第11話 一人称

ある男がいた。

「おーい」

後ろから声がした。

振り返ると見知らぬ人間が「おーい」とこちらを向いて言っている。

見知らぬ人間だがとりあえず男は手をあげて

「ああ」と返事をしようとしたが

男の後ろから

「やあ!」と返事が聞こえ見知らぬ男の声が自分へのものでないと知った。男は恥をかかずにすんでよかったと胸を撫で下ろした。


男は無口だった。

仕事へいっても他人との会話は挨拶程度で、ほとんで喋ることはない。一人でたんたんと仕事を進めていく。

その日も男は仕事先へ行き小さな声で

「おはようございます」

とだけ挨拶をして自分の持ち場へいった。

しばらくして、昼休憩の時間になった。いつものようにそこら辺に腰掛けてこさえてきた味気ない握り飯を食う。他の人間たちは仲間を集い楽しそうに談笑しながら飯を食らっている。男はそれを一人で眺めながら飯を食う。特に羨ましくもなく、一人でいる寂しさなど毛頭も感じなかった。

飯を食い終わり午後も仕事開始までの時間、いつものように某と過ごしている。

「〇〇くん」

男の名前だった。

呼ばれた方向を見ると、自分の直属の上司といかにも偉そうな人間がこちらを向いている。これはないにか大変なことをやらかしてしまったのかと思い、急いで上司の元へ駆け寄ろうとした。

上司はいかにも偉そうな人間の方を向き直し言った。

「本当に残念だね。〇〇くんはまじめな人間だったけども・・・・・。」

呼びかけは男に向けられたものではなく二人の会話の中にある男の名前をたまたま男が聞き取っただけであった。

男はドキッとして、足を止め体を逆に向けた。そして急いでその場を立ち去った。

「聞いてはいけないものを聞いてしまった」

いや、正確には聞きかけてしまった。

そう男は聞きかけの会話の先を予想し、そう遠くない未来自分はクビになることを悟った。それは今日告げられることかもしれない。

男は内心ビクビクしながら午後の仕事についた。仕事が終わると誰にも話しかけれられないように願いながら

「お疲れ様でした。」とごくごく小さな声でつぶやき、職場を後にした。


帰り道男は舌を向きとぼとぼと歩いていた。

いつか、自分がクビになることを思うと気が滅入ってしかたがなかった。ただただ通い慣れた道を、ほぼほぼ無意識に歩いている。男は視界が黒と白の縞々であることに気がついた。道路の真ん中にいた。男はふと顔を上げた。男の前の信号は赤だった。右には大型トラックが迫っている。男に避ける力も気力も残っていなかった。男は目を瞑った。


しばらくして目を開けるとおかしなことに気がついた。男はトラックに弾かれてはるか彼方へ飛ばされるは、木っ端微塵になるはずであったが、目をつぶった位置と同じ場所にいた。

周りを見渡してみると、トラックは左方向へ走り去っていく。何がなんだかわからなく、男は前を向いた。信号は青である。多くの人が自分を追い越しすれ違っていく。

男は

「おおおおおおおおおいいおいおいおいおおいおいおいおおいおいおいおいお」

と訳のわからぬまま訳のわからない声を出した。しかし、誰も男の声など聞いていないようだった。

男は錯乱し奇声を上げながら自分とすれ違おうとしている人間に掴みかかった。

掴みかかったはずの腕はすれ違う人間を通り抜けた。男は止まった。止まったがしかし、別の人間を掴もうとする。しかし、その手はその人間には当たらなかった。男は手をブンブンと振り回し、奇声をあげた。しかし、誰にも聞こえず誰にも触れられず誰にも気づかれていない。

男は気がついた。自分の肉体はすでになくなっていることに。そして思い出した。昨日、グビを言い渡され。その帰り道、自ら大型トラックの前に身を投げたことに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る