第6話

 劇的な事なんて何もなかった。いつもの目覚めと同じように瞼が上がり、そのまま動かずぼんやりと頭が冴えるのを待つ。なんだか妙に頭が重い。目も霞み気味だし妙に熱が籠っている感じもある。風邪でもひいたんだっけ、とエステラは右手を額にやろうとしてほとんど動かない事に気づく。


「エステラ? エステラ、起きたか?」


 細く抑えられた声が左から聞こえる。何となく覚えのあるそれに、誰だったかと考えながらゆるりと首を向けるときゅっと左手が握られる。指先だけが暖かく、鈍い感触に何かが巻かれている事がわかるが、その理由はなんだったっけとエステラは頭を捻った。どうしようもなく頭が回らない。

 ぱちぱちとまばたきを繰り返していれば、そっと誰かが覗き込んできた。きらきらと妖精光に彩られた美丈夫。ああ、と納得する。


「あ……ッ! グッゲホッ」


 レオンハルトの名前を呼ぼうとすると、喉が張り付いたように声が出なかった。そのまま止まらない咳に体が跳ねる。それに合わせて腕と足が突っ張る事に、手足にベルトがつけられ拘束されている事に気づく。なんだってそんな事になっているんだか、と思っていればレオンハルトが手早く手首につけられていてたベルトを外してくれた。そのまま背に手を差し込み起き上がらせ落ち着かせるように撫でる。発作のようなそれに生理的な涙を浮かべて耐える。まるで数日何も飲んでいないかのように喉が乾いていた。

 ようやく落ち着いたところで水が差し出され、ありがたく手に取る。レオンハルトはまたゆるゆると背を撫でていた。


「ずっと眠っていて殆ど何も口にできていない。気を付けて飲んでくれ」


 わかったと返事をすればまた咳が止まらなくなりそうで、エステラは頷くだけにとどめた。少しずつ舐めるように水を飲めばゆるりゆるりと喉が潤っていく。確かめるように飲み進めればようやく状況も飲み込めてきた。ダブルバイトバイバーに噛まれて、予想通り追いかけっこをしていたレオンハルトが見つけて助けてくれたのだろう。助かったのか、と思うのと同時に拒んで逃げて醜態を晒した事が地味に恥ずかしい。思わずため息と共に膝に頭を埋めてしまう。エステラの心情など気にしていないのか、何も変わらず背を撫でる手が余計に羞恥心を煽る。

 一度目を閉じて切り替えると、やんわりとレオンハルトの手を拒みながら向き合うように顔をあげた。相変わらず感情の読めない無表情でエステラを見つめるレオンハルトが目に入る。とりあえずお礼は言わないと、と目を合わせて―――声が出せなかった。レオンハルトの瞳はうつろうように色を変えている。カッと怒りに心が燃える。魔眼だ。それも自前のものではなく、妖精が勝手に植えた魔法による魔眼。魅了に威圧に誘導に、体調の悪さとこんがらがった魔法ではっきりしないが酷いもの。愛で方が合ってるなんて、そんな事はなかったのだ。質の悪い呪いのような魔法を振り撒く瞳に、本人が気づかなかっただけ。ギラギラと魔法を叩きつけてくるレオンハルトの瞳に、色んな意味で気分が悪くなる。

 眼は魔力の通りがよく、魔法を放つにしても視線で方向を制御できる非常に優秀な部位だ。エステラも魔法の発動によく使うが、魔法を通しやすいという事はそれだけ他人からも影響を受けやすい。だからエステラは常に相手の魔法は通さないようにしている。とりあえず今はレオンハルトの魔眼に対抗するため、ぐずぐずにやる気のない自分の魔力を捻りだして自分の瞳に蓋をした。それから万全とは言い難い体調をおして、腹立たしさのままに無言で妖精を払いのける。以前好きにしていいと言っていた言葉は嘘ではなかったらしく、レオンハルトが何か言う事もなかった。

 寝起きに無理をして息が上がる。それを整えながら魔眼の残滓を振り払い、荒れた心を押さえつける。どうにか落ち着いてもう一度レオンハルトを見れば、もうその瞳におかしな色は見えなかった。


