第5話
レオンハルトから逃げ出して一週間半、エステラはやっと隣町に到着していた。隣町はウェルツィアに比べると小さく宿も二つしかない場所だが、ずっと森にいたエステラからすれば解放感も合わせて天国のように感じる。
そう、エステラはずっと街道を使わず森を通って隣町を目指していた。それも街道を使えば二日、森の中でもルートを選べば五日程度で着く道のりを最大限の警戒を持って一週間半だ。妖精付きのレオンハルトに悟られないよう妖精の嫌う土地を選んだり、あえて好む場所を目眩しの魔法を使ったり。人間の追手から逃げるのと同じように、森で過ごした痕跡や足跡にまで気を使ったり。なんなら一度違う街へ向かう方向へ向かって戻ったりもした。それはもうこれでもかと警戒をして進んだのだ。
だから宿で部屋に入り一人になった時にあまりの開放感で気が緩んだのも仕方ないと言える。完全に浮かれたエステラはまだ安心できないとはわかっていながら、珍しく浴槽のある宿屋に泊まり予約制のその風呂を堪能した。時間めいっぱい湯に浸かり、ろくすっぽ洗えなかった体を清め、久しぶりに最高の気分だった。
だというのに。せっかくほかほかと湯気が出るほど暖まり、体と同じくほこほことした気分で部屋に戻ればきらきらと輝きを纏う男がいた。エステラはそれを目にした瞬間扉を閉めた。当然だろう。ホラー案件だ。しかしエステラは今少々楽な格好にマントを羽織っただけだし、荷物は全て部屋の中だ。どうしたって部屋の中に行かなければならない。
あまりの事にいっそ今身につけている金だけ持って逃げ出すか、本気で悩み出した所で部屋が中から開けられた。そうしてそつのない動きで部屋の中へ放り込まれる。当然やったのはレオンハルトだ。触った事に驚いて振りむけば、きっちり皮手袋をはめている。素肌でなければ構わないという事だろうか。レオンハルトのエステラに対するルールは、謎すぎてよくわからない。いや本人自体よくわからないが。
「おかえり、エステラ」
「帰ってないし! なんでだちくしょう!」
エステラの心からの叫びはしかし、淡々としたレオンハルトの声に打ち砕かれる。
「君が迎えに来いと言っただろう。だから騎士団を辞めてきた」
「言ったわ私のクソ野郎!」
レオンハルトに幻術をかけるため、とにかく視線をまっすぐ合わせたくて言った言葉。ただ興味を引くためその場限りの言葉のはずだったが、確かにどこまでともいつまでとも言わなかった。この超がつくほど規則主義な男は屁理屈などとは一切考えず、エステラの言葉通りにそれを今回のルールと考えたのだろう。
それにしても騎士団を辞めたとはどういうことだ。そんなに簡単に英雄が辞められるものなのだろうか。まさかエステラをレオンハルトが追いかけて、レオンハルトを騎士団が追いかけるみたいなことになっていないだろうか。
「君はクソでもなければ野郎でもない」
「まぁ野郎ではないけれども」
「クソではない。やめてくれ」
レオンハルトが嫌にこだわる理由は理解できないが、了承しないと延々と話がループする事はエステラもさすがにもうわかっている。だからとりあえず頷いておく。相当気分が良かった分、本当にべっこりと凹んでいたがこれからまだ逃亡しなければならないのだ。余計な体力消耗は避けたい。
「ところでエステラ」
相変わらずきらきらとしつつも無表情なレオンハルトに、エステラは胡乱な視線を向ける。
「迎えに行くというのはどうしたら完遂なのだろう」
「どうしたら?」
「君は手を広げて待っていた。という事は抱擁が条件だろうか」
「真面目か?」
この男、なんでもかんでも任務かなんかだと思っているのだろうかとエステラは軽く頭痛のしだした眉間を揉む。どうしたもんかな、と考えたところで思いついた。もしかしたら使えるかもしれないと。
