第2話 つもる

 それからしばらくたって、父親はビニールの風呂敷に包まれたおせちをもち帰った。雪はやんだようで、父親の肩につもっていない。ついでに一升瓶を俺に見せ、いっしょに飲もうと言った。


 この人も年をとった。毎年俺と酒を飲みたがるが、途中で潰れてしまう。昔はもうちょっと強かったはずなのに。


 その日も、年越しそばと鰤の刺身を食べながら早々に酔っぱらっていた。


「俺は、息子と飲むのが夢だったのに翔太は東京の大学にいってまう。この家で男は一人になったけんね。それじゃあ酒を飲む気にもならん」


 これを言うのも毎年のことだった。しかし、今年は思い出したように言葉をつけたした。


「そういや、高三の夏にいきなり進路変更したな。それまで地元の大学が第一志望やったのに。いきなり東京の国立大いくち、言いだして……」


「お父さん! 飲みすぎっちゃ。毎年そんな飲まんのに一升瓶買ってきて。来年は小さいのにせんね」


 母親が、酔っ払いの言葉をさえぎった。

 今さら六年も前の進路の動機なんて言うつもりもなく、俺はあいまいに笑ってお猪口に残った酒を一気に飲みほす。


 喉の奥に流れていく酒は辛く、ヒリヒリと喉をやく。そのしびれはほろ酔いの頭をより酩酊させた。


 年を越す前に父親は疲れたと言って、二階へ上がり寝てしまった。

 後片づけを手伝おうと、台所の母親の背後に立った。後ろから見下ろす母親の髪に白いものが混じっている。いつもきれいに、染めていたのに。


「手伝わんでいいけ。座っとり」


「でも、する事ないし。テレビおもしろくないし」


「そしたら、明日食べる数の子の薄皮むいてもらおうかね」


 ボールの水につかった数の子を冷蔵庫から取り出し、俺の目の前に置く。子孫繫栄の高級な縁起ものだけど、しいておいしいわけではない。


 水のつめたさと、薄皮のぶにょぶにょとした感覚。鼻には生臭いにおい。

 あまり気持ちのいい作業ではないが、だまって言われた通りにした。

 母親の左側に立ち、皮をむき始めた。


 毎年父親が寝てしまったら俺も自分の部屋にひっこむのだけど。

 今年はそんな気分にならなかった。


「あんた、由奈と連絡とりあっとるの?」

 ふいに皿洗いの手をとめ、母親は不自然な問いかけをしてきた。


「なんで、そんなこと聞くの?」

 ボールの水で冷え切った指先を握り締めて、俺は言い返す。


「お隣の松田さんとこのけんちゃん。去年東京の大学にいったろ? 妹のみゆちゃんは、けんちゃんの下宿に泊まって東京で遊んで来るち、聞いたけ。あんたらも仲よかったけ」


 松田さんの兄妹は血が繋がっているだろ。俺たちとは違うよ。

 喉元までせり上がった、セリフを飲み込んだ。


「全然、連絡なんかとってない」


 俺のセリフに探るような目をしていた母親は、ホッと息を吐き出した。


「そうか……」


 そうか……そんならよかった。

 声には出さなくても、母親のセリフが頭の中で反芻される。


「あんなことは、一回だけやったんやね」


 皿を洗う水音にまぎれこませて、念を押すように聞く。

 あんなことってなんだよ? と問いただすまでもない。


 目玉だけ左に向け「ああ……」と一言つぶやいた。


 皮のとれた数の子をタッパに入れ、冷蔵庫になおす。

 手を洗って、リビングの掃き出し窓から外を見た。


 やんでいた雪は再び降り出し、白い砂粒みたいなものが、夜の闇の中、チラチラと外灯に反射しながら落ちていく。

 つけっぱなしのテレビから除夜の鐘が、聞こえてきた。煩悩を取り除く腹のそこに響く鐘の音。


 今年はいつ年が変わったのか、わからなかった。


                 *


 元日の朝ダラダラと布団の中からぬけ出せず、ようやく気合を入れて起きてみれば、二階から見える街の風景はモノトーンだった。


 灰色の空の下、等間隔でならぶ屋根はうっすら白く、黒いアスファルトの上に雪がつもり徐々にその色を奪っていく。


 天から舞い降りる真っ白で清浄な雪が、街を覆いつくすのも時間の問題かもしれない。


 着替えて階下に降りると、豪華なおせちの中身をつまみながら、父親はお屠蘇を飲んでいた。


「起こしてくれたらよかったのに」


 寝坊の理由を母親に押し付ける。


「あんた、昨日遅かったけん。ゆっくり寝かしてやったんよ。お父さんの相手はせんでええからね」


 母親の言葉に、多少むくれた父親だったが俺に席へつくようせかす。


 今年も三人だけの元日の朝。何年続いただろう。確か去年、由奈は看護師の国家試験の勉強だと言って友達の家に泊まり込んで帰ってこなかった。


 今年は、二日に帰って来ると言う。

 しかし、雪は激しくなる一方。こんな中帰って来られのだろうか。


