塞がれた出口

 横穴は途中で右に折れていた。マリーズの杖先の『灯』が照らすと、すぐに行き止まりとなり、亀鬼童タトラス・キッドが潜んでいた。

 ギーギーと威嚇する相手にテランスが盾を構えて迫る。動きの鈍い亀鬼童はあっさりと喉を突き刺され、しばらく手足を動かして暴れたが、やがて崩れ落ちていった。


「はぁはぁっ……なあ、ここで解体するか?」


 テランスが肩を上下させながら尋ねると、マリーズは首を横に振った。


「外に運びましょう。『灯』を灯し続けるのも魔力を使うし」

「この穴も誰かが使うかもしれないし、運び終わったら僕が『洗浄』を使っておくよ」


 エタンが血まみれの地面を指差した。光神の加護によって生み出される聖水で洗うつもりらしい。

 テランスをチャヤが手伝い、二人で死骸の両腕を掴んで引きずる。甲羅と小石が擦れ、ギャリギャリと嫌な音が響いた。

 その不快な音響もあってだろう。

 ズシャリ、という歩行音に四人は気づくのが遅れた。


「がうあっっ!?」


 突如、エタンが背後から右肩を襲う衝撃に弾き飛ばされる。カランッ、と錫杖が手を離れて落ちた。

 驚愕した三人は振り返り、見上げた。

 『灯』に照らされたのは、二メートル近い高さの天井に迫る濃緑色の巨体。

 全身を覆う鎧のように硬質化した皮膚と、その皮膚をはち切らせんばかりの筋肉。前面から見えるほど肥大化した甲羅。そして、猛禽のように先端が鋭利なくちばし


亀鬼タトラス』だった。幼体ではない、成体の。


 巨体は、エタンを殴り飛ばした握り拳をゆっくりと下し、ズシリ、と一歩迫った。


「な、な……」


 亀鬼は、目を見開いているマリーズを見下ろし、脚の刀傷の痛みなど意に介さず再び拳を構え始めた。


「マリーズ!」


 とっさに反応し、マリーズの前へ飛び出したテランスは果敢であった。だが、抜刀する時間と余裕はなく、円盾を掲げて彼女を庇うのが精いっぱいだった。


「ぐぅあああっっ!」

「いぎゃああっ!」


 二人の悲鳴が重なる。

 盾に拳の跡を残すほどの剛力で殴られ、テランスは左腕の激痛をともなって弾かれる。彼は背後のマリーズも巻き込み、二人とも吹き飛ばされる。

 二人は幼体の死骸に激突して止まった。

 直後、マリーズの杖から『灯』が消えた。一気に暗がりに包まれる。亀鬼の背後から入るわずかな陽光は、その巨体をシルエットとして浮かび上がらせた。


「エタンさんっ、マリーズさんテランスさんっ!?」


 チャヤは声を引きつらせた。数秒の内に三人が倒され、皆が痛々しい呻き声を上げているのだ。

 彼女自身の鼓動も早い。体が強張っている。亀鬼がまた一歩迫ると、その巨体が地面を揺らし、チャヤの裸足に振動が伝わってきた。

 亀鬼が嘴をわずかに開き、ギィバァアアという音とともに生臭い息を吐いた。音は狭い穴に反響し、チャヤのほうにも臭気が漂ってくる。


 ――う、ううう、ううう……。


 腕と膝が小刻みに震え始めた。

 だが、チャヤは歯を食いしばり、目の前の巨体を必死に睨んでいる。

 以前にもこんなことがあった。忘れもしない。今も時折夢に見る角猪ホーン・ボアとの遭遇だ。

 あの時はまだ自分は子どもだった。しかし今は違う。体格も大きくなり、力も技も鍛えられてきた。

 そして、今立てているのは自分だけだ。


「はぁっはぁっはぁっ」


 呼吸は早いままだが、固まった体を無理矢理動かす。腰を落とし、亀鬼を睨み上げる。

 刹那、大きな拳が顔面に迫ってきた。

 チャヤは必死に上半身を横に振り、耳元に風切り音を聞きながら避ける。煉瓦れんが色の髪が巻き上がるが、構わず姿勢を低くしていく。


