茶色のこびん

古博かん

01. コッツウォルズの古屋から

 ぼくのおばあちゃんは、小川のほとりに建つ、小さな古屋に一人で住んでいる。

 イングランドの真ん中あたり、コッツウォルズ地方アーリントン・ロウ地区——十四世紀頃の町並みが、ほぼ完璧な状態で保存されている、イギリス屈指の観光名所。その一角、コルン川沿いに、おばあちゃんの家はある。


 ライムストーン色の町並みは、御伽噺おとぎばなしの世界に入り込んだみたいで、ぼくの、大のお気に入りだ。


 こんにちは。

 ぼくは、ノリー。

 本名は、オリバー・ポール・アンダーソン。公立小学校プライマリースクールに通う九歳、四年次生イヤー・フォーだ。今ちょうど、学期中間休み期間ハーフ・タームを利用して、ロンドン北西部から、ここ、コッツウォルズのおばあちゃん家に遊びに来ている。


 その休みは、何かって?

 そんなこと、考えたこともないや。勉強のし過ぎは、体に良くないってことじゃないかな。どんな休みだって、ぼくは大歓迎だいかんげいだ。


 ぼくのことは、これくらいにして、おばあちゃんの話を続けるよ。


 ぼくのおばあちゃんは、日がな一日、窓際の揺り椅子に腰掛けて、のんびりと外の景色を眺めては、一人で何やら呟いて、それから、にっこりとガラス戸棚にしまった茶色のこびんに向かって、微笑んでいる。

 戸棚の奥、おばあちゃんお気に入りのスポードの青皿の隣に置かれた茶色のこびんは、いつでもピカピカに磨かれていて、おばあちゃんは、いつも言うんだ。「あれは、魔法の小瓶なんだよ」って。


 イギリス人は空想好きで、お化けや妖精の存在を信じている、ちょっと変わった人が多いって偏見を持たれがちだけど、ぼくは違う。でも、残念ながら、ぼくのおばあちゃんは、その典型的な、イギリス人なんだ。


 だいたい、魔法の小瓶って何だい?

 魔神でも出てくるの?


 そんなわけで、お父さんもお母さんも、そんな時は、呆れ顔で首を振るばかり。そして決まって、ぼくにおばあちゃんの相手を押し付けて、こう言うんだ。「おばあちゃんは、お歳を召しているから、黙って聞いてあげて」って。


 トシがトシなのは、ぼくにも分かる。おばあちゃんは、すっかり足腰が弱ってしまって、杖がないと出歩けない人だ。

 庭に散歩に出るときは、ちゃんと空いてる手を引いてエスコートするし、庭で育てているハーブの手入れだって一緒に手伝ってあげる。ぼくは、立派な紳士だからね。


 それに、おばあちゃんの、ゆったりとしたお喋りも、ふいに口ずさむ古い民謡も、聞いていて、とても楽しい。


 ぼくは、思うんだ。

 お父さんもお母さんも、おばあちゃんはしているって言うけれど、おばあちゃんは、いわゆるなんじゃないかなって。


 つい昨日だって、お母さんが忙しそうに、昼食の準備をしていたときだ。

 窓の外を眺めながら、「今日は本当によい天気だねえ、ビンさんや。ああ、のんびりするねえ」と言って、おばあちゃんは、目を細めて満足そうに一人で頷いていた。


 因みに、お母さんの名前は「ビンさん」ではない。

 お父さん曰く、「ヨメ・シュウトメ問題は、古今東西、世の男性の悩みの種」なのだそうだ。ぼくとしては、みんな仲良くしてくれると嬉しい。


 そんな時でも、お母さんは、ムッとしながら黙って立ち働くけれど、二人が喧嘩をしている姿は見たことがない。

「おばあちゃんは、お歳を召しているだけだから、悪気はないのよ。優しくしてあげましょうね」

 お母さんは決まって、そう、ぼくに言う。

 だから、ぼくも決まって、こう答えるようにしている。


「わかった。ぼくは、頑張ってるお母さんのことが、大好きだよ」


 お母さんは、お花みたいに、にっこり微笑んで「ありがとう。わたしもノリーのことが大好きよ」と返してくれる。


 そんな風に、みんなでおばあちゃんを見守っているわけなんだけれど、それでもやっぱり、おばあちゃんを理解できないことはある。それはつまり、そういう時もあるというだけで、決して、おばあちゃんを嫌いになったりはしないのだけれど、特に理解できないのは、例えば、こんなことだ。


「今日のご機嫌はいかがかね、ビンさんや? おや、そうかい、そうかい。それは大変だったねえ」


 キッチン脇に置かれた、飴色に変色した古い木製食器棚の前に、わざわざ茶色の小びんを持ち出して、ニコニコしながら頷いているときなんか、まさにそうだ。普段から、棚の奥に置いてある空っぽの茶色の小びんに向かって、せっせと話しかけているところに、よく居合わせる。