「ええと、そう。そうね。迎えに来たならお帰りのハグは必要かな」
「そうか」
エステラの言葉に躊躇いなく踏み込んでくるレオンハルトを、手を掲げて制止する。
「念のため聞くけど、触らない宣言は?」
「服は俺ではない」
「なーるほどねー……」
屁理屈かな、と思わなくもないエステラだったが触れない理由が自身が汚い事であれば何となく分かる気がした。距離が近くなりすぎる事に対して思うところはないのか、と考えなくもないが。いや、寝ているエステラを勝手に担いでしまうあたり、必要と考えたらできるタイプなのだろう。
「それはそうとレオンハルト」
「なんだ」
「私、今、風呂上り。さすがに埃まみれ土まみれと抱擁は勘弁願いたい」
エステラの言葉に自身を見下ろすレオンハルト。肩から上は妖精が頑張ったのか妙に綺麗だが、森の中を踏破してきた汚れはばっちり残っていた。途中で水浴びでもしたのかボロボロというわけではなかったが、上半身はところどころ白っぽく、足元など泥や草がこびりついている。
対してエステラは言葉通り風呂上り。ぴかぴかのほかほかだ。着ている服も宿に泊まる時のことを考えて残してあった綺麗なものだ。つい、と視線を巡らせたレオンハルトは納得したように頷く。
「わかったらとりあえず湯浴みしてきて欲しいかな」
びしっと扉を指さすエステラを静かに見ているレオンハルト。暫くそうしていたかと思うと、ゆっくりもう一度自身を見下ろす。ともすればぼんやりしているようにも見えるが、もしかしてこれは悩んでいるのだろうかとエステラは思う。同時に悩む事でもないだろうとも。
会いたくてたまらなかった恋人同士なら汚れる事なんて気にせず抱き合っても良いだろうが、エステラとレオンハルトはそうではない。いやもしかしたらレオンハルトはそう思うのかもしれないが、少なくともエステラは違う。このままレオンハルトが風呂にいる間に逃亡しようと思っている事を別としても無理だ。このまま無理にでも抱きしめようとするなら全力で殴り飛ばそうと右手を握る。
「……わかった。すぐ戻る」
「へ……わかった」
正直予想外だった。まさか素直に風呂に行くなんてエステラは考えていなかった。ウェルツィアの屋敷から逃げる時にだってバチバチに戦って出てきたのだ。多少強引に思い通りにする事もあるのではと思ったのだ。あの時何度もカーテンを引きちぎって捕まえようとしたように。
何を企んでいるんだか。そう思いながらレオンハルトを見ていれば、ドアノブに手を掛けたところで振り返る。
「エステラ」
「何」
警戒をあまり表に出さないようにと思っていたはずが、エステラの喉を震わせたのは妙に固い声。それにやっちまったと体まで固くなる。
「待ってて」
完全に埒外からの一撃だった。静かに、それでいて幼い子供のような無垢さすら感じられる声音でそんな事を言われるなんて、エステラは思ってもみなかった。どこにも行くな、誰にも会うなと頑なに押し付けてきた時とは全く違う響き。もしも狙ってやっているとしたら恐ろしい。レオンハルトの気配が消え次第、即刻逃げ出すつもりだった心が妙な罪悪感で痛みそうだった。
だからレオンハルトが扉から消え、その気配が読めなくなってすぐにエステラは勢い込んで準備を始めた。投げ捨てるようにマントを脱ぎ捨て、手入れをしようと広げていた防具を手早く身に着ける。乾くまでと下ろしていた髪もざっと纏め、そう多くはない荷物をいつも通り袋に入れると再度マントを体に巻き付けた。
荒っぽい動作で変に絆されそうな心を誤魔化さなければ、なんだか取り返しのつかない事になりそうで。とにかく急いでエステラは準備を済ませると、さっと室内を見まわして窓枠へ足を掛けた。宿の支払いは済んでいる。もうここを出ても大丈夫だと確認して、一息に地面へ降り立つ。そうして人目につかないよう急がず焦らず森を目指した。