 すまし汁の中の丸餅を頬張っていると、家の電話がなった。正月の朝から家に電話とは誰だろう。

 母親がとると、いの一番奇声を発する。


「まあ、由奈! こんな雪の中車で……寮にいればよかったのに。えっ、お父さん? もう飲んどる。どないするん。立ち往生ち」


 母親が握り締める受話器を奪い取った。


「由奈か。どこで車とまったんだ?」


 俺の声を聞いて電話の向こうの由奈は、息をのむ。


「お兄ちゃんなんでいるん。飛行機飛ばんかったんやないの」


 久しぶりに聞く妹の声は、相変わらずぶっきらぼうで、突き放したようにつめたい。


「昨日から来てるんだよ。それより、チェーンもっていってやるからどこだ」


 場所はこの住宅地入り口の坂の途中だった。あそこなら、歩いていける。

 まってろ、と言い電話をきった。


「あんたが、迎えにいってくれんの?」

「うん、チェーンどこ?」

「外の小屋にあるけど、この雪の中あの薄いコートで、いくつもり? ちょっとまっとり」


 母親はバタバタと二階へ上がっていく。父親はすまんなーと言いつつ、外へ出て行った。チェーンを取りにいったのだろう。


 結局、父親のクマみたいなダウンジャケットを着せられ、長靴まではいた。由奈の車を探しに表へ出ると、外はすっかり、一面の銀世界。

 どこの地方都市にもある、ありふれた新興住宅地が、おとぎの国のように美しい世界へ変わった。


 誰もいない、すべての音を雪が吸い取った静寂な街。その中を、ザクザクと雪を踏みしめ坂を下っていく。 

 母親から聞いた由奈の白い軽自動車が、エンジンがついたまま雪をかぶり、路肩にとまっていた。後ろのマフラーから車の息遣いのような白い煙が、氷点下の空気の中立ちのぼっている。 

 真っ白な雪原でお尻をむけてうずくまる、臆病な雪ウサギのようだった。


 くもった運転席の窓をノックすると、すぐさま窓は下がり由奈の顔がのぞいた。


「チェーン貸して。つけるから」

「いいよ、俺がつけるから。おまえは乗っておけ。夜勤明けだろ」


 見下ろす由奈の少し吊り上がった目の下、うっすらクマができていた。化粧っけのない顔に、長い髪を後ろで無造作に束ねた素っ気なさ。


 はじめて会った頃の、少年のような由奈の容貌は女性らしく変貌しているが、愛想のない中身がにじみ出ているのは相変わらず。


 ケースからチェーンを出して、作業に取り掛かる。チェーンと言っても軽い素材でできており、装着の方法を父親に聞いてきたから、手こずりはしなかった。


 しかし、軍手をはめていても手先が寒さでこわばり、うまくフックがかけられない。なんとか、完了し運転席のドアを開ける。

 シートにもたれ、目を閉じていた由奈の目がパッと見開かれた。少し色の薄い瞳が眠たげに左右へゆれた。


「俺が運転する、助手席にいけよ」


 そう、うながすと素直に隣へうつり運転席を俺に譲った。

 乗り込んだ室内は暖かく、外気との温度差にくしゃみが出た。


「ごめん、寒かったよね。ありがとう」


 そのいたわりの言葉を聞き、肩をすくめる。


「おまえ、ちゃんと礼が言えるようになったんだな」


 由奈はなかなかありがとうの言えない子供だった。家族はもちろん、他人から物をもらっても、もじもじするだけで礼がどうしても言えなかった。


 母親は、俺にだけ「ばあちゃんに甘やかされて育った子はこれだから」と愚痴っていた。あの時ちゃんと母親に、由奈は礼儀がなってないんじゃない、恥ずかしくて言いたくても言えないんだと言ってやればよかった。


 今さらそんなことを思ってもどうしようもないけれど。


「あのねえ、もう私子供じゃないけん。立派にナースとして働いとるんよ」


「明日帰って来るんじゃなかったのか?」


 寮で寝てから二日に帰って来ると母親は言っていたのに、どうして元旦に帰って来たのだろう。


「あー、明日はつもるから、帰れる時に帰っとこうと思って。一応帰るって言ったけ」


 愛想はないが、こういうところは妙に律儀なやつだ。約束や、自分で決めたルールは生真面目なほど守った。


 照れなのかばつの悪い顔を横目で見ると、さっき青ざめていた唇がほんのり赤みをおびている。


「おまえ、化粧したのか?」


「違うよ、車の中乾燥するから色つきのリップぬっただけ」


 うす暗い車内。ナビの画面だけが煌々こうこうと明るい。その光をうけ由奈の唇は赤くてかっている。

 上唇はきれいな三角を描き、下唇はふっくらとしたやわらかそうな唇……。やわらかそうではない、やわらかかった。


 この唇を俺はなめたんだから、そのやわらかさを知っている……。


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