 どうやら、おばあちゃんは、毎日話しかけているらしく、日に数度、多いときは何回でも、子供なりに多忙な日常を過ごすぼくでも目撃するくらい、頻繁ひんぱんに小びんに話しかけている。


 前の休みに、遊びに来た時は、もっと散々なことがあった。

 お母さんが、何気なく窓辺に置いてあったおばあちゃんの、空の小びんを捨ててしまったことがある。

 今は使っていない——と、おばあちゃん自身が言っていた小びんだ。


 おばあちゃんには、困った収集癖があって、たくさんの小びんを集めている。一つくらい無くても、誰も困らない——結局それは、お母さんのお節介だったのだけれど、おばあちゃんは珍しく、丸くなった背中で、お母さんに食ってかかった。

 その後は、外に設置してあるダストボックスを全部ひっくり返して、何時間もかけて、小びんを探していたんだ。


 お父さんがなだめても、お母さんが涙ながらに謝っても、おばあちゃんは、この時ばかりは、決して聞く耳を持たなかった。


 夜も遅くなってから、おばあちゃんは、ようやく戻ってきた。もちろん、茶色の小びんと一緒に。さすがのぼくも、これには呆れるやら、怖いやら、それすら通り越して、感心していたような気もする。


「おばあちゃん。何で、そんなに小びんが大事なの?」

 そう尋ねてみたことがある。


「いつか、お前にあげようね」

 おばあちゃんは、ニコニコ笑ってそう言った。ぼくの質問には、答えていないし、ぼくには小びん収集癖なんてないから、正直いらないしと、困ってしまったことは、よく覚えている。


 今、思い返せば、おばあちゃんは、どうやらこの時、ぼくを小びん遺産相続人に、勝手に決めてしまったようだ。あれから遊びに行くたびに、おばあちゃんは頻繁に、ぼくに小びんの話をするようになった。


「うーん、どうしよう。エンピツ立てにするとか?」

「おやおや。エンピツは、よくないねえ。その小びんは、とても大事なものなんだよ」

 正直に言うと、ぼくには、おばあちゃんの価値観は、よく分からない。


 だけど、おばあちゃんが何のヘンテツもない、ただの小びんをとても大事にしているのは事実で、とても価値のあるものだと信じていて、その大事な小びんを、ぼくに託そうとしてくれる、その気持ちは大事にしたい。


 しかし、あちらを立てれば、こちらが立たず。

 こちらを立てようとすれば、あちらが立たない。

 さて、どうしたものか。


「なあに。今すぐって話じゃないから、まずは、観察することから始めてみたらどうだい、ノリー?」


 難しい顔をして小びんと睨めっこするぼくを見て、おばあちゃんは、ぼくの頭を撫でながら、そう提案する。

「分かった。そうしてみるよ」

 他に、特にナイスアイディアと思えるものが、浮かばなかったぼくは、ひとまず、おばあちゃんの提案を受け入れてみることにした。何事も、頭ごなしに否定するのはナンセンスだって、昔、おじいちゃんが言っていたからね。


 それから、ぼくは少しだけ、茶色の小びんを気にするようにしたんだ。不思議なもので、気にし始めてからは、何だか、おばあちゃんの言うことに、妙な信憑性が生まれたような気がする。


 訝しがらずに、聞いてくれると嬉しい。


 つい、この間のことだ。

 ぼくが、たまたまガラス戸棚の横を通りかかったとき、どこからか「ガッシャン」と、物音が聞こえたんだ。何か硬い物を落っことしたような音だったんだけれど、音のした方を振り返ると、そこには、茶色の小びんだけが、ポツンと置いてあった。周りに、壊れた物はない。

 おばあちゃんお気に入りのスポードの青皿は、ちょうど他のお気に入りと、入れ替えるために片してしまったからね。


 だから、音がしたと思ったのは、きっとぼくの気のせいだから、黙ってその場をやり過ごそうとしたんだよ。そしたら、また、音がしたんだ。


 ガシャ、ガシャ、ガシャン!


 今度は、やたらとハッキリ聞こえたものから、さすがに気のせいとは思えなくて、でも、音のした方を振り返ると、そこには、やっぱり茶色の小びんしかなかったんだ。


 おかしなことも、あるもんだと思いながら、でも、ちょっとだけ、茶色の小びんを疑ったよ。


 だけど、ぼくは冷静沈着な紳士だ。紳士は、滅多なことで動じたりしちゃダメなんだ。物事は、理論的に考えなければいけないわけで、すると、小びんが独りでに音を立てるなんて、非常におかしなことだ。


 だから、ぼくは、気を取り直して、この時は戸棚の横を、そのまま通り過ぎることにしたんだよ。ただし、それからは、もっと注意深く小びんを観察することにしたんだ。

 すると、茶色の小びんは、ますます、おかしなことにあふれているって、気が付いてしまった。


 ぼくも、典型的なイギリス人だって?

 ちょっと心外だけど、まあいいや。とにかく、話の続きを聞いてほしい。そのあとで、ちゃんと意見を聞くよ。ぼくは、とても公平フェアなイギリス人だからね。

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