森での逃亡劇にはエステラが一歩秀でているらしい。前回も森の中でレオンハルトと遭遇することはなかったが、あれから六日逃げられているあたりその認識は間違っていないだろう。
今エステラは更に妖精付きであるレオンハルトの上を行くため、フォレストドラゴンの縄張りを突っ切る暴挙に出ていた。竜種は人も妖精も距離を取る生き物だからだ。竜種の中でもそこまで強くはないフォレストドラゴンなどレオンハルトはどうとでもできるかもしれないが、妖精は別である。
妖精が嫌う土地なんて比較にならない程、竜と妖精は相性が悪い。竜種が放つ咆哮は、妖精が存在する為に必要な空気や自然物に宿る魔力を攪拌したり吹き飛ばしたりするからだ。それは妖精が暫くそこに存在出来なくなるだけでは済まず、消滅する事すらある。だから妖精は竜に連なるものを忌諱するのだ。
そしてフォレストドラゴンは小さな群れでもその縄張りはかなりの広さを誇る。最も危険な巣がある中心部を通る事になるが、そこさえ切り抜けられればレオンハルトが妖精に導かれようと相当時間稼ぎができる筈。そう考えてのエステラの行動だったが、かなり精神的に消耗していた。
ここの群れは四十頭程らしくそう大きいものではないが、何せフォレストドラゴンは複数体で纏まって狩りをする。その連携はさすがに竜種と言うべきもので、外敵排除の為に目を付けられたら相当に厄介な相手となる。
ついでにレオンハルトに自分の動向を知られたくないエステラは、万が一敵対行為を取られても傷つけずに逃げるのが前提だ。死体や傷ついたフォレストドラゴンを見て、足取りを捕まれては何の意味もない。だからエステラはフォレストドラゴンに見つからないように、刺激しないように、なおかつ餌だと認識されないように細心の注意を払って進んでいた。
下手な魔法を使えばフォレストドラゴンの警戒心を刺激する。それ故にエステラは殆ど魔法を使わずに切り抜けた。縄張りに入ってからほぼ丸一日かかったがどうにかやりきったのだ。
「ぬ、抜けたぁ」
それだけやり切れば思わず独り言も零れるというもの。夜の帳は落ち切り、この後寝床になる場所を探す仕事も残っている。だがエステラも本当に疲れ切っていた。
そもそも前の町で一度しっかりと体を休めるつもりだったのだ。それもせずもう半月以上逃亡し続けている。普段から旅をして森での生活には慣れているとはいえ、追手から逃げるストレスはガリガリとエステラを削っていた。いつもなら絶対に休息を取るラインを超えている。
集中が切れ重くなった頭を抱えながら、エステラはだからこそもうひと踏ん張りしなければと気合を入れる。折角フォレストドラゴンの縄張り抜けなんてしたのに、寝ている間に他の獣に襲われるなんてヘマはできない。そうして暗い森をゆっくりと進みテントを張れる場所を探し出し、エステラは泥のように眠りについた。
「うわぁ、寝すぎた」
翌朝エステラが目覚めると日が昇り切っていた。夜の森はいくらエステラでも危険なため活動時間は日の出から日の入りまでとしていたのに、うっかり街にいる時と同じくらいまで寝てしまった。それでも本調子には程遠い。とはいえ体の方は前日に比べれば随分と軽くなったように思える。
よし、と一つ気合を入れるとエステラは起き出して出発の準備を始めた。
事が起きたのは昼食後しばらく経ってから。
エステラは太陽の位置を確認しようと、木のそばで影の向きを見ていた。ゆらゆらと揺れる木の葉の影と微動だにしない幹の影。それを見ながら行き先を考えて―――ふらりと幹の影が揺れて見えた。そんな事があるわけがないと頭を振って、足元まで揺れる。ぐらりと傾いだ体をとっさに腕をだして支えた。