「エステラ」


 問うような声にエステラはなんでもなさそうな笑みを取り繕う。


「ごめん、や、大丈夫」


 きちんと声が出たことに安堵する。水を飲みながらなら話続けられそうだと思っていれば、レオンハルトが首を振る。


「無理はするな。目が覚めて良かった」

「平気。その、レオンハルト……ありがとう」


 今度こそきちんと目を見て礼を言えば、レオンハルトは小首を傾げた。色々あったが助けてくれた事に変わりはないだろうに何故、とエステラも首を傾げる。しばらく二人でどうしてだと顔を見合わせていたが、先に思いついたように動いたのはレオンハルトだった。


「守れなかった俺に礼など」

「守るのは私が拒んだし、助けてくれたのは事実じゃない?」

「君は十日以上起きなかったんだ。俺がどれだけ詫びても足りない」

「ご、強情……!」


 頑ななレオンハルトに口元を引きつらせつつ、十日以上も寝ていた事に驚く。喉がこれだけガサガサになっているのも納得だが、毒はやっぱり恐ろしいと考えていれば疲労もたたっていたのだと教えられる。確かにあんなに緊張感を持って無理をし続けたのは初めてだったな、とエステラは考える。もうやりたくないなぁとも。

 ふとレオンハルトが自分の手を眺めている事に気づく。そういえば手袋を嵌めていない。


「あれ、手袋やめたの?」


 疑問をそのまま口に出すと、のろのろと顔をあげるレオンハルト。くしゃ、とその顔が歪む。嫌悪のような、絶望のようなそれにエステラは驚きの余り動きが止まる。初めてはっきりとレオンハルトの感情を見た気がした。

 どうにか呼びかけようとした所で、レオンハルトに手を取られる。直に触れる手のひらから伝わる体温は低い。自分が発熱しているからなのか、レオンハルトの体温が低いからなのか分からなくて視線が彷徨った。何があってどんな心境の変化があったのかさっぱりわからない。


「エステラ」

「はいぃ?」


 思わずエステラの声が裏返る。今にも泣き出しそうな顔をしているようにも見えるのに、レオンハルトの声は酷く落ち着いていた。それが更にエステラを驚かせる。


「君は治療院の医者に見てもらった」


 そうだろうな、と跳ねる心臓を抑えながらエステラは頷く。解毒薬を打ったり意識が戻らない患者の体力維持に魔法を使ったり、医者には絶対かかっただろう。


「近くの街に解毒薬はなかった。街が小さかったのと、フォレストドラゴンの巣を越えないとダブルバイトバイバーはいないからだと。そういう人間は少ない」

「あれ、じゃあここ」

「ウェルツィアだ。最初に君を保護した屋敷。最初の町でとりあえず解毒魔法を使って、馬と俺の足でここまで。それから解毒薬を打って処置を受けたから、なかなか目が覚めなかった」


 解毒魔法は万能ではない。本人の体力を引き換えに抵抗力をあげる魔法だとエステラは教えられた。下手をすれば解毒魔法で死ぬ事だってあり得る。だから毒にあった解毒薬が必要だし、それ以外にも様々な処置が必要になる。そもそも治癒魔法は扱い辛いものなのだ。魔法は奇跡の力じゃない。

 それにしてもどうしてそんな顔をして状況を説明してくれるのかわからない。話を聞いても最大限の努力でもってレオンハルトが助けてくれた事に、エステラは感謝するだけなのだが。


「君の、その左手は酷い水ぶくれに覆われていて。意識のない間に掻き毟りそうだったから、医者がベッドに拘束した」

「あぁー、だからかぁ。ぐちゃぐちゃになった?」

「いや。その前に止めた」

「んん?」


 やっぱりどうして思いつめたような顔をしているのか分からない。いや、エステラは別に腕がぐちゃぐちゃになっていてもそこまで思いつめたりしないが。そもそも傷跡ならもうすでに沢山残っている。