「『轟車ごうしゃ押し』っ」


 拳を避けられて無防備になっている相手の懐に入り、当たっていく。頭と両掌の三点で亀鬼の胴を押す。

 不意を突かれ、敵がよろける。が、すぐに体勢を直され、押しが止められた。体格差と、巨大な甲羅を含めた体重差があまりに大きい。


「みなさんっ、私が……押さえますっ……早くっ、外へっ」


 背後の三人へ伝えると、三人は肩を貸し合いながら立ち上がる気配を感じた。すぐに再び穴の中が明るくなる。気丈なマリーズがまた『灯』の呪文を唱えたのだ。

 チャヤが組み付いていると、亀鬼が拳を振り落としてきた。

 脇腹。背中。また脇腹。殴られた箇所に熱が走る。

 《まわし》の加護が無ければ、とっくに骨や内臓が損傷しているだろう。しかし、加護のおかげで辛うじて耐えている。辛うじてだ。

 だが、問題は相手の長い腕だ。通路を塞ぐように腕を振り回しているせいで、マリーズたちがなかなか脱出の機会を掴めない。


「づっ、ぐうううっ!」


 チャヤが苦悶の表情を見せた。今度は背中に尻にと爪を立てられ、密着着レオタードが引き裂かれていく。血が滲み出てくる。

 亀鬼は憤り、唸り、荒々しく《まわし》を掴んできた。怪力でチャヤの体が振られ、真横の壁に叩き付けられる。

 肺から一気に空気が吐き出された。


「がっ、ぁ、うぅぶっ」


 息を満足に吸う暇もなく、反対側の壁に、しかも体の前面を激突させられた。鼻血が流れ出、鼻水と混じって赤い糸を引く。溢れていた涙が流れていく。


 ――ぅ、うぅう、痛い、苦しい。


 力みからか、痛みからか、いつの間にかチャヤの両足に尿が伝っていた。


「チャヤちゃん! ち、ぐぅうう!」


 抜刀しているテランスは脱出を諦め、チャヤの援護をしようとするが好機を見出せない。マリーズもエタンも、目まぐるしく体勢が入れ替わるチャヤと亀鬼を前に、魔術も聖術も容易に使えない。

 手出しできず歯噛みしている三人の前で、チャヤの鳩尾みぞおちに拳が突き立った。彼女の悶絶に手応えを感じた亀鬼は、両腕で《まわし》を掴み、抱え上げていく。


 ――ぃ、いや、あ、ぁあ、ぁ……。


 情けなく足をバタバタと動かしたのもつかの間、背中から地面に叩き落とされる。つばと鼻血が飛び散った。

 倒されたことで《まわし》の加護による罰則ペナルティで、全身が痺れる。ビクリビクリと悶えているところに、腹へ亀鬼に足を振り落とされる。鍛えた腹筋に超重量が圧し掛かり、体の中が痙攣し始めた。


 ――負け……た……。


 ダメージが大きく、四肢に力が入らない。体が弛緩していく。下半身に違和感を感じ、そこでようやく自分が失禁していたことに気付いた。

 腹を圧迫されていることで、腸も押される。


 ぶふううっ。


 《まわし》の中で放屁し、間を置かず脱糞した。密着着が膨らんでいく。

 甲高いマリーズの叫び声が遠くに聞こえる気がする。

 また漏らした。前は一人で、角猪に恐怖して。

 今度は亀鬼に敗れ、みんなが見ている前で。

 悔しさと情けなさで流れた涙が地面に染み込んでいく。


 ――結局……強くなれてないの、私は?……この六年間の稽古は何だったの……。


 残る三人が亀鬼の視線を向けられ、臨戦態勢を取る。




「うちの弟子は、諦めるとどうして大きいほうまで漏らすのよ?」



 チャヤにとって聞き慣れた声が、怒りを含んで響いたのはそんな時だった。

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