第二話 義元の回想

 この日の朝の今川邸。

 桜や梅といった木々に囲まれた広大な庭園の中には、お茶会に小川のせせらぎを! という主旨で作られた人工の河が流れている。

 その河の畔で――。

 平日なのに稲葉山学園の休校日ということで、お祭り好きのお嬢さま今川義元は朝から退屈していた。本来ならば輿に乗って優雅に「お大名登校」をしているはずなのに!

「ということで元康さん? わらわの暇つぶしに付き合っていただきますわ? さあ、松平家伝来の曰く付きの信楽焼の狸をご開帳しなさい! 箱からお出しなさい! おーほほほほほ!」

「ふえええ? こ、こ、これはその、戦国時代に芦屋を訪れた高僧さまが、人間に恨みを持つ狸の妖怪を封印したという『信楽焼の事故物件』なんですが~? 松平家では『この信楽焼を拝んでいればご利益があるが、開けたら祟り神になる。決して開くべからず』との言い伝えが……」

 早朝から庭園でお茶会を開催させられていた「代々今川家のパシリ執事」を務める松平元康は、早くも青息吐息。眼鏡のレンズが曇っている。

 実家は先祖代々今川家の執事(パシリ)で、元康個人は信奈の幼なじみ(パシリ)と、元康は常に両者の板挟み。どちらを向いても面倒臭い! しかも、セレブな上級クラスを率いる義元と庶民派の一般クラスで暴れる信奈はとことん不仲! あちらを立てればこちらが立たず。まだJKだというのに元康ほどの苦労人も珍しい。

 さらに義元の中ではなぜか空前のオカルトブームが来ているらしく、近頃では義元の命令で単身事故物件に住まわされたりもしている。そのたびに「厭離穢土欣求浄土南無阿弥陀仏」と一晩中唱えながら生き延びてきた元康であった。

「あらあら。元康さんは『亡霊の寿命四百年説』ってご存じ? 亡霊にも寿命があって、だいたい四百年だという説ですわ。その証拠に、二十一世紀に入ってから落ち武者の幽霊を目撃したという話が激減したでしょう? あれは、関ヶ原やら大坂の陣の落ち武者の亡霊が寿命で成仏したからなのですわ」

「は、はあ~。初耳ですが~? 『キメすぎ都市伝説』のネタかなにかでしょうか?」

「テレビ情報ではありませんわ! Voutubeで観ましたもの、確かですわよ」

「ぜんぜん信憑性ないです~。私は石橋を叩いても渡らないほど慎重なのです~。幽霊とか妖怪とかあまり信じていませんけれど、万が一にもほんとうだったら――人生は、重き荷物を背負って坂道を上るが如しなのですよ~義元さま?」

「だいじょうぶだいじょうぶ。生まれながらの勝ち組であるわらわの人生には楽はあっても苦はありませんの! 狸が戦国時代出身でしたら、もう寿命が切れてますでしょう? ほらほら箱をお開けなさい!」

「ふええ、知りませんよ~? こういう時、絶対に祟られるのは実行犯の私で、言い出しっぺの義元さまは被害を受けないんですよ~。うう……人生は不条理ですう」

 元康が震えながら曰く付きの箱を開くさまを、義元は笑顔でスマホ撮影。幸せそうでいいですねっ! と元康は内心ブチ切れていたが、そこは元康、おくびにも出さない。

「わくわく、わくわく。狸の白い影でも映らないかしら? 映ったら即座にテクタクにアップして天晴れバズらせますわよ、おーほほほ!」

「……義元さまが信楽焼の狸のふぐりを見て鼻血を流している姿を、いずれこっそりネットに流してやりたいです~……」

 元康は、ついに義元の圧に推されてご開帳――。

 その直後、元康は「ああ、やっぱり」と自分の不運ぶりに絶望することになった。

 箱の中からどろんと白い煙が溢れだしてくると同時に、信楽焼の狸の口から凶悪な狸相を持ったほんものの『狸妖怪』が「たぬ、たぬ、たぬ。我を目覚めさせるとは愚かたぬ!」と笑いながら素早く飛び出してきたのだから、すっとろい元康は反応する暇もない。

 義元が「まあまあ、落ち武者より狸妖怪のほうが寿命が長いんですのね! 新発見ですわ!」とはしゃぐ中、「あわ、あわ、あわわわ。も、も、漏れ」と悲鳴をあげそうになっていた元康の口の中に、狸妖怪は素早く入り込んでしまっていた。

「あひいっ!? 私、まーたとばっちりですか~? ああ、人生楽より苦ばかりです~」

「まあ、元康さん? 驚きましたわね、妖怪を食べてしまいましたの? はっ? 早朝からお茶会の準備をさせながら、まだ朝食を取らせていませんでしたものね! それほど餓えていただなんて……わらわの落ち度ですわ! さあさあ、おみそ汁を煮込みますわね!」

 義元が天然でボケているうちに、事態は最悪の結果に。

 元康の身体とりわけ唇を、完全に狸妖怪が支配してしまったのである。

「……たぬ。たぬ、たぬ、たぬ……! 芦屋に我が物顔で暮らしている人間の小娘よ! 聞いて驚け見て笑え! 余の名は『だっふん公』! 我、人間に恨みを抱く狸妖怪大将軍なり! これより芦屋を再び狸の王国と成す! 恐れおののくがよいたぬ!」

「だだだ脱糞公ですって!? ああ、ああ。元康さん。なんというお労しい改名を……もうお嫁に行けませんわ! 松平家も元康さんの代で断絶ですわ、自力では身の回りのことを一切できない今川家はどうすれば?」

