第7話


 誰かが言い募る声が響く。まだまだ全快には程遠いのだから気を使って静かにしてくれよ、と思ったところでエステラはハッと覚醒する。一度目が覚めてレオンハルトと会話した所まではしっかり覚えている。だが今聞こえているのは諍いの声だ。片方はレオンハルトだったとしても、もう一人以上誰かがいる。

 どういうことだ、としばし考えて医者かもしれないと思い当たった。あれだけこき下ろしていたのだ、レオンハルトが何かやらかしているのかもしれない。そう思いつくといてもたってもいられなかった。医者に悪いし、レオンハルトの精神衛生上も良くない。エステラが向かったところで何ができるか分からないが、とにかく仲裁をとベッドから抜け出そうと体を起こす。

 上掛けの中から、何故か金属の擦れるくぐもった音が聞こえた。


「いや、いやいや。まさか。そんな」


 エステラの背中を嫌な予感が駆け上る。不安を振り切るように、独り言を呟きながら上掛けをそろりそろりと持ち上げて―――そっと下ろした。何も見ていない。右足首に罪人がつけるような足輪が付けられていた事など、見ていない。鎖の繋がったそれが、足を痛めないように柔らかそうな革で内張りがされていた事など気付いていない。そう思い込む。


「いや、無理でしょ。この斜めすぎる気遣いは絶対レオンハルトだし」


 内心の葛藤に、声に出して自分で突っ込めばため息が出た。もういいやとばかりにぺろりと上掛けを捲る。やっぱり自分の右足は鎖で繋がれていた。それもこの立派な天蓋付きベッドに。本気を出して拘束するつもりなんだな、と遠い目をしながら足輪をさする。とはいえ、多分問題はない。体調と魔力さえ回復すれば身体強化を駆使して力技で外して逃げ出せる筈だ。

 それでもやたらと重たい足輪に陰鬱な気分になるのを、エステラは止められなかった。わかっているのだ。重いのは足輪の重量ではなくて、どうしようもなく平行線をたどらざるを得ない考え方の違いだ。それを象徴するこの足輪が酷く重たい。これさえなければレオンハルトとは良い関係を築けると思うのだ。好きだのなんだのはさておき、気の置けない友人にはなれる相性の良さを感じていた。だからこそ、この足輪がとても重い。

 未だに響き渡っている諍いの声を聞きながら、なんとなく足輪を撫でていると唐突に扉の開く音が響く。追いかけてくるレオンハルト様、という声に誰がと思うまでもなく入ってきた人物が分かる。そろりと天蓋ベッドのカーテンを開けば言い募る相手を完全に無視して扉を閉じるレオンハルトと目が合う。


「ああ、すまない。君の耳を汚したか?」


 気を使ったのか柔らかく静かに落とされた声に、声をあげるのがはばかられる。黙って首を振るエステラにレオンハルトも静かに頷いた。体の影に隠れていた盆が見えた。朝食か昼食か、はたまた夕食か分からないが食事を持ってきてくれたらしい。


「そんなにうるさくなかったけど、その、良いの?」

「良いとは?」

「いやだって、話が終わったようには思えなくて」


 最初に連れてこられたのと同じように、手慣れた様子で食事の準備をしてくれるレオンハルトに疑問を呈す。淡いスープの香りが漂う。


「大したことじゃない。騎士団をやめるなとしつこいだけだ」

「いや、それ全然大丈夫じゃなくない?」


 やっぱり、とエステラは頭を抱える。騎士団だって国だって簡単に英雄と呼ばれる人間を手放す筈がないのだ。

 スープに手を伸ばしている場合じゃない。とりあえず落ち着いて話す為に妖精を追い払うだけにとどめた。


「そもそも俺は軍人で、騎士じゃない。どうしてもと請われたから戦争中に騎士になったが、剣を捧げてもいない」

「剣を捧げてない?」

「そうだ。有り体に言えば騎士の誓いはたてず、主を定めていない」


 なんという事だろう。英雄様は野良騎士だったらしい。あまりに呆けた顔でレオンハルトの事を見ていたのだろう。訝し気な視線にエステラは苦笑を返した。どうして、と聞いていいのか分からない。


「そもそも、いつでも辞めていいと言う話だったんだ」


 エステラが躊躇っている間に、レオンハルトは言葉を続ける。聞くまでもなく教えてくれるらしい。


「騎士の方が誓いという形で指標が多かったから、騎士になった。軍で守るべきは規律だけだったから、そういう行動を縛るものは多い程やりやすいと思って」


 話しながらレオンハルトは、エステラが手を伸ばすのを躊躇っていたスープに手を伸ばす。そのままスプーンで掬い上げると器用に零すことなくエステラの口元に添えた。突然のあーんに戸惑う。恥ずかしい。大体こんな事しながら聞いていい話だろうか、とエステラが視線を彷徨わせるとスプーンで口がノックされる。真面目な顔のレオンハルトに、これは口を開けないと話も進まなければこの状況も改善されない事を悟る。有無を言わせない動作だった。

