生贄

黒井瓶

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 ぼってりと白い皿に横たえられた、ほぼ生肉に近いレアステーキ。ナイフ。フォーク。広いテーブルの上には、以上の三つのものしか置かれていなかった。

「いただきます」

一人暮らしであるにも関わらず、G藤G介は几帳面に手を合わせた。そうしたあと彼はナイフとフォークを手に取り、レアステーキの表面をなぞるように切り刻んだ。赤い肉汁がとぱとぱと滴る。G藤は歯茎が引き締まるような食欲を覚えた。

 G藤は誇大妄想狂だった。なおかつG藤は自らの誇大妄想を自覚していた。彼は自らの妄想を愛し、「このような妄想を持てている自分はなんて偉大なのだろう」という二重の誇大妄想に浸っていた。彼は自らのことを天才だと思っていた。

 G藤の周囲の人間もまた彼のことを天才だと思っていた。彼らの多くは、G藤に小説の才があることを認めていたのだ。彼らに称賛されることによってG藤の妄想はますます強化された。G藤は自らのことを「シェイクスピアやゲーテに比肩し得る世紀の文豪」だと思っていた。そして彼は、彼の誇大妄想を否定する人間や事象をことごとく忌み嫌った。彼は外界との接触を断ち、自らの作品世界と一部の称賛者の間を行き来するだけの存在になり果てたのだ。彼は幸せだった。

 そう、彼は今現在の自らの暮らしにこの上ない幸せを感じていた。彼は豊かでもなければ有名でもなく、特筆すべき経歴も持っていなかった。彼の特別性を証明するものはただ小説と少しのファンだけであった。しかし、それにも関わらず彼は自らの暮らしに誇りを感じていた。彼は自らのことを「大いなる楽観主義者」だと思っていた。そして、「大いなる楽観主義者」こそが次の歴史の担い手となるのだ、とも考えていた。

 G藤は猛烈な勢いでレアステーキを完食した。彼は大食漢だった。彼は自らの巨大な胃袋を愛していた。G藤は自らの旺盛な食欲を、彼が「大いなる楽観主義者」であるということの強力な証明だと捉えていたのだ。G藤は皿を持ち上げ、肉から漏れ出した赤い汁を余さず音を立てて啜り込んだ。

「ごちそうさまでした」

そう丁寧に頭を下げるとG藤は席を立ち、コップに水を注いだ。白い錠剤と透明な水。G藤はこの二つを、司祭が聖餐のパンと葡萄酒を持つような手付きで恭しく飲み下した。

 薬は抗うつ剤だった。G藤は「大いなる楽観主義者」を自認しているにも関わらず、うつ病の診断を受けていたのだ。G藤は自らの楽観主義と抗うつ剤とを無矛盾なものとして理解していた。うつ病は身体の病気だ、精神の病気ではない。それに私は病気を治そうとして薬を飲んでいるのだ。「病気を治そう」という意志そのものが私の精神の健康を証ししているではないか……G藤はそう自らに言い聞かせた。

 G藤はかつて自殺を試みたことがある。しかし、それにも関わらず彼は自殺者を軽蔑していた。G藤は、「彼らは全くもって世界の素晴らしさを分かっていない」と思っていたのだ。しかしG藤に彼らの自殺を止める気はさらさら無かった。むしろ彼は、そのような者はさっさとこの世からいなくなってしまえ、とすら思っていた。アプリオリに天才として生まれた者でなければ「大いなる楽観主義者」になることは出来ない。生まれ持った胃袋が強靱でなければ、世界にはびこる苦痛や罪悪を快楽として喰らい尽くすことは出来ないのだ……G藤はそのような考えの下に自殺者たちを嘲笑した。

 彼の飲んでいる抗うつ剤には「食欲増進」という副作用があった。彼の旺盛な食欲は先天性のものではなかったのだ。彼はその副作用を意図的に無視していた。また彼は、抗うつ剤を処方される前の記憶、自殺を考えていたころの記憶、痩せこけた悲観主義者だった頃の記憶をも意図的に忘却していた。

 自殺。そうだ、自殺の小説を書こう! G藤はそう思い立ち、自らのアイデアの素晴らしさに身震いを覚えた。

 自殺を食い止めるような小説は書きたくない。そのような無責任なポジティブさは本当の楽観主義ではない。むしろ私は自殺を奨励するような小説、読者の自殺を促すような小説を書こう。その淵から這い上がった者だけが真の楽観主義へと辿り着くのだ。

 そうだ、『若きウェルテルの悩み』だ。ゲーテは二十五歳の若さでウェルテルを自殺させ、八十二歳になるまで生きながらえた。彼の小説に触発されて死を選んだ数多の文学青年とは異なり、彼は超人的な生命力を有していたのだ。それを持っていたからこそ彼は『若きウェルテルの悩み』を書き上げたのだ。

 ゲーテが一日多く生きるたびにウェルテルが一人多く死ぬ。ウェルテルの読者たちに自殺を代行させることによってゲーテは寿命を延ばす。まさしくゲーテはメフィストフェレスだ。だからこそ彼は偉大なのだ。ライオンの足元には草食動物の死骸によるピラミッドが築かれている。ナポレオンは大量の流血によって英雄となった。私も英雄になろう。! G藤の脳内に崇高な交響曲が流れ始めた。深夜のアパートの一室にて、G藤の妄想はしずかに膨張していった。

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