朝靄と黄昏の二日目
昇り始めた朝日が平原に堆積する
「ふぬぅうぅう」
「ほら、どうしたの、チャヤ! そんなもの? 手足だけで押そうとしない! 腹にも力を込める!」
停められた馬車から離れた所で、チャヤとシオリは取っ組み合っていた。朝稽古だ。
チャヤの突進がシオリに受け止められ、物足りないと言わんばかりに挑発された。
煽られ、夜露に濡れる若草を踏みしめ、少女は唸りながら必死に押す。が、師匠はものともしない。チャヤの額に汗が滲み始める。
シオリにしばらく耐えられ、チャヤは発破を掛けられ続けた。それでもシオリを押し込めないでいると、シオリの腕が伸びてきて脇腹に掌を付けられる。
「攻守交代! しっかり踏ん張りなさい!」
チャヤ以上の体格と膂力、そして培ってきた技術の重み。それらが駆使され、硬い脇腹に掌底がめり込むのを感じた。
「はきゃ……ぅうううぅううう~~」
チャヤは地面を踏みしめて耐えようとした。だが押し返される。噛み合わせた歯の隙間から声が漏れるばかりで、ずるずると後退させられていく。
まだ背の低い草を敷き潰しながらなすすべなく押し戻され、ついには馬車近くまで戻される。
「ぶぎゃっ」
最後には、稽古を眺めていた仲間三人と御者の前で、シオリに《まわし》を掴まれて放り投げられた。ごろんと転がされ、大の字になったチャヤの荒い吐息が朝靄に混じった。
――強い……。
◇
「なかなか……師匠に勝てません……」
チャヤがポツリと呟いた。馬車から見える景色に木々が増えてきた頃だ。
両足を抱え、長身を折り曲げて座る彼女に視線が集まった。
「そう簡単に勝たせてあげるわけないでしょう。腐ってもあんたの師匠なんだから」
シオリが自慢気に胸を反らすと、豊満な乳房が揺れた。
「ああ。シオリさんに勝つのはなかなか大変だぜ……」
「
今朝の稽古に後から加わったテランスが肩を落とすと、マリーズがからかい半分で朝の対戦結果を告げた。彼は今回は言い返さず、悔しそうに頭を掻いた。
前衛の若者二人が相次いで悔しそうな表情をしていると、シオリが楽しそうな笑みを向けてくる。
「明日は二人がかりで挑んでもいいのよ? 連携の訓練にもなるでしょ」
「うお、シオリさん、さすがにそれは……」
「やりますっ。テランスさん、師匠に土を付けてやりましょう」
珍しくチャヤが前屈みになり、しかも乗り気だった。テランスも物静かな彼女の変化に驚いたようだった。
チャヤは普段からシオリにもサヤカにも負け続けているため、勝つ機会に飢えているのだ。
拳を強く握るチャヤだったが、秘める闘志が周囲には伝わりにくく、むしろ頑張りを応援するような微笑ましい視線を向けられた。
◇
二日目は日中何事もなく、旅路は順調だった。
日が沈む前に馬車は停まり、夕食の準備が始まり出す。御者は馬たちを車から放し、近くの木に手綱をくくった。若く健やかな馬たちは下草を食み始めた。
「チャヤさん、手伝うことある?」
チャヤが川魚の酢漬けを人数分のパンに挟んでいると、手持ち無沙汰のエタンが声を掛けてきた。
気遣ってくれた彼に、特に手伝ってもらうことが無いとは言えず少し思案した。
「挟み終わったら火に掛けるので……じゃあ、一緒に焼き加減を見ますか?」
「うん、わかった」
パンの焼ける臭いと酢の臭いが混じり合い、緋色の空に昇っていく。シオリとマリーズはスープを取り分けているし、テランスは林へ薪を集めに行った。御者は馬たちにブラシを掛け始めている。
チャヤは来た道を振り返った。たった二日の道のりは、住み慣れた街を見えなくするには十分だった。残って働き始めたサヤカは寂しくないだろうか。いや、しっかり者のサヤカのことだ。もう屋敷の面々に気に入られているのかもしれない。
師匠に目をやると、彼女も東の空を見上げていた。すでに星が輝きだしている。東には娘がいて、西には夫の手掛かりがあるのかもしれない。
その二つの間で、時折馬たちが蹄を鳴らす音を聞きながら、師匠も自分も一緒に料理をしている。そう考えると、何とも不思議な気分だった。
「チャヤさん、そろそろいいんじゃない?」
「えっ……あっ、ごめんなさい。ぼうっとしてました」
エタンに言われ、フライパンを火から離した。後は余熱だけでちょうど良い焼き具合になるだろう。
彼が各自の皿にパンを移し始める。それを見ながらチャヤは意を決した。
「あの……エタンさん、ちゃんと言えてなかったんですけど……」
「え? 何かな」
「お尻……洗ってくれてありがとうございました……」
「き、気にしないでよ」
『洗浄』の加護によって、汚物まみれになった恥部を洗ってもらった礼だ。
ぎこちないやり取りの後、しばし二人は無言になった。パンを皿に乗せ終え、チャヤが赤面しながらシオリたちには聞こえない声量で尋ねる。
「お尻……見えましたよね……?」
「えっ、み、見てないよ!?」
「……本当ですか? 信じますよ?」
「……ごめん、加護を当てる位置を確かめないといけなかったから、少し」
言われるとチャヤは恥ずかしさと申し訳なさで、体の火照りを感じた。
彼は目を泳がせながらも正直に言ってくれた。チャヤは同時に今まで黙っていてくれた感謝も覚えた。
「川に辿り着くまであのままなのは嫌でしたから……。ありがとうございました」
「怒っていない?」
「な、何でですかっ。私こそあんな汚いもの見せて。嫌でしたよね?」
「いやっ、気にしてないからっ。チャヤさんは体を張って僕たちを守ってくれたし」
二人の声は次第に大きくなっていて、シオリもマリーズも二人を見ていた。内容も聞こえてないだろうか。
「あんたたち、食事の前にお尻の話をしない」
シオリの言葉に、二人とも赤くなった。
チャヤには旅の前からずっと懸念していることがまだあった。
配膳をしながらエタンに寄り、わずかに屈んで彼の耳元に口を持っていく。
「もしおねしょしたら、また洗ってくれますか?」
秘密を一方的に打ち明けられた小柄な彼は、「え」と戸惑いの声を出し、真偽を確かめずに返答してくれた。
「うん」
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