 おずおずと口を開けば丁寧な動作でスープが流し込まれる。同時にレオンハルトも口を開く。おいしいなぁ、と思考を飛ばさなければエステラは真面目に話を聞けそうもなかった。


「それでも醜悪な肉の塊が、気味の悪い肉の塊に命を懸けて忠誠を誓う意義が見いだせなかったから誓いはしていない。それでいいとも言われた」


 す、とレオンハルトの眉が下がる。


「にもかかわらず、いざ辞めると言えばこうなるとは」


 エステラには何も言えなかった。どちらの気持ちも分かる気がしたのだ。

 こんなにも美しい男だ。ただそれだけで手元に置いておきたい人間は多いだろう。それに英雄と呼ばれるほどの武が付いたら、どうしたって手放したくないと我が儘になる気持ちは分からなくもない。政治の事はよくわからないが、いなくなると外交的にあまり良くない気もする。

 だがきっと、レオンハルトはそうやってずっと蔑ろにされてきたのだ。人間の事を気持ちの悪い何かだと思ってしまうほどに。妖精によって植えられた魔眼も、むやみに人を魅了してレオンハルトの邪魔ばかりしただろうし。それでも人の中で生きていこうとあがいていると思えば苦しくなる。エステラには絶対にできない。

 どうしようもなく言葉が出てこなくて、ぐ、と息を飲み込む。


「そうだな、スタルトスを出て関係ない国で家を買おう」

「ぅいえぇ??」


 話題のぶっ飛び方に思わずエステラの声が裏返る。


「待って待って騎士団どうするの」

「すでに任務途中で辞めると伝える不義理を通している。もう一つ二つ重ねても変わらないだろう」

「えぇ……えぇぇ……」

「それにエステラ以外はどうでも良いからな」


 とどめの一言に、エステラは唸り声をあげて頭を抱える。規則主義の権化に見えた男がなんという事だろう。

 自分を理由に、今まで積み上げてきたものを捨て去ると言うのも引っ掛かる。だってエステラは監禁されるつもりはないのだから。叶えるつもりがないならエステラに肯定はできない。


「家云々は私が無理ぃ」

「エステラ」

「でもレオンハルトの話だけだと、私だって知るもんかって逃げるだろうし辞めるなとも言えない……!」


 悶々と頭を抱えるエステラにストップを掛けたのはノックの音。控えめなそれに弾かれ顔をあげると、レオンハルトが深く息をついていた。そのままレオンハルトは腰を浮かす。


「すまない。少し話をしてくる」

「あ、うん」

「部屋の外で話してくるが、ベッドのカーテンは開けないでくれ」


 エステラが頷けばそっとカーテンが閉じられる。少しの間の後で静かに扉の開く気配。


「部屋には入るな、俺が出る」


 硬質なレオンハルトの声を残して扉が閉まった。出会ったときに警告してきた姿を思い起こさせる、色のない声。先ほど聞いた騎士団とレオンハルトの関係を考えると、抜けない棘が刺さったような気分になる。

 まだ残ったスープに手を出す気分にはなれない。ベッドの上に置かれたテーブルをずらしてエステラは膝を抱えて考える。レオンハルトの魔眼がどう作用しているか知りたい。しかしレオンハルトの様子を思えば、エステラを騎士団の面々と会わせる事など絶対に阻止するだろう。己の倫理観と好奇心を天秤にかけ―――さほどの時間もかけず好奇心に傾いた。

 よし、廊下の会話を盗み聞きしよう。お礼として魔眼をどうにかするための必要な処置だ。そう自分の心に言い訳をして、エステラは魔法を紡ぐ。勘の良すぎるレオンハルトにバレないように、間合いには入らないようなものを選ぶ。まだまだ整わない体調と魔力だが、慎重に紡げばどうにかなった。


『戦争は終わった。その後一年義理も通した』


 よし、上手くいった、とエステラは内心でガッツポーズをとる。直接耳に響く声はレオンハルトのものだ。やはり騎士団を辞める話で揉めているらしい。


『当初の話通り、辞めたい時に辞める権利を主張しているだけだ』

『レオンハルト様のお心に否やを申すつもりではないのです。視察にいらした第二王子殿下にも、その通りお伝えさせて頂きました』

『ですが、レオンハルト様の騎士団入りは王女殿下と陛下が進めたものだから自分では受理できないと』


 レオンハルト以外に二人の声がする。

 どうにもめんどくさい事態だな、と思ったところでレオンハルトの魔眼を思い出す。そういえばいくつかの魔法がこんがらがっていた。もしやレオンハルトに相対した人間の元々持つ気質や心情で影響のされ方がちがうのだろうか。


『状況は承知している。だが俺はあの方の傍を離れるつもりはないし、王都にあの方を連れていく事もない』


 誰にも会わないで欲しいと望むレオンハルトだ、人の多い王都に連れていくなんてことはしたがらないだろう。それよりも“あの方”なんて、主君でも呼ぶように話している事がエステラの頭を痛ませる。

