一章 冒険者になります
弟子と娘と師匠
六年経った今でも《ヒカゼ流相撲拳闘術》を学ぶチャヤの真摯さは変わっていない。
だが、チャヤには常に高い壁がある。
師匠であるシオリ。そして、妹弟子であり、シオリの実娘であるサヤカだ。
少女たちにとって朝稽古は欠かせない。
長身のまま筋肉質な体つきに成長したチャヤと、それ以上に背が高く、また豊満なサヤカが取っ組み合う。
「『
「ふんんんっ!!」
チャヤとサヤカの技の応酬が続く。チャヤが相手の勢いを利用して地面から浮かそうとするも、巧みに足を運ばれ耐えられた。
まだ肌寒い春の朝にもかかわらず、二人の顔に汗が光っている。
「どうしたの、チャヤちゃん? 動きが悪いよっ!」
「ぷあう!? んあぁあっ!」
空へチャヤの悲鳴が響いた。
直後、《まわし》を引き寄せられて彼女は投げ飛ばされる。
視界の中で空と地面が数度入れ替わり、背中から叩き落とされる。庭の土が巻き上がり、ゴロリと転がってうつ伏せになった。地面に顔を埋める格好になって、《まわし》も稽古用の綿の運動服も土まみれだ。
体を起こそうと四肢に力を入れる。すると、這いつくばって稽古相手のサヤカへ尻を突き出す姿勢になり、背中の痛みでぷるぷると尻を震わせた。
「チャヤちゃんがその姿勢になると、あの怖いシスターさんにお尻ペンペンされてた光景を思い出すなぁ~」
「~~っ! はあはあはぁっ……言わないで……今でも夢に見るんだから……」
「それでおねしょ治るの遅かったんだ?」
「……ぅうう」
チャヤは投げ捨てられた悔しさを滲ませながら、首を振って
長身の自分よりもさらに背が高くて体格が良く、技が巧みで勝負勘が鋭いサヤカ。――これで二歳下なんて認めたくない。
十六歳の誕生日が近づく自分を笑い者にするサヤカをじっと睨んでいると、背後から何かが伸びてきて――。
「はいはい、今日はそこまで」
「ひゃんッ」
「痛っ……お母さん、お尻叩かないでよ!」
長い棒を手にしたシオリが椅子から立って、少女たちの稽古を切り上げさせた。
少女たちは尻を撫でながらシオリへ向き直る。特に娘であるサヤカは恨みがましそうだ。
そんな娘の視線を意に介さず、シオリは腕を組んだ。
「あんたたち、稽古中の私語が多い。特にサヤカ。十四にもなって、子どもみたいに頬を膨らませない」
「だって……」
「チャヤは相変わらず及び腰。サヤカのほうが体が大きいからって腰が引けてるわよ」
「すみません、師匠……」
「サヤカが怖いなぁ、って顔に書いてあるわ。戦う前から気持ちで負けてるのよ」
チャヤにとって師匠に叱られている時が一番つらい。
しゅんとうつむき、隣の年下の稽古相手に目をやる。
今では体格で追い抜かれてしまい、近年の稽古では負け越しが続くようになった。
今日も負けてばかりだった。
――私は師匠に呆れられていないよね……。
◇
春を迎え、チャヤがアロン一家に救われて六年が経った。
生まれ育った街を離れ、ここに定住するようになってからは四年だ。
あの時、一家が駆けつけたのは、慌てて街を出てくる孤児院のシスターに頼まれたからだ。
街道を南へ進んでいたアロン一家と、子どもたちが森へ行ったことに気付いたシスターとが会わなければ、チャヤの命は無かったかもしれない。
少女は幸運だったのだ。
とはいえその後、シスターにさんざん叱責された上、一家が見ている前で
しかし、その後の顛末は嵐が駆け抜けたようだった。
シスターとしては、一家とは孤児たちを助けてもらったお礼をしてそこまでだったはずだ。だが、チャヤが一家の母シオリ・アロンに「強くなりたい、強くなりたい」と粘ったため、大人たちは困惑した。
気弱でおねしょ常習娘のチャヤが、こんなに熱意を見せるのは初めてだったのだ。
数日間の話し合いの末、ついに根負けした夫妻はチャヤを引き取ることになった。と言っても、養子に迎えるわけではなく、あくまでシオリの弟子として《ヒカゼ流相撲拳闘術》を学ぶという名目だ。
