寂しがり師匠
チャヤの薄れていた意識が戸惑いとともに覚醒していく。
立っていたのは、黒の
――どうして師匠が?
チャヤが声に出すより早く、シオリの豊満な上半身が沈んだ。
鋭い踏み込み。地面をすり足が滑走する音だけが聞こえ、直後、突っ張りの三連撃が炸裂する。鳩尾、顔面、そして下腹部。
「チャヤ。言ったわよね? 相手をよく観察しなさい、って。みんなもアイツの弱点を見落としてない?」
師匠が全員に言った。
シオリの登場に呆然としていただけの四人が、亀鬼に目を向けた。
――……左足……血が流れてる?
チャヤが気付き、みんなも左足に注目した。
濃緑色の体色に紛れて気付かなかった。左の太ももから出血しているではないか。
元から手負いだったのだ。それに誰も気付かず、一方的にパーティは壊滅させられそうになってしまっていた。
「ここよ。はああっ」
シオリがためらいもなく亀鬼の傷を蹴りつけた。
敵の大声が穴に反響し、亀鬼は脚を手で庇う姿勢となり、体が折れ曲がる。怒っていた敵の目に『怯え』が見え始めた。
「『試合』は弱点を突かず、『勝負』は弱点を突く。チャヤ、あんたは
亀鬼の呻き声の中で、シオリの声が凛と通る。倒れたままのチャヤは、思い当たって「うぅ」と声を漏らして認めた。
そして、シオリは再び距離を詰める。一瞬で懐に入り、一気に
敵は痛む左足では踏ん張れず、右足が地面から離れた。
すぐさまシオリは体を起こして立ち上がると、亀鬼の右足が完全に浮き上がる。すかさずシオリは右手で敵の喉を掴み、体を寄せて押し倒していく。
「『
倒された亀鬼の後頭部が地面に激突し、唾液が飛び散った。
しかし、これで技は終わらない。
シオリは足を掴んだまま、敵を跳び越す。亀鬼の右足が可動域以上に広げられ、ベキッ、と鈍い音を鳴らせた。
蝗の脚を掴んで墜落させ、さらにはその脚をもぎ取るという意を込められた技を受け、亀鬼は白目を剥いた。
「ふぅ……やっ!」
シオリは立ち上がり、片足を高く持ち上げる。そして敵の首に
東方で言う『
頸椎と気道を潰され、亀鬼はピクリとも動かなくなった。
シオリは四人が絶望を味わわされた相手を、一人で、しかも苦も無く倒してしまったのだ。
「チャヤ、大丈夫? あんたって子は、またうんち漏らして……まだまだ、まだまだまだまだ精進が足りないわよ」
「……ううぅ……うあぁああん……怖かった……怖かったよぉお」
シオリに優しい目で覗き込まれる。安堵したチャヤは泣き出した。
◇
数時間前。今朝のことだった。
自宅にいたシオリは、サヤカが買い物のために街へ出掛けると、大きなため息とともにテーブルに突っ伏した。
サヤカが領主の屋敷のメイドに採用され、家から出ていくことが決まったのだ。
サヤカ本人から告げられたのは昨夜だった。その時は、頑張りなさい、と強がって言ったものの、一夜明けても寂しさが強まるばかりだった。
夫はいない、娘は家を出る、弟子は冒険者になった。チャヤの所属したパーティの面々はこの街に定住しないと言っていた。チャヤもいずれこの家を出て、街からも離れるのだろう。
この家に独りぼっちだ。虚しさが染み出してくるようで、またため息を吐いた。
ふと、チャヤのことを思った。
クエストに出て、昨夜は帰ってこなかった。
ヌンベル沼には危険なモンスターはいないだろうが、パトロールに時間が掛かっているのだろうか。それ以前に、気弱で人見知りなあの子はパーティで邪険にされていないだろうか。
――見学よ、見学。講師だし、いいわよね。
過保護と分かってはいても、シオリは自分に言い聞かせるように立ち上がった。
沼へ向かう途中、別の冒険者パーティと遭遇し、クエストの討伐対象である亀鬼に逃げられたことを知った。上流の生息域から川を下ったとのことだった。
まさかとは思いつつ、沼へ向かった。
シオリは猟師小屋と保管用の横穴があったことを思い出し、向かうと、穴から戦闘音が聞こえてくるではないか。
亀鬼にチャヤが踏みつけられていた。――いつかのように糞尿まで漏らして、臭気を発生させて。
――うちの弟子をよくも可愛がってくれたわねぇ……。
まだ少女に息があることに安堵したのもつかの間、強い闘気を纏い始めたのだった。
そして、寂しがりなシオリの過保護さが、結果としてチャヤたち四人を救った。
◇
「あ~、よしよし、いつまで泣いてるのよ……相変わらず泣き虫ね」
横穴の出口、シオリはチャヤの隣に座り、肩や背中を優しく叩く。慰めの言葉を掛けるたび、少女の嗚咽が大きくなるが放ってはおけない。
隣の少女は一糸まとわぬ姿。他の三人はどこか離れた場所で治療に専念しているはずだ。
チャヤには《修道士》エタンに『回復』の加護を掛けてもらい、大きな怪我は治してもらった。
さらには『洗浄』の加護で汚物を洗い流してもらい――。年頃の男子に乙女の
「あの子たちを逃がすために奮闘したなんてね」
普段は臆病なのに、必死に戦っていたのだ。その姿に成長を感じた。だが、弟子のさらなる成長のためにはこうも言っておかないといけない。
「でも戦意喪失は絶対にだめ。あんたは諦めが早すぎるの。泣いても漏らしてもいいけど、必ず生き残りなさい」
言い聞かせるように発した。敗れた少女には酷かもしれないが、師匠として弟子にできるだけのことを伝えたい、そう思った。
「まだ冒険者を続ける?」
試しに尋ねてみた。
意外に芯が強いこの弟子がどんな反応をするかと思ったが、予想通りだった。びくりと肩を震わせた後、こくりこくりこくりと、何度も
怖がりのくせに頑固。
そう思うことがこの六年間で多々あった。
孤児院を離れて今の街へ来て、寂しくて泣いているのに弱音は吐かない。
稽古で年下のサヤカに何度も負けて、悔し泣きしているのに稽古を止めない。
過去のことを振り返っていると、ふと思い出した。
『――私が代わりにパテュースさんを探しにいきます!』
昨日の朝、チャヤに向けられた言葉を。
「あんた、もしかして……本当にパテュースを探すつもりなの?」
また何度も首を縦に振られた。
シオリは「おせっかいなんだから」と呟いた後、チャヤの
「サヤカが働くことになったから、私も時間ができるし……あんたもまだまだ頼り無いから、私も一緒に探してあげるわよ……特別だからね?」
チャヤに驚いた顔を向けられると、少女の口元がわずかに
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