「脱糞公ではないたぬー! 『奪吻公』たぬ! 余は、取り憑かれた宿主の唇を自在に操るたぬ! ひとたび唇を支配すればしめたもの、身体全体を乗っ取って好き勝手に暴れ放題たぬ! ……あわわわわ、義元さま~お助け~! 口が、口が勝手に動いて……」

「ひいっ、頭からたぬ耳が、お尻からたぬ尻尾が! 元康さんが狸の妖怪に!? これは動画をバズらせるチャンス……どころではありませんわ、どうしてわらわに襲いかかってきますのーっ!」

「みそをよこせ、みそをよこせたぬー! 余はみそがなければ生きていられないたぬ、数百年も封印されていたから腹が減ったたぬー! ……はわわわ。唇だけでなく身体まで乗っ取られちゃいました~逃げてください義元さま~……みそ壷発見! ゲットたぬズザー! ぬぬ面妖な? これは南蛮語たぬか? 宿主の記憶から読み取ったこの時代の言語はいにしえの日本語からかけ離れているたぬ、たぬ、たぬ」

 義元は「出会え出会え~ですわよ!」と邸宅内に詰めていたSPたちに招集をかけた。が、「お嬢さまに仇成す者は成敗よ!」「松平元康どのといえども容赦はせん!」と集まってきた黒服のSPたちは、次から次へと元康(奪吻公)が投げつけるみそを喰らって失神し、倒れてしまった。

「わらわは関西随一の名門令嬢! みそ臭くなるのだけは御免ですわ!」と義元だけは分厚い十二単でみそをガードして顔への被弾を避けたが、いったいどうしてみそにこれほどの力があるのか理解できない。妖怪はやはり人の理を外れているらしい。

「SPの皆さーん? 返事がありませんわ? まさか狸さん? 皆さんの命を……」

「無粋な! 貴様ら人間どもと余を一緒にするなたぬ。命は取らぬたぬ。ただし――」

「ただし」の先を聞いていられるほど落ち着いている義元ではなかった。

「そ、そうですわ。元康さんに憑いた狸を、信楽焼に封印し直せば……! あれこれお経なり祝詞を唱えればどれかが効くはず! 雪斎さんから仏教神道の神髄をあれこれ教わっているわらわのお嬢さま力にひれ伏しなさい、狸妖怪さん。おーほほほ!」

「やらせはせんたぬー! この忌まわしい信楽焼は、余が憑いたすっとろい娘のメガトンパンチで叩き壊すたぬー! これで余はもう封印されないたぬ、自由たぬ!」

「しまった、向こうのほうが信楽焼に近い? 先手を取られましたわ!?」

 ぺちん。

「ぬおっ、ぜんぜん威力がないたぬっ? 弱っ! 松平元康、弱っ! むしろ拳が痛い、痛いっ! 戦国時代であれば小娘でも信楽焼くらい一撃で粉砕できたのに、この時代の人間、弱っ!? 身体が馴染めば凄まじい怪力と敏捷さを得られるものを? かくなる上はわが尻尾で……やめてくださーい乙女に無断で尻尾とか生やさないでくださーい私はケモガールではありませーん事案ですうー!」

「おーほほほ! ナイスアシストですわ元康さん! 尻尾トルネードを繰り出すモーションが大きすぎますわよ、狸さん!? 今の時代のバトルはスピード勝負なのですわ! 秘技! 白鳥風流円舞! 信楽焼を、わらわの黄金の脚でぱっかーん!」

「って義元さま、全力で蹴り入れてどうするんですかー割ったら終わりじゃないですかー! バッカじゃなかろかルンバ! たぬ、たぬ、たぬ!」

「あーっ? いつもの癖で、やってしまいましたわーっ!? 蹴鞠と間違えましたわ!?」

 考えずに脚を動かす癖がある今川義元、痛恨の判断ミス。

 せっかく信楽焼の正面へと滑り込んでいながら、腕で掴み取らずに脚で蹴り飛ばしてしまった。

「「あーっ!?」」

 幸い、信楽焼は岩や地面には当たらず、河に落ちたために破壊だけは免れた。だが、どんどん河を流されていき、義元と狸妖怪の視界から消えていった。森の中に入ってしまったたぬ! あれを発見して壊さねば! と元康の唇に憑いた狸妖怪が悲鳴をあげる。

「正確には森ではありませんわ。このあたり一帯は今川家の私有地ですのよ、おーほほほ!」

「なんだとたぬ? 人間許さぬたぬ、芦屋はわれら狸の楽土たぬー! えーい! このすっとろい娘の記憶を照合しても、今川邸全体のMAP情報が入っていないたぬ! 土間だの厨房だの『Z級奥三河民エリア』のMAPしか見えないたぬー! 全体のわずか一割!」

 狸妖怪は困惑していた。執事=使用人の分を卑屈なまでにわきまえた松平元康が今川家に遠慮して邸宅敷地内の「SSS級今川家エリア」に立ち入らなかったことが幸いした。

 たとえ腹痛を起こしても、医者にかかるとお金が飛ぶという理由で「奥三河民なら雑草を食べていれば治ります~」とそのへんの雑草を採集し、松平家に伝わる漢方薬「八味地黄丸」を自力で調合して治してきた。そんな貧乏性の元康の勝利であった。

「ならば今川の姫、うぬの記憶を頂くたぬー! さすれば河のルートを掌握し、信楽焼を回収して破壊できるたぬ! 信楽焼さえ壊せば、わが霊力を用いてこの城塞レベルの防御力を誇る今川邸を根城に割拠し、芦屋を再び狸の王国に戻せるたぬー!」

「あーれー! 獣娘にされるのは嫌ですわー! わらわは一時、戦略的に撤退いたしますわよ! 元康さん、援軍を呼んできますから少々お待ちになってー!」

「それまで私このままなんですかあ? 置いていかないでくださーい! ふええええん!」

 ……

 ……

 ……

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