「あの医者は君を汚い視線で見た。君に汚い手が触れた。君に汚い言葉を聞かせた」

「ちょ、えっ」

「すまないエステラ。俺に力が足りないから。治療がひと段落してからは俺が全部代わったが、あんなのしかいなくてすまない」

「待って待って、情報が多い。全部? 全部ってまさか」

「看護全て」

「まってまってまってまってうそでしょ待って」


 エステラの顔がボッと音がしそうなほど一気に赤くなる。十日以上意識がなかったのだ。それをレオンハルトが看護していたという事はつまり。


「どうしても見ない訳にはいかなかったが、安心して欲しい。勃ってない」

「そこじゃないよね!?」

「俺が不快な思いをさせるならどこだって潰すなり切るなりしていいと「つぶッ、潰さないし! 結論が極端!!」思っていたんだが、今は駄目だとわかった」

「やらないよ!? やらな、ん? わかった?」


 風向きが前と違う、と思わずレオンハルトを見るとこっくりと頷いている。エステラにしてみればひたすらに恥ずかしいだけで、助けてくれた上に面倒まで見てくれた相手のナニをナニするような事は考えていないのでそれ自体はありがたいのだが。

 スイッチが入ったように語りだすレオンハルトは大概エステラにとってろくなことを言わない。恥ずかしさも吹き飛んで、次は何を言い出すのかと戦々恐々とする。


「今の俺では君を満足に守れない」


 それはエステラに守られるつもりがないからだ。むしろその守り方は嫌だと大暴れしている。でなければ国で一番強いとも言われる男がそうそう守れない事などないだろう。武力的な意味では。

 なんとなく気まずくてエステラは言葉を飲み込む。


「エステラの為に何を失っても構わないのは本当だ。だがこの体たらくでそれをすると余計に守れなくなる」

「言いたいことは分からんでもないけど」

「だからどうあっても君を守れるようになったらどこでも持って行ってくれ」

「もっていかないよ!?」


 どうしても極端なレオンハルトに気まずさも吹き飛ぶ。

 妖精の呪いを把握した今、エステラはどうにも前と同じように適当にすっぱり切り捨てる事が出来なかった。妖精に迷惑をかけられた同士のように思ってしまう。レオンハルト自身が好き勝手している妖精に気づいていないようだから、なおさら同情心が芽生える。

 恥ずかしさと同情と、閉じ込めようとする身勝手さへの反抗心とでどこまで話すか悩ましい。ぐちゃぐちゃと荒れる心と同じように頭を掻き毟り、濁った意味のない声をあげて気持ちを発散すると、言いたいことは言っておけと父の教えが頭に浮かぶ。そうだ、悩むくらいならエステラはいつだってそうしていた。勢いよく顔を上げ、レオンハルトをしっかりと見つめる。


「あのさ、他の人は知らないけど私になんかしたと思ったら、基本は言葉で謝ればいいんだよ」

「だが」

「私も聖人君子じゃないし、その上でなんかして欲しかったら言うからさ。別に自分を切り売りするみたいにしなくていいよ」


 エステラの言葉に、レオンハルトはなお眉を下げる。


「俺が手袋を外したのは、あの医者が君を素手で触ったからだ」

「おっとぉ?」


 唐突なレオンハルトの言葉がエステラの顔を引きつらせる。相手は医者だ。拗らせすぎている。


「あれは毒と疲労で意識のない君を前にしても、話すのは関係ない事ばかりで。それでいて君の事を素手でベタベタと触れて」

「治療、治療でしょ」

「そう、治療はしていたからどうにか耐えたけれど。あの醜悪な手が君に触れたんだ。腐った視線に晒したんだ。でも君はそれを許してしまうんだろう?」


 許すも何も、とエステラは言葉に詰まる。レオンハルトの言う汚い医者が分からないからなのかもしれないが、どこをどう気にすればいいのかすら分からない。

 はっきりと返事のできないエステラに、答えを察したのだろうレオンハルトは静かに視線を下げた。微かに震える睫毛がまるでレオンハルトの内心のようでエステラはどうしてか苦しくなる。


「君は、そう、優しいから。だから好きだ。だけど駄目だ」


 ベッドの上に乗せられていたレオンハルトの手が、静かに握りしめられる。


「俺にすら醜悪だと分かるものが触れたんだ。君が許しても俺が許せない。俺自身も汚いのはわかってる。それでも駄目だ。でも俺は君を汚さないと、触れないと言ったのに。あれが君に触れるのが嫌で、俺は……俺、は」