眩暈を起こすほど疲れていたのか、と思えば乾いた笑いが漏れる。木肌で傷ついた手のひらが気付けになる気がして、エステラは更に笑う。自由を許さないレオンハルトから逃げるこの道行すらエステラを締め付ける。出会ってからそんなに時間が経っていないというのに、かつてない程にエステラを振り回している男。次に会ったら絶対に殴ろうと決めた。既に幾度かやり合っているし、現状そいつから逃げ回っている事はこの際忘れておく。
自分の矛盾した考えと、疲れと。エステラは思わず腹を抱えるほど笑って、グラグラする足元によたついて。普段なら絶対にやらない事をした。何の警戒もなく勢いよく木の幹に寄りかかる。
それが間違いだった。
木肌に何かが擦れる様な音と左手に走る鋭い痛み。やらかした、と瞬時に切り替えて痛む辺りを払いのけつつ目をやれば、こちらへ向かってくる茶とオレンジのまだら模様。心当たりのありすぎるそのカラーリングに思わず舌打ちをしながら、エステラは腰に下げたナイフで再度襲ってきたそれを葬る。
襲ってきたのはダブルバイトバイパー。二噛みで獲物を殺すと名高い毒蛇だ。二噛み以上されるかされないかで生き残る可能性が大分変わる。とはいえ決して毒性の低い蛇ではない。一度目で動けなくなる程の毒を入れてくるし、体の大きさなどの条件次第では二度目を待つことなく死に至る。
そしてここは森の中。しかもドラゴンの縄張りを越えなければ毒蛇に対処できそうな街はない。酷い痛みを訴えてくる手とぐるぐると回る視界に酷い気分で目の前が真っ暗になりそうだった。
それでもまだエステラはどうにか動ける。ならば諦める事もない。一度目を閉じてゆっくり息をすると気持ちだけでも切り替える。そうしてのろのろと荷物から水を出し、口と手を使って傷口から血を絞り出すようにして洗う。元々酷い痛みを訴えていた傷がまだ上があるのかという位に痛んだ。
獣のような唸り声は抑えきれず息が乱れ生理的な涙が滲む。もう限界だというところまで洗うとどうにかして息を整え、僅かに残った水を飲む。忘れないうちにダブルバイトバイバーの死体を荷物へと括り付けた。誰かが助けてくれた時、わかるように。
それからゆっくりとエステラは歩き出す。今まで延々と見つからない為に選んだルートを進んできた。生き残りたければそれではだめだ。誰かが見つけてくれるような、それでなければ見つけやすい場所へ。少なくともここに転がっていては、毒で死なずともその内獣に食われかねない。
どんどん重たくなる体にとうとう倒れ伏して動けなくなって、脳裏にこの逃走劇の追手が浮かぶ。逃げているのに一発殴りたいと思ったり、見つかりたくないのに見つけてくれるかもと思っていたり。レオンハルトも大概だが、自分もなかなかに自分勝手だとエステラは薄く笑う。それを最後に落ちるように目の前が暗くなっていった。
◆
木漏れ日のなか小さな花畑の入口で倒れ伏すエステラを見つけて、レオンハルトは生まれて初めて自分の意志では動けなくなっていた。ほんの少し捲れた長袖から覗くエステラの左手は水ぶくれに覆われている。赤黒く腫れあがった腕と対称的に青ざめた顔には何故かうっすらと笑みが浮かんでいた。それがまるで死んでいるようで。息をしているのは見て取れるのに、どうしようもなく動けなかった。
首の後ろから背を通ってひざ下まで何かがずるりと抜けていくような感覚。同時に一気に手足の先が冷たくなっていく。鼓動が早くなり、まるで体の中に鐘でも仕込まれたように感じる。レオンハルトは初めて戦場に出た時ですら、ここまで動揺しなかった。