 一体どう話しているというのだ。


『……その方が、そんなに大事ですか』


 絞り出すような男の声。


『模範的な騎士として名高い貴方がその矜持を曲げるほど大事ですか。貴方程の方がどこか部屋にも入らず、こんな廊下に立ち続けて我々と話すほど大事な方ですか。妖精の祝福を、消し飛ばしてしまうような者が大事ですか』


 ぞわぞわとエステラの背筋が冷える。妙な熱を孕んだ男の声は、レオンハルトがエステラに語り掛ける時以上に嫌な空気を伝えてくる。


『大事だ』

「冷静すぎん??」


 あまりにも静かなレオンハルトの声に、口に出してツッコミをしてしまう。あまり声を出すとレオンハルトに気づかれそうで、エステラは急いで口元に手をやった。

 もう一度そっと魔法に意識を傾ければ、変わらず会話が続いていて安心する。


『貴方は敬意をもって認められるべき方です。どうして……どうして爵位も騎士階級も、何もかもを拒否してこんな……』


 もう一人の男の声も相当レオンハルトに心酔しているのだろう、熱に塗れた口惜しそうな声はエステラが聞いた事のない色だった。


『父や兄を見ていて、爵位への興味などそもそも持てないと前に言ったはずだ』

『貴方が家督問題にならないよう、そうやって謙虚に振舞っていらっしゃるのは誰もが知るところです』

『新しい家を興されるのを拒んでいるのも、王女殿下を巻き込んでの政争にならない為だというのも承知しております』

『違う』

『もう、もう大丈夫なのです。貴方のその武に驕らない謙虚な人となりは多くの人間が知っているのです』


 気持ち悪い。エステラは素直にそう思っていた。

 エステラの知る世界とは随分違う世界にレオンハルトは生きていた。騎士二人が言い募る言葉の通りにも考えられる状況なのだろう。それでも、自分勝手にエステラを追いかけ、鎖でつなぐレオンハルトが本心でそんなに殊勝な事を考えているとは思えない。

 エステラ以外の人間を、レオンハルト本人を含めて気味の悪い肉の塊だと思っている人間がそんな事を気にするだろうか。


『そんな考えは一つもない。そもそも俺が人を殺す事に忌諱感を抱けないから、前線を下がらず騎士階級もあげない、欠陥のあるものだと知っているだろう』

『そうやって貴方の武についていく事の出来ない私たちを庇ってくださる高潔さを尊いと思っています』

『そうです。ですが、戦争も終わりこの頃は落ち着いてきました。そんなにもご自身を下げる必要はないのです』

『戦争が始まった頃は、そんな貴方の建前だけを信じた者も多かった事は事実です。ですが貴方が戦ってくださった事で、我々がどれだけ救われたか。レオンハルト様が恐怖の象徴として立ってくださった事を理解する者も多いのです』


 エステラが聞いていられたのはそこまでだった。

 慎重に魔法を解き、膝を抱えて頭を埋める。ひどい気分だ。レオンハルトが他人を排除して自分の話を聞いてほしいと言っていた事を思い出す。誰にも邪魔されずに自分の話を聞いてほしいと。

 当然の願いだった。

 エステラだって、言葉にされた事だけが真実ではないと知っている。騎士たちのようにレオンハルトの置かれた状況を知っていれば、彼らと同じように考えることだってあったかもしれない。

 それでも、言葉にしたという真実だってあるのだ。あんなに熱っぽく、自分の信じるレオンハルトを押し付けるのは違うと思った。あれではまるで狂信者だ。声も荒げず静かに対応していたが、そこに至るまで何があったのかを考えると、ただただ苦しかった。


 それに、最初第二王子は冷静な対応をしたのかと考えたが、もしかしたら違うのかもしれない。

 レオンハルトは言っていた。嫉妬や崇拝、無関心。きっと廊下にいた騎士たちは崇拝にあたるだろう。第二王子は嫉妬か無関心を向けているのではないだろうか。今も廊下で話し込んでいるらしい、あの二人と同じ位苛烈なものを。


「しんどいなぁ……」


 さらに膝を抱え込んだことで、足輪の鎖がかすれた音をたてる。これがある限り、エステラとレオンハルトの関係が逃亡者と追手以外になる事はない。少なくとも今は。

 自由と研究、それから強いものとの戦いは、今エステラが生きている意味だ。

 同情心が胸を苦しくしても、きっと離れてしまえばそんな事もあったなと思える。魔眼を抑えればレオンハルトの周囲も変わるはずだ。そうすれば穏やかな人間関係を育んで、病的なまでの執着心も変わってくるだろう。それでエステラを好きだと思わなくなるかもしれないし、そうでないかもしれないがそこはレオンハルトの自由だ。

 どこかで隙を見つけて魔眼を封印しよう。それから姿を消して、ほとぼりが冷めた頃にこっそり様子を見に行く。その時の様子によっては友人として顔を合わせても良いだろう。

 何もなかったようにレオンハルトが戻って来るまで、エステラはそんな事を考えながら小さくなっていた。


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