつも見えていないらしい。軍を抑える第二王子に配慮せず、レオンハルトをただの軍人から騎士に取り立てた事で、余計な面倒を起こしている事も見えていないのだが。
「そもそも辞めますので」
「ああ、レオンハルト……レオン、わたくしが追い詰めてしまったのね」
愛おしさがあふれたように、エヴァンジェリーナの口から愛称らしきものが吐き出されるのが気色悪い。気のせいか香水の香りが濃くなった気がする。
感極まったようにしなだれかかってこようとするのを、レオンハルトは横にスライドして避ける。あからさまに避けられたエヴァンジェリーナが、見るからに傷つきましたという顔をレオンハルトへ向けようとして―――にこやかに一歩下がる。
「あら、シルヴァン。どうなさったの」
あえて足音を立てて近付いてきた事で、闖入者に気付いたのだろう。全て見られている事を知っていたレオンハルトにすれば、全く意味のない取り繕い。それでも今来ましたという体を崩さず、シルヴァンも礼を取った。
「王女殿下におかれましてはご機嫌麗しく。申し訳ございません、レオンハルト殿に少々伺いたい話がございまして」
そう言われたエヴァンジェリーナは、名残惜しそうにレオンハルトを一度見つめてから綺麗な笑みを貼り付ける。
「そうでしたの。ではわたくしは失礼いたしますわ。……レオンハルト、また」
レオンハルトとシルヴァンの目礼を残して、エヴァンジェリーナはするりと去っていく。その後ろ姿が見えなくなるまで待って、シルヴァンがすぐ目の前まで近寄ってきた。興味深そうにエヴァンジェリーナの去った先を見つめながら。
「噂は聞いてたけど、凄いな」
第四騎士団のシルヴァンと、第三騎士団のレオンハルトはほとんど交流がない。にもかかわらず、距離の近い物言いに思わず視線を向けてしまう。
エステラ以外初めて見る反応がそこにはあった。
「百年の恋も冷めるような反応されて、あそこまで思い込んでるなんてなぁ。お前も苦労するな」
「別に」
何の色もないレオンハルトの反応に、きょとんと目を向けてくるのはやっぱり知らない反応だ。不思議な事もあるものだ、と思いつつもエステラに感じるような揺れはない。
それにどこか安堵のようなものを感じながら、亜人種というのは人と違う者が多いのだろうかとレオンハルトは考えを巡らせる。エルフ耳とも言われる、シルヴァンの特徴的な耳を眺めながら。
「モテる男の余裕、じゃなさそうだな。うーん、根が深い」
顎に手をやり納得するように一人頷くシルヴァン。
「それより話とは」
「ああ、それな。とりあえず場所を変えよう」
どうしようか、と考える必要はなかった。一歩踏み出しながらシルヴァンが口を開く。なんでもなさそうに言われたそれを、レオンハルトは無視できなかった。
「お前が会った凄腕魔法使いについての話だ」
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