自分に向けられる感情や行動に揺れる心が煩わしくて、いつからかほとんど心を動かす事なんてなかった。成長すればするほどうっすらとした好悪以外感じなくなったというのに、エステラと出会ってからは忘れていた感覚を思い出すばかり。それにしたってこんな思いは味わいたくなかった。
どの位静止していたのか分からないが、そう長い時間ではなかったはずだ。震えそうな足を叱責しながらレオンハルトはエステラの傍へ跪く。頬へ顔を寄せるようにして吐息を耳で、胸が上下しているかを視覚で確認する。多少浅いようだがしっかりと呼吸をしている事にレオンハルトの鼓動が少しずつ正常に戻っていく。
そこからはあっという間に落ち着くことが出来た。そうなれば行動は早い。戦場と訓練で培った経験を元に出来る限りの対処をしていく。まず情報収集を、と見ればエステラの荷物に括りつけられた蛇が一体。
「ダブルバイトバイバー……」
森林や山岳を抜ける前に講習で必ず教わる毒蛇。レオンハルトの知識と照らし合わせれば、エステラの症状はまだ一度しか噛まれていないように見える。念のためざっと確認するが二つ目の噛み跡は見当たらない。
ならば応急処置だと剣で袖を切り裂き二の腕を縛り、自分の荷物からできるだけ清潔な服を探し出して水ぶくれを破らないよう丁寧に巻き付けた。それからレオンハルトは躊躇いなくエステラの荷物を漁り小型テントを取り出すと、エステラをその上に寝かせ適当に切り裂いて肩を通して結び支えとして体の前で抱えこむ。
こうしてレオンハルトがエステラを抱え込むのは二度目だ。一度目は多分、そう、少し高揚していた。今はきっと焦っている。あまりにも久しぶりの感覚に自分でも判別がつき辛いが。
レオンハルトは本能にしたがってほんの少しエステラを抱く腕に力を込めた。顔を寄せれば熱が出ているのだろう、少し熱い吐息が頬にかかってぞわりと震える心。生きているのに安心したのか、こんな事になっているのが辛いのか全く分からない。
「すぐ治療院へ連れて行くから。耐えてくれ、エステラ」
エステラからは何の反応もなかったが、それはそもそも期待していなかった。消えない沁みのようにうっすらとした焦りはあるが、問題のない範囲だ。それからレオンハルトはもう一つ、懸念事項を解消するために剣を手に取る。切っ先を自分の顔へ向けると、きらきらと瞬く妖精を静かに睥睨した。
「話が通じるものかどうかは知らないが、念のため言っておく。これまでお前たち妖精の好きにさせてきたが、エステラに手を出したら俺はどんな手を使っても俺自身を二度と見れぬ容貌にする。その後はお前たちを殺しつくす。眉唾ものの伝説というが妖精殺しの魔剣もあると言うし、竜種はお前たちを殺せる。俺が成すための手もどこかにあるだろう」
どこか動きの鈍くなったように見える妖精光に一つ息をつく。森からウェルツィアの屋敷に連れていく時にはレオンハルトと妖精の利害が一致した魔法を使っていたが、今回どうなるかはわからない。スプーンのような事を本人にされたら、レオンハルトは顔を焼いてもエステラに謝り切れないと思う。何より絶対に自分で自分を許せない妙な自信があった。
「もう一度言う。エステラには手を出すな。それ以外はどうでもいい。今まで通り好きにしろ。俺が何かを頼むこともない。お互いの為に通じている事を祈る」
通じたか通じていないかは分からない。だがほんの少しの間眺めていると、妖精光は明らかに明滅も動きも鈍くなる。それを確認しレオンハルトは荷物を肩に掛け静かに立ち上がると、出来る限りエステラを揺らさないよう細心の注意を払って走り出した。
走りながらレオンハルトは最短で治療院のある街までの道へと考えを巡らせる。ここまで七日かかっているが、エステラは痕跡を残さないように最大の注意を払っていた。追うにも神経を使ったしエステラを嫌ったのか妖精が妙な動きで惑わせようとしていた―――慣れてくれば逆にいい道案内だった―――が、その分距離は稼げていない。普通に進んで四日半程度、走り通しで一日半から二日の距離だ。