 はらりと落ちた前髪でレオンハルトの目が隠れる。落ちた沈黙が痛い。長い付き合いではないが濃いやり取りの中で、こんなに歯切れの悪いレオンハルトは見たことがない。

 どうしようもなくエステラは戸惑っていた。どうせ誰かがエステラの世話をしなければならなかったのだ。男で顔見知りであるレオンハルトが、というところに思うところがないわけではないが、こんなに苦しそうにされる程の事ではないと思うのだ。閉じ込めようとする事とは別にして、頑ななまでに自分を下げるレオンハルトを見ていると心が締め付けられる。

 だからエステラは包帯の巻かれていない右手でレオンハルトの手を握ってみた。弾かれたように顔をあげるレオンハルトを無視して、確かめるように揺らす。思った通り嫌悪感は浮かばなかった。いつまでも触れていたいような愛おしさはないが、里で面倒を見てくれていた人たちと手をつなぐのとさほど変わらない。むしろほっそりとして見えた手にはしっかりと剣ダコがあり、養父を思い出す。いくらなんでもあのとんでもない養父を重ねたら、レオンハルトが可哀そうだと考えて思わずエステラは笑ってしまう。

 エステラの笑いに合わせて、握ったままのレオンハルトの手が揺れた。


「レオンハルトの言う汚いってのは、ほんとによくわかんないんだけどさ」


 ぽんぽんと跳ねさせて遊んでもレオンハルトはされるがまま。ちゃんと話を聞いてるかとエステラが顔を伺えば、また無表情に戻って遊ばれる手を眺めている。


「前も言った通り、私の為にやってくれた事ならそんなに気にしないでよ。この通り、多少触れる事なんて別になんともないでしょ?」


 抵抗のないレオンハルトの手を振って見せる。レオンハルトはゆっくりと手を見て、ほんの少しだけ確かめるように動かす。するりと滑る感触がくすぐったくて、エステラは思わず笑みを零した。

 ふふ、と漏れた息にレオンハルトが視線を動かす。つられるように視線を絡めれば、まだ今言われた言葉を飲み込めていないような顔があった。どうしても子供のように思えてしまうそれに、エステラは意識して目尻を緩めた。安心していいんだよ、と伝わってほしくて。


「私が恥ずかしいのはどうしようもないけど、レオンハルトが思いつめる事じゃないよ」

「でも、俺は、これが酷く気持ち悪いものだと知っていて。それを……エステラに……」


 レオンハルトが苦悶する声がエステラの胸に引っ掛かる。触った事についてをこんな言い方で後悔するだろうか。例えばエステラの好きな人が自分の嫌いな人間に触られていたとして、何を感じるのか。そんなものは簡単な話だ。


「じ、自分で言うのは恥ずかしいけど。レオンハルトが言いたいのは嫉妬ってこと?」


 戸惑うように視線を揺らした後、レオンハルトはしっかりと頷く。なるほど、これだけの美貌ならそれだけでも妬み嫉みは凄そうだ。更に強さも兼ね備えているとなるとエステラの想像なんかでは追い付かない嫉妬に晒されて生きてきたのかもしれない。

 そこまで考えて魔眼となっていたレオンハルトの瞳を思い出す。どう考えても妖精のせいで余計な重荷を背負っている気がしてならない。助けてくれた礼にはこっそり魔眼をどうにかしよう。そんな事を考えながら、エステラは恥ずかしさと苛立ちを抑えて笑った。どうにも不格好な笑みだと自分でも感じていたが、それでも余計な不安をレオンハルトに与えるのは違うと思ったから。


「感情を言い訳にしたとしても、今回はやらなきゃいけない事をしてくれただけだからさ」


 エステラは一度そこで言葉を切る。あられもない姿だの、下の世話だの、目の前の美人がしてくれた事をはっきり肯定するには割り切りが足りなかった。顔に熱が集まってぐるぐるするのを気合で抑え込む。大丈夫、そんな事里の連中皆にされてきたのだ。自分を助けて辛そうな顔をする人間に、きちんと自分を伝えることくらいなんてことない。


「やっぱりそこまで気にする事じゃないんだよ」


 そこまで言ったた所でぐるぐると体の中で燻る熱に負けてエステラは後ろに倒れこむ。言い逃げになっちゃったな、と思いながら最後に見たレオンハルトの顔はどうだったか。はっきりしなかった。

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