02. 不思議なこびん
昨夜——真夜中のことだ。トイレに起きたぼくは、ちょうど、リビングダイニングに続く扉の前に差しかかった。
お化けが怖くないのかって?
別に怖くないよ。「お化けよりも怖いのは人間だ」って、お父さんもお母さんも言ってたからね。
真夜中だし、リビングにもダイニングにも、当然キッチンにだって、誰も居ないはずなんだ。みんな、ベッドルームですっかり寝静まっているからね。だけど、どうしてか、リビングダイニングから、人の話し声がする。
本当は、ちょっぴりドキッとしたけれど、大声で騒いだりはしないよ。代わりにぼくは、じっと息を潜めて聞き耳を立てた。
ぼくに理解できる言葉だから、会話は英語だ。だけど不思議なもので、コッツウォルズでは耳馴染みのない、ロンドンの
泥棒だったらどうしようと思ったけれど、もし本当に泥棒なら、きっと、とっても間抜けな泥棒だと確信したよ。会話の内容が、あまりにも馬鹿馬鹿しくて、
「こぅら! まぁた、つまみ食いなんっして!」
「だーって、お腹すいたよぉ。育ち盛りなんっから!」
「だぁからっ、朝食用の『かたやきパン』、すーっかり食べちまうお馬鹿があるかい! どうすんだい、明日の朝はぁ!」
「だーって、それっか、なかったんもーん」
こんな会話、泥棒が、するはずないじゃないか。盗みに入って、つまみ食いで言い争いをするなんて、プロの犯行とは思えないし、第一、おばあちゃんお手製かたやきパンは、朝になるまでオーブンに入れないから、今は一つもないんだ。
じゃあ、お化けだろうか。
お化けと仮定して、やっぱりお腹が空くものだろうか?
ぼくは、ついつい好奇心に負けて、そっと、リビングダイニングの扉を開けて忍び込んだ。暗い中で目を凝らながら、耳を済ませて、そろり、そろりと床を這う。
会話は、キッチンダイニングのテーブル上から聞こえてくる。
そっと立ち上がって確認すると、目の前には、茶色の小びんが置かれていた。きっと寝る前におばあちゃんが、棚からこっちに移したんだろうけれど、小びんは、一人二役で喋るものだろうか。
「わっ、わっ……!」
「馬鹿、およし!」
茶色の小びんは、それから慌てて黙りこくったけれど、ぼくは確かに聞いた。今の今まで、この小びんは喋っていた。確かに、喋っていた。
ぼくは、寝ぼけているわけでもないし、夢を見ているわけでもない。ちゃんと起きて、トイレにだって、ちゃんと一人で行ったんだから。
翌朝、ぼくはさっそく、おばあちゃんに昨晩の出来事を話して聞かせた。さっきから、おばあちゃんは、ただニコニコと笑って頷いているばかりだ。
「ねえ、おばあちゃん。あの小びんは、生きてるの?」
小びんが生きているなんて、おかしな表現だと思うけれど、生きていなければ、お腹が空くはずない。それに、小びんは育ち盛りだと自分で言っていた。
すると、おばあちゃんは、「もちろん、生きているよ。だから、大事におし」と、ニコニコしながら答えたんだ。
「茶色の小びんは、かたやきパンが好きなの?」
ぼくは、もう一つ尋ねてみる。
「おや、なぜだい?」
「かたやきパンをつまみ食いしたって、言い争いしてたんだ」
ぼくがそう告げると、おばあちゃんは、大笑いしながら、丸い背中を伸ばして仰け反った。しわしわの口が大きく開いて、やせた歯を見せながら、珍しいくらいの大笑いだ。
あまりの笑いっぷりに、キッチンにいたお母さんが、何事かと首をかしげながら、こちらを覗き見る。
「そうかい。ビンさんが、かたやきパンをね、それはゆかいだね!」
おばあちゃんが本当に楽しそうに笑うから、ぼくはちょっとだけ、おふざけついでに言ってみた。
「茶色の小びんに、何か差し入れをした方がいいかな? 育ち盛りみたいだから」
もちろん、これは冗談だ。
けれど、おばあちゃんは大きく頷きながら、大賛成するんだもの。これは、逆にぼくが、からかわれたのかな。
それから、ぼくは、ますます小びんを注意して観察するようになった。宿題の合間、手伝いの合間、ぼくは一日に必ず三回は、小びんの様子を近くで確認するようになった。
「ノリー。どうしたの? ぼうっとして」
戸棚の前で頬杖をついて、ただじっと小びんを観察していると、お母さんが時折、心配そうに声をかけてくる。ガラス戸棚には、入れ替えたおばあちゃんのお気に入り、エンズレーのカップとソーサーが、きちんと並んでいる。
気が付くと、ぼくは一日に何度も、茶色の小びんのことを考えるようになっていた。
おばちゃんは相変わらず、マイペースにのんびりと、日向ぼっこがてらに、窓際で揺り椅子を揺らしている。そんな視線の先をたどると、おばあちゃんのハーブ
ぼくは、この時、初めて「あれ?」と思った。
ぼくの知るかぎり、おばあちゃんは、いつでも椅子の上の人であり、たまに杖を片手に立ち歩いても、こまめに手入れをできるほど、長く外にはいられない。だからこそ、ぼくはなるべく、庭のお手伝いをするようにしているんだ。
ぼくがいない間は、どうしているんだろう。
「もしかして、茶色の小びんが、おばあちゃんの代わりに手入れしてたりして!」
ぼくは、笑いながら冗談を言う。
いくら「魔法の小瓶」でも、手足もないのに、動き回るわけ、な——
コツーン……
何気なく振り返ったとき、ちょうどタイミングよく、茶色の小びんは独りでに棚の上で横倒しになった。誰も触っていないし、近付いてもいない。風だって微塵も吹いてやしない。
「まさか、そんなわけ……」
ぼくは頭の中で、茶色の小びんが、せっせとおばあちゃんのハーブ花壇を手入れしている姿を想像してみた。それは、とてもシュールな光景だった。
どうしよう。
このままでは、ぼくは確実に、典型的なおかしなイギリス人になってしまう。
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