ただしその途中にはフォレストドラゴンの巣がある。どう考えても巣を突っ切る方が距離は短いが、確実にフォレストドラゴンに襲われるだろう。小型だが数と機動力でしっかりと竜種らしい強さを発揮する種類だ。一人ならどうとでも殲滅できる。エステラが万全ならただ楽になるだけ。だが今の彼女は酷く揺れるような運び方に耐えられる体力があるかわからない。
いくらレオンハルトでも、エステラを抱えたまま枝を払うようにドラゴンの群れを倒すのは無理だ。そもそもレオンハルトの戦い方はスピードと機動力で翻弄する。誰かを守りながらなんて一度だって考えた事がない。
それでもレオンハルトが考えたのは一瞬だった。そのままフォレストドラゴンの縄張りへと突っ込んでいく。
分かり切っていた事だが、特に隠れる事もなく走って巣に近づけばフォレストドランは群れで襲い掛かってきた。一匹二匹と姿を見せた辺りでレオンハルトに付いていた妖精たちは瞬きを残して消えている。妖精を頼った事などなかったが、戦闘能力が落ちた事は間違いない。レオンハルトは自分の身体能力だけでドラゴンからエステラを守り切らなければならくなっていた。
にも関わらず、レオンハルトはうっすらと自分の心が浮き足立っている事を感じていた。思考は冷静に状況を見極めエステラの負担にならない動きを計算し続けているし、それを保つために余計な感情は殺している。それでもエステラが近くにいると、ふわりふわりと心のどこか奥の方が柔らかくなってしまう。それは必ずしも暖かいものばかりではなく、どうしようもなく不快な事もあるのに何故か掬い取って大切にしなければならないように思える。
今だって殺しておくべき焦燥感や不安感がどうしても拭いきれない。だというのに他でもない自分の手の内に彼女がいると思えば、そのぬくもりに底知れぬ満足感のような何かを感じて手放せない。そうしてすぐに、もしもこの暖かさが損なわれたらと思うと動揺してどうにも出来ない自分に苛立つ。それは手を鈍らせ、判断を鈍らせ、足を竦ませるものだ。だから今まではきっちり殺しきっていたので―――そもそもいつだって感情なんて殆どなかったが。特に良い方は―――違和感もある。それでも柔らかくて暖かくて苦いそれを、固めて沈めて殺してしまう気にはなれなかった。
だから増えていくフォレストドラゴンを前にして、レオンハルトは初めてやりがいに近い何かを感じていた。今襲ってきているのは八頭。前後左右、ついでに高低差もつけて絶え間なく攻めてきている。あまり急な動きをしないように気を付けていたが、少しずつ難しくなってきている。
剣を握った手に力を込めたところで、レオンハルトは魔法の気配を感じ取った。思ったより早い展開だ。群れを作る竜種が使う魔法は、同じ群れに属するものには効かない。他に類を見ないその特徴は竜種たる証とも言える。
入れ代わり立ち代わり襲い来る牙や爪、尾。同士討ちしないように繰り出されるそれとは関係なく風の刃がレオンハルトを襲う。一発目は揺れるエステラの足を齧り取ろうとした牙をむく頭の上を、滑る様にして頭と胴を切り離そうとしてくる。それを体を沈み込ませるようにして避け、体を捻ると振るわれた爪を剣で巻き取り飛びかかろうとしていた他のドラゴンへと投げつけた。それに合わせて抑えきれていないエステラの膝が跳ねる。視界の端でそれを捉えたレオンハルトはほんの僅かに目を細めると、両手でエステラを抱えて出来る限り柔らかく跳躍した。
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