今はアロン
――そう、今は父パテュースがいないのだ……。
◇
稽古が終わると、シオリは街の冒険者ギルドへ講師の仕事をしに行った。残った少女二人は水浴び前に庭の整地を始める。
街外れの小さな一軒家。
家屋の大きさの割に庭は広く、体の大きな少女二人が相撲拳闘術の稽古をするにも十分な庭だ。
レーキで土を均すサヤカが話しかけてくる。
「ね、チャヤちゃん、もうすぐ十六歳だよね……仕事って、どうするの?」
将来の話題だ。チャヤは箒を動かす手を止めた。
「……うん……やっぱり冒険者、かな」
「へえ、結局そうするんだ? 相撲拳闘術の先生になりたいんだって思ってた」
実の姉妹のようにあけすけに話す二人だが、将来の話となるとお互いに思うところがあり、口を濁すことも多かった。
「先生はサヤカちゃんのほうが向いてるよ。私より強いし、それに……お母さんはあの師匠だし。跡を継ぐんでしょ?」
「うーん……悩んでるんだよね」
「悩む?」
「それは、ほら、お母さんのこととか。最近、酔いつぶれてばっかりで……娘としては心配だよ」
娘。
その単語を聞くたび、チャヤの心に小さくない波が立つ。いつからだろう。
聞くたびに、サヤカには負けたくない、と思ってしまう。
たまらずチャヤは話題を変える。
「師匠は……今日もあの店で飲むのかな?」
「たぶんね。私たちのために働いてくれてるから、あんまり強く言えないけど」
「うん……」
そして、師匠シオリ。
居候の自分が来て食い扶持が増えたせいで、ギルドの講師なんて務めるようになってしまった。シオリは気にしないでと言ってくれるが、チャヤは申し訳無さでいつも胸が一杯になる。
本当は相撲拳闘術を極めて先生になりたい。だが、これ以上師匠に迷惑を掛けられない。だから、師匠に教えられた相撲拳闘術で戦う冒険者になる。
それがチャヤの決意だった。それに、冒険者になれば――。
◇
夜が更け、労働者たちが酒場へ繰り出す時間帯――。
チャヤとサヤカは三人分の夕食を用意したが、シオリはまだ帰ってこない。
食べ終え、食器も片付けたサヤカが「はぁ」とため息を零す。それを合図に二人は街へ向かった。
案の定、シオリが居たのはもはや顔なじみになった酒場だった。
少女たちは酔客にからかわれながらカウンターへ進む。すると、すっかり泥酔したシオリが突っ伏していた。
「
女主人に毎度の嫌味を言われ、少女たちはぺこぺこと頭を下げた。
サヤカが母の財布から銀貨を支払うと、二人はシオリの両腕を掴み、店から連れ出していく。
家路をたどっている途中、酒臭いシオリがサヤカに抱きついた。
「サヤカ~、サヤカ~、ひっく、可愛いサヤカ~」
「はいはい。お酒、本当に弱いんだから、なんでこんなになるまで飲むの? お母さん、しっかりしてよ」
「うる
「ああ、もう最悪。妖怪泥酔ババア」
「
夫を思い出してしまい、シオリは泣き出してしまった。
泣き止んだシオリをどうにか家に連れて帰れた。彼女をベッドに寝かしつけ、今日の夜の大仕事がやっと終わった。
二人はシオリの寝顔を見下ろして、大きく息を吐く。
「酔っぱらわなければ、いい母親なんだけどね」
「ここだけは尊敬できないよね、師匠は……」
少女たちが乾いた笑みを向け合うと、寝ているシオリが身じろぎした。
「パテュース……パテュース……」
寝言で出たのは、三年前に単独で依頼を受けて行方不明となった夫の名だ。
チャヤは思わず目を伏せた。否が応でもシオリの辛さが伝わってくる。
それはサヤカも同じで、母の頬を軽く撫でた。撫でながら口を開く。
「お母さんの為なら……私も覚悟を決めなくちゃね」
チャヤはその意味を尋ねようとしたが、思いとどまった。
唇を固く結んだサヤカが、母の寝顔を真剣に見つめ